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第十話 風になりてえなあ



 「柳川は逮捕されてない。確かだ」


 揺るぎない語調で須川は言った。

 不良たちによる放火事件から四日後の放課後、サークルメンバーが図書室へ集まるや、一発目の話題がこれだった。


「何で分かるの?」


 ノノグラムの解読用紙を広げながら鳴海が聞いた。あの一件以来、ただの一度も柳川の姿を見ていなかった。鳴海のいぶかる視線を、須川はいつものキザな笑顔で蹴散らした。


「オフィスの情報網をみくびってやないか? 誰が逮捕されたかなんて、須川オフィスのホームページ上で情報の提供を求めればすぐ集まるのさ。クラスから消えた不良を一人挙げればいいんだからな。事件後、柳川は三日前に顔を見せたっきり、登校してないらしいが……」


「それ聞いて安心だ」


 机の下で馬場が声をくぐもらせた。


「柳川にいなくなられたんじゃ、俺たちは誰に向けてこの拳を放てばいいんだ? え?」


「皮肉な話ね」


 暗がりの書棚から本を抱えて戻って来るなり、辻岡が冷ややかに言った。コンクリさながらの分厚い本は、埃の下に灰色の表紙をうずめている。


「いつも威張って廊下を闊歩して、我が物顔で中庭を占領した不良たちの一斉逮捕に、本当はみんなホッとしてる。もう廊下でツバを吐きかけられることもないし、下品なバカ笑いも聞かなくて済む」


「でも、何で柳川は登校しないんだろ? ……やっぱりトラウマか」


 縦に五マス塗りつぶすと、鳴海は自分に向かって質問し、結局自分で答えた。


「そういや、顔のアザは火傷痕だって言ったよな?」


 パソコンの起動音に声を乗せ、須川が聞いた。鳴海は無意識の内に鉛筆を置いた。


「うん……四歳の時、住んでたアパートが火事になったって。昼間だったけど、家には他に誰もいなくて……あいつ、逃げ遅れたらしいんだ。顔だけじゃない……肩や背中にはもっと酷い痕が残ってる」


 傷痕を手で覆い隠し、憤怒の表情で睨みつける柳川の姿が、鳴海の脳裏にはっきりと甦った。


「僕がたまに同情の目で見ると、柳川はすごく怒った。かけられる情けを、あいつは一番嫌っていたから」


「神経質な奴だな、ったく……」


 ちくわパンへかじりつく為に開いた馬場の口は、そのついでとばかりすげない感想を残していった。


「いや、あいつはまともだよ。見てる僕たちが無神経すぎたんだ。ずっと一緒にいた僕でさえ、あいつの気持ちに気付いてやれなかった」


 鳴海は机の下を覗き込み、須川と辻岡の足の間でパンを食らう馬場を笑顔で眺めた。


「馬場から教わったあのパンチで、今度は僕の気持ちを伝えたいんだ。だから、その時が来るまでちゃんと指導してくれよ、先生」


 膨らませた両頬の前に親指を立てると、馬場は深くうなずいてみせた。机の上に顔を戻した時、鳴海は驚きのあまり図書室の静寂を粉々に打ち砕いた。机越しに、一之瀬もと子が艶麗な微笑みを向けるのを見て、思わず叫んでいた。


「お久しぶりです、みなさん」


 あでやかな笑顔、つつましい口調、上等生地であしらわれたカーテンのような長い黒髪、そして手には黒革のカバン……彼女を包むすべてが『一之瀬もと子』その人を完璧に演出していた。


「ずっと来ないから心配してたんだよ」


 鳴海は身を乗り出し、声を弾ませた。


「すみませんでした。『ももたろう祭典』に向けた準備をしていたんです」


 ずっとカラッポだったその席に腰を下ろすと、一之瀬は笑顔で言った。


「年に一度のお祭り……私にとっては最後の学校祭ですから、そつのない催しに仕上げたくて」


「何やろうっての?」


 須川が聞くまでもないことを聞いた。


「占いです」


 一之瀬はニッコリ答えた。


「私、一人でも多くの方を占ってあげたいんです。ここ最近は宣伝活動の一環として、ポスター作りをしていました。でもこれだけじゃ物足りなくて……そこで、須川さんに相談があるんです」


「どっこい!」


 須川はむせるほど強く胸を叩いた。


「俺のホームページで宣伝してやるよ。それにさ、一之瀬さんの人気にあやかれば、オフィスのメリットになること間違いなし」


「ありがとうございます」


 一之瀬は輝く瞳で礼を言い、軽く頭を下げた。


「そういや、今は亡き先輩が言ってたな」


 机の下から顔だけ出すと、馬場が口を挟んだ。


「去年の催し物は、よく当たる占いの館が行列できるほど人気だったって。そこは唯一、入場するのに整理券が必要だったらしくて、先輩たちは偽装した券で金儲けしたとか何とか……」


 鳴海を含め、メンバー一同は事の真相を追求するような眼差しで一之瀬を見つめた。当の一之瀬は笑顔を絶やさなかったが、眉尻が若干下がった。


「ええ……事実です。私個人で出展していたものだったので、整理券は急きょ手作りした質素なものでした。ですから、誰にでも簡単に偽装できたんですね。あらかじめ用意しておいた券より200枚ほど多く出回っていたらしいですが、偽装してくれた人には感謝しています。おかげでたくさんの方々を占えましたし」


「でも今年はあなた自身の力で乗り越えなきゃね。偽装するような悪い奴らは、もうこの学校にいないんだから」


 辻岡の発言は、思いやりとも嫌味とも取れる不可解なものだった。本を読み耽る辻岡を前に、一之瀬の顔から初めて笑みが消えた。


「ずいぶんと不謹慎な言い回しですね」


 不穏な空気の流れの中で、鳴海はハッと息を呑んだ。居合わせた同じ空間で、この二人が笑顔で語り合うのを、鳴海は一瞬たりとも見たことはなかった。


「悪いことをして逮捕された奴らに、同情の余地なんかないわよ」


 一之瀬へ目も向けずに辻岡は言った。


「それとも何? あいつらに涙を流せとでも?」


「いいえ。彼らが後ろ指をさされるのは当然です。が、辻岡さん、あなたには相手を思いやる心が欠落しています」


 辻岡の目がギロリとターゲットを捉えた。その瞬間、鳴海も須川も、空気の読めない馬場でさえも口をつぐんだ。


「思いやり? 置いてきたわ、とうの昔に」


「どうかしら」


 辻岡のえぐるような鋭い視線に対抗するのは、頭蓋の内側まで見透かすような一之瀬の澄んだ瞳だった。


「あなたはただ、自分に怯えて強がってるだけ。素直さをひた隠して、自分に嘘をついてる。欠落した慈悲を、あなたはまだ手に持っているはずです」


「あたしの全てを見透かすような物言いはやめて」


 辻岡の語勢が強まった。口には出さないものの、一之瀬を見つめる辻岡の目は、薄気味悪いモノを眺める時のそれそのものだった。いつ止めに入るべきか、鳴海は二の足を踏んでいた。


「あなたもどっかの誰かさんと一緒ね」


 本の中にしかめっ面をうずめ、辻岡はくぐもった冷たい小さな声を吐いた。


「人のプライベートに土足でズカズカ踏み込んで、言いたい放題。それで人助けのつもり? カウンセラー風情の占い師が、やってることはただのおせっかいじゃない」


「はい、おしまい」


 終いには一之瀬が腰を浮かせたので、鳴海は急いで、しかし冷静にストップをかけた。本の頂から辻岡がねめつけた。


「睨んでもダメ。もっと面白い話をしようよ」


「例えば?」


 ヤリで刺すような口調で辻岡が迫った。鳴海は迫り来る危険から避難するように目を泳がせた。


「そういや、今年の猿役は久木らしいな」


 須川は愉快げに切り出したが、鳴海は訝しげに顔をしかめた。


「『ももたろう祭典』では、桃太郎一行に扮した代表生徒が校内を練り歩き、桃大福を配るのが昔からのならわしなんです」


 一之瀬が軽やかに補足すると、鳴海はますます強い疑念を抱いた。


「代表生徒を差し置いて久木が猿役って……どういうこと?」


「行進と銘打った、言わば巡回だろ」


 底意地の悪い笑みを浮かべ、須川はことさら大声で豪語した。


「動物役は着ぐるみを着て参加するんだが、久木は姿を隠して校内を監視するつもりなんだろうな。どこまでも意地の汚ねえ野郎だ」


「須川さん、その情報をどこで?」


 険悪な雰囲気を調和するのに、須川がこの話題を持ちかけたのはどうやら正解だったらしい。一之瀬の食いつきは中でも一番だった。


「俺が独自に調べたんだ。『ももたろう祭典・運営委員会』に直接聞いてみたから間違いない。面白いことにその委員会、過去には『桃太郎サークル』と呼ばれていたらしいな」


 須川がメガネのレンズ越しにじろりと鳴海を見た。鳴海は胃袋がしぼんでいくのを感じたが、目だけは逸らすまいと平静を装った。


「『桃太郎サークル』が廃止されたのは20年前、ちょうど黒葉って生徒が行方不明になったその年だ。最初、お前確かに俺に言ったよな、『桃太郎サークルが復活した』、『契約した』って。お前まさか、その黒葉と契約したん……?」


「考えすぎよ」


 辻岡がいかにも無関心っぽい声色で須川の話を絶ち切った。須川は少し驚いたように辻岡を見たが、後はどこか物足りなさそうな表情でパソコンを眺めるだけだった。かたわら、鳴海は安堵のため息を漏らした。


「須川さん、もう一つお願いしていいですか?」


 一之瀬の顔は真剣そのものだった。須川は気負いしたようにただうなずいた。


「祭典当日までに、桃太郎一行の行進ルートを調べてもらえませんか? その他、待機場所や休憩時間など、どんな些細な情報でも結構です」


「何かあるの?」


 鳴海が何気なく聞いてみた。一之瀬の顔に笑顔が戻った。


「私、彼らの配る桃大福が大好きなんです。休憩時間が重なったらもらえないじゃないですか」


 時間がのんびりと過ぎていった。鳴海は着実に仕上がりつつあるノノグラムを上から見渡し、みんなの前に用紙を掲げて微笑んだ。


「解読率が40%を超えた!」


「まだやってたんだ、それ」


 辻岡はいかにも退屈げな面持ちで用紙を覗き込んだ。


「おあいにくさま」


「全体像を見せてもらってもいいですか?」


 鳴海は真向かいに座る一之瀬に解読用紙を掲げ、40%の出来栄えを誇るように胸を張った。一之瀬は穴の開くほど用紙を見つめていたが、やがて首を傾いだ。


「どことなく……風景のように見えますね。滝のような、川のような」


 虫食いだらけのまばらな絵に向かって一之瀬は囁いた。鳴海は元の向きで用紙を机に置き、自分も覗き込んだ。


「風景? 僕には人物に見える。見えるというより、こう、ぼやぁっと浮かびあがってくるような……どうしたの?」


 何か思い立ったように、一之瀬は用紙に瞳を据えたまま、音もなくフワリと立ち上がった。


「何か分かったのか?」


 分かるはずないとばかり、須川がキーをバンバン叩きつけながら無関心っぽく聞いた。


「いえ、ちょっと用事を……約束を思い出して」


 一之瀬は慌ただしく荷物をまとめると、去り際に須川を振り返った。


「須川さん。宣伝、よろしくお願いしますね!」


 満遍のない笑顔と玉のように弾んだ声を残し、一之瀬は図書室を去っていった。三人が呆然と互いの顔を見合う中、机の下から這い出てきた馬場があくび混じりに伸びをした。腰からポキっと折れそうだ。


「どうだ、鳴海。必殺の一撃パンチはものにできたか?」


 猫パンチのような拳を繰り出しながら馬場が聞いた。


「さあね。試しに殴ってみないと分からないよ」


 鳴海は笑ったが、言うほど誰かを実験台にしたいとは思わなかった。自分の手で人を傷つける恐怖心……拭いきれない罪悪感がまとわりつくのではないかと、そればかりが気がかりだった。


「一度、おじさんに見てもらった方がいいかもな」


「えっ、おじさんって、あのおじさん?」


 鳴海は思わず聞き返していた。興奮のあまり声に熱がこもった。


「そう、あのおじさん」


 馬場がほくそ笑んだ。


「今度の日曜、どうせ暇だろ? おじさん邸に押しかけようぜ!」


「おい、俺も行くぞ。前々から話を聞いてて、一度会ってみたいと思ってたんだ」


 レンズの奥で光輝する須川の瞳は、溢れるような好奇心で満たされていた。


「あたしも行くわよ」


 本を投げ出し、机に両手を着くと、辻岡はズイッと体ごと乗り出した。


「絶対行くわよ」


「分かった、分かったから、本の続きを読んでくれ」


 馬場の顔から含み笑いが消えた。辻岡から何か危機迫るものを感じたらしく、それは鳴海も同じだった。


「そいじゃあ、日曜日の正午、学校前の公園に集合な。そこからバスに乗るのが一番早い」


「オッケー」


 三人は息もピッタリ、快く了承した。サークル始まって以来、最高の団結力である。


「おじさんは気さくで元気モリモリな男前だけど、クセがあるから気をつけろよ」




 待ち遠しい日曜日はあっという間にやって来た。

 抜けるような西の青空に飛行機雲が伸び、気温は涼しく風は穏やか。絶好のお出かけ日和だ。公園へ赴く鳴海の歩調が軽快なのは、おじさんへの期待と関心が上々である一方、サークルメンバーと……特に辻岡可憐と学校外で会うことに気分が高揚しつつあるからだった。

 鳴海は一張羅の上下黒のジャージでバッチリ決め込んだ……つもりだった。

 学校前の公園は質素な作りだった。しかるべき遊具が整然と並べられ、かたわらには使い古されて風化したベンチが雑草に紛れて地面から生えている。そこに一人、ベージュ色のシックなワンピース姿の女の子を見つけると、鳴海の動悸がグンと加速した。


「やあ」


 平穏な沈黙は鳴海の上ずった挨拶で破られた。辻岡は顔を上げ、見覚えのある白い本から鳴海へと視線を移動させた。その瞳孔は下から上へと舐めるように鳴海を観察した。


「カッコイイわね、そのジャージ」


 辻岡は出し抜けに言ったが、言葉に感情はなく、ほとんど気慰めのようだった。


「学校で会うのとは違うね、やっぱり」


 鳴海はボーっとした頭で言葉を並べた。褒め台詞のつもりだった。


「よう、早いな二人とも」

 

 後方から声がかかった。鳴海が振り向くとまず、ゴリラの顔面をシワの一本までド迫力に刺繍したTシャツが視界に飛び込んだ。七分丈の短パンからは骨と皮だけの足がひょろりと伸び出ている。そのラフなスタイルこそまさに、馬場のラフさの象徴だった。


「やる気満々じゃねえか、鳴海」


 ジャージ姿の鳴海を見つけるなり、馬場は嬉しそうに言った。


「だろ? ところで、須川遅いな」


 鳴海は即座に話題をねじ曲げた。辻岡の前で、この姿を皆に誇れる最高のファッションセンスと悟られるのはイヤだった。手元の白い本に視線を落とすと、辻岡が口を開いた。


「あと10分は来ないわよ、きっと」


 10分後、現れたのは鳴海の知らない誰かだった。両耳にイヤホン、首にクロスのチョーカー、手首にごてごてしたブレスレットと金の派手な腕時計で装い、タイトで漆黒の装いはホストさながらだ。貴金属にまみれた体は空の太陽よりもまばゆく、何といっても極めつけは銀縁のメガネである。


「チャらい」


 辻岡は指まで差して吐き捨てた。


「お前、何か勘違いしてねえか?」


 閑静な公園にはそぐわない風貌の男に向かって、馬場が真顔で指摘した。前髪を掻き上げ、須川はいつもの何倍もキザに笑い飛ばした。


「行き先がコンビニでもな、俺に360°死角はない」


 お望みどおり、まず一行の向かった先はコンビニだった。中に入ると、訳もなく仏頂面の真田が四人を出迎えた。


「ジャージとワンピースは許す。取り立て屋もギリギリオッケー。だがゴリラはダメだ」


「俺は人間だぞ!」


 馬場が豪語するかたわら、須川は大声で笑い飛ばしていた。


「何しに来たんだよ」


 鳴海がおにぎりの中身で悩んでいると、馬場と真田の会話が聞こえてきた。


「これからおじさん邸に行くんだ。繋ぎの飯でも買おうと思って」


「このメンツで? 見慣れないのが二人いるな」


「みんな友達だ。羨ましいだろ」


「……ああ」


 鳴海が商品をレジへ持っていくと、真田は黙ってそれらを受け取った。


「見捨てないでやってくれ、相棒」


 合計金額を言う代わり、真田は神妙な面持ちでそう囁いた。


「えっ? どういうこと?」


 やぶから棒に何を言い出すのかと、鳴海はとっさに真田のニキビ顔を覗き込んだ。同時に、失くしたサイフ代わりのガマ口から小銭を取りこぼした。真田の視線がパンの陳列棚を物色する馬場へと移った。


「不良ばっかとツルんでたあいつが、グランドアクシスのケツにお前を乗っけたあの日をきっかけに、何かが変わり始めた。ケンカが弱くて逃げ腰で、不良の間ではいつもパシリばっかで……そんなお前たちを、友情にはズボラだったあいつが友達と呼んだ。だから見捨てないでやってくれ、馬場のこと」




「真田と何話してたんだ?」


 バスの一番後ろの座席を陣取ると、さっそく馬場が聞いた。


「まあ色々と。世間話だよ」


「鳴海って世間話できたっけ?」


 須川が白々しく驚倒した。一行を乗せたバスが快活良く走り出すと、須川が窓際の辻岡へ話しかけた。


「ねえ辻岡さん、今度俺と遊ばない?」


 鳴海は飲んでいたお茶をそっくり吐き戻した。小うるさいバスのエンジン音が響く只中、鳴海はせっせと耳を澄ました。


「何で?」


 辻岡は素っ気なかった。鳴海の焦りは若干和らいだ。


「何でって、仲間意識の向上と、友好関係を築くためさ」


 余裕の笑みは片時も崩さず、須川はめげずに続けた。


「じゃあ鳴海とデートすれば? ノノグラムデート」


「ハハ……悪くない」


 バッグから取り出した白い本を膝の上に置き、辻岡は眼前の背もたれを見据えた。


「別に須川を嫌いなわけじゃないのよ。ただ、二人っきりってのはちょっとね……」


 辻岡の物憂げな横顔と移ろう景色を眺めながら、鳴海は彼女が抱えているであろう、その秘密を模索していた。鳴海はもちろん、サークルメンバーは誰一人として辻岡の素性を知らない。あの日図書室で、一之瀬は辻岡の過去を見抜いていたのだろうか?

 一行を乗せたバスは穏やかな初秋の街並みを抜け、川をまたいだ大きな橋を渡ってある町へとやって来た。コンビニで調達したおやつも会話のネタも底を尽き、各々がだんまりしていたそんな頃、バスはようやく目的地へ到着した。

 バスを降りると眼前に、殺風景な家並みに紛れて巨大なお屋敷がたたずんでいた。見事な赤松が手入れの行き届いた高い生垣を見下ろし、風情ある木造の門構えが悠然と鳴海たちを出迎えてくれた。


「そっちじゃねえよ」


 尊敬の面持ちで屋敷を眺めていた三人はすこぶる面食らった。馬場は屋敷のすぐ隣、中でも飛びきり小ぢんまりとした平屋の前に立って三人を手招きしていた。お屋敷の倉庫とせいぜい肩を並べるそれは、禿げた瓦屋根をかぶり、ひび割れた窓を飾り、お隣の生垣に負けじと、外壁には黒ずんだコケをびっしりまとっている。

 押し寄せる不安を、鳴海は振り払うことができなかった。


「見ろよ。ずいぶん控えめな人らしい」


 今にも崩れんばかりの建物を見上げ、それでも尊重の意思を忘れまいと須川が囁いた。家の前には荒い砂利が敷かれ、赤緑の風車が一本、吹かない風を待ってそこに立っている。馬場は膝丈ほどの風車の脇を通り、ドアらしきものの前まで突き進んだ。


「おじさーん! 出番だぞー!」


 返事はなかった。馬場は構わずドアを開けた。


「いいの? 入っちゃって?」


 背後から恐る恐る鳴海が聞いた。


「いいさ。いつも開いてる」


 三人は馬場の後をついて家の中へ入った。昼間でも薄暗い玄関は埃っぽく、色あせてくたびれたサンダルが無造作に放り出されている。鳴海は明かりをつけようと壁をまさぐった。


「電気ねえよ。止められてっから」


「嘘でしょ」


 辻岡が打ちのめされたように馬場を見た。鳴海は思わず引きつり笑いの須川と目を合わせていた。


「大した倹約家なんだろ」


「だといいけど」


 鳴海は今や言い知れぬ不安で満たされ、心には不信感が募った。


「みんな、靴を手に持って上がってくれよ。たぶん上にいるはずだ」


 三人は怪訝な顔を見合わせた。平屋の“上”とは、屋上のことだろうか?

 鳴海は目の前のカビ臭いのれん風の仕切りをくぐり、靴片手に居間へと足を踏み入れた。開けた視界の先は整然とした部屋だった。中央には熱のこもらないコタツテーブルが置かれ、かなり落ち着いた様相だ。しかし、それは片付いているというより、散らかすための物が不足しているように見えた。


「みんな質屋に入れたんだ。テレビも冷蔵庫も電子レンジも」


「電気アレルギーらしい」


 須川のフォローも限界らしかった。鳴海の思い描いていたおじさん像は、何もないカラッポの部屋の中で完全にリセットされてしまった。

 四人は居間の奥にある和室へとやって来た。鳴海は入ってすぐ、天井へと続くハシゴに気付いた。壁際にぶら下がるそれは、細いロープを結んだだけの質素な造りで、和室にはとても不釣り合いな代物だ。見上げると、切り取られた青空が雲を浮かべているのが見え、ハシゴは屋上まで伸びているらしかった。馬場はもう何も言わなかったが、背中で「ついて来い」と語り、靴を持ったまま器用にのぼっていった。

 開かれたハッチから頭を突き出し、顔いっぱいに秋の涼風を浴びた時、鳴海は肝を潰すような光景を見た。目の前に広がっていたのは畑だった。それも花畑ではない、野菜畑だ。だだっ広い屋上の半分以上を占め、トマトやキュウリ、かぼちゃ、季節外れのスイカまで植わっている。

 一際背の高いトウモロコシ畑の向こう側に見え隠れするのは、間違いない、小型のテントだ。尖ったてっぺんに白黒模様の風車が取りつけてある。


「おじさーん!」


 馬場が呼ぶと、薄汚れたカーキ色のテントが反応するようにモゾモゾ動いた。しばらく後、みすぼらしい身なりの男がテントから這い出てきた。


「行こうぜ」


 四人はレンガで区切られた狭い畑の合間を縫うように進んでいった。トウモロコシ畑を抜けると、隣のお屋敷を見下ろす一人の男が、今度ははっきりと視界に入った。肩まで伸びたボサボサの髪を後ろで結い、古風な麦わら帽子をかぶり、焼けた小麦色の首筋に巻き貝のネックレスをぶら下げ、細身の体には暗緑色のボロ切れをまとい、足元はなんとゲタだ。


「待ってるんだ、風を」


 鳴海はドキッとした。鳴海が知りたかったことを、男はしわがれ声を響かせ、おもむろに答えたのだ。哀愁の漂うその小さな猫背から、鳴海は片時も目が離せなかった。


「風なら吹いてるじゃん、すげえ弱いけど。それより友達を……」


「違うよ、タツ」


 男の声が大きくなった。あらゆる苦行を乗り越えて来た者の、年季入りの声だった。


「俺は自然の恩恵を尊重するけど、ただの風じゃ意味がない。俺が待つのは、俺を呼ぶ風の声さ」


 風車が特別強く回転する様を、鳴海は見逃さなかった。下駄特有の快活な足音を鳴らし、男が四人を振り向いた。削げ落ちた頬に無精ひげが茂り、口元は嬉しそうに微笑している。宝石のように輝くつぶらな瞳は、その貧相な風貌にはあまりにそぐわない。

 『カッコイイ』と、鳴海はただそう感じた。


「やあ、おじさんだ」


 五感で得られる全ての情報を楽しむように、おじさんが気さくに挨拶した。


「畑で野菜を育てるのが趣味でね。庭ではお米を作ってるけど、大したもんじゃないよ。今は屋上での野営生活を満喫中さ」


 三人はそれぞれ名乗り、加えて会釈した。その間も、おじさんはずっと笑っていた。


「いい名だ」


 一人ひとり見やりながらおじさんは言った。


「自分の名は両親から受け継いだ愛であり、意志であり、そして期待でもある。けど誰も、自分の名にあやかって生きることを望みはしない。なぜだと思う?」


「……そこに自由がないから」


 辻岡が答えた。説得力のある口ぶりと面持ちは、おじさんを更に笑顔にさせた。


「正解はない。ただ、俺の意見とピッタリだ。俺は、俺を縛り付けるあらゆるものを拒絶し、そこに自由を求めたんだ。思い出は忘れた……金のかかる物は手放した……名前は捨てた」


「自由のためにそこまで出来るなんて、あなた一体何者?」


 臆することなく須川が聞いた。


「ただ目的が違うだけで、生きているという点では君たちと同じ人間さ。そうだろ?」


 おじさんは余裕の笑みで答えた。おじさんからすれば、世俗的な須川の容姿は流行に縛られた愚かな生き物に見えていたに違いない。


「ただ、何かを自由と表現するには、あまりにも幅が広すぎる。なぜなら……」


 空を仰いだり、畑を一通り眺めたりしながら、おじさんは優雅に続けた。


「自由っていうのは、言わば幸福の象徴だ。俺にとっての幸福は完全自給自足の、世の喧騒から隔離された何もない暮らし……だが時代は変わった。時間の束縛さえも受けない僕のような生活を、世間では自由と呼ばない。むしろこの生活は不自由だ。家の中を見ただろう、あれがその答えさ。自由を買うにはお金がいる……この矛盾に立ち向かいたいからこそ、俺は風を待つんだ」


 おじさんはやおらテントへ近づき、てっぺんで悠々と回り続ける風車を仰いだ。


「風になりてえなあ。風になって、世界中を飛び回りたいよ」


「俺にグランドアクシスを譲らなけりゃ、おじさんは風になれたかもよ」


 馬場はニヤッと笑いかけた。


「あいつとの旅は俺の夢だ。俺にとっての夢は、俺にとっての幸福には結びつかないよ。さてさて、話には聞いていたけど……」


 おじさんは再び四人を振り返った。子供がおやつを品定めするような、無邪気な笑みを称えている。


「どいつもこいつも、実に面白い」


 おじさんはぶっきら棒に言い放った。


「個性が豊かすぎてまとまりがない。どうだ?」


「まあ、そんなとこ」


 馬場が考えながら言った。


「友人絡みというより、一つのチームが完成してる。どうだ?」


「アタリ」


 須川が続いた。


「仲間意識が強く、友情関係は熱い。どうだ?」


「ハズレ」


 辻岡が無愛想に答えた。おじさんの楽しむような目が自分を捉えた瞬間、鳴海は慌てて風車へと視線を動かした。


「偶然性はない、このメンバーは必然的に君が集めたものである。どうだ?」


 みんなが自分を見つめていた。気恥かしさを振り払い、鳴海はうなずいた。


「はい……正解」


 鳴海が消え入るような声で答えると、おじさんはクスクス笑ってまた一人ひとり眺めた。


「チームにしちゃあ、結束の弱いお粗末なシロモンか。一体何企んでる?」


「実は、倒したい……というか、改心させたい奴がいるんです。元々は僕の友人だったんだけど……あなたに会いに来たのもそのためで」


「おじさん秘伝の一撃必殺パンチを見てやってほしいんだ」


 鳴海がかいつまんで説明し、馬場がバトンを受け取った。おじさんのキョトンとした顔が馬場を見上げた。


「一撃必殺? タツ、話を大きくしすぎだよ。俺が教えたのは、思念を恨みのない力に変えて、大切な人のためだけに使う拳の突き方だ。ただの殴り合いじゃ憎しみが生まれるだけだろう」


「恨みさえなければ暴力は認められるっていうの? そんなの屁理屈よ」


 出会って十分も満たない人間を相手取り、辻岡がいつもの調子で物申した。


「大切な人のために使う力を、なぜ屁理屈だと思うんだい? 互いに分かち合うためのケンカを、僕は暴力とは思わない」


「綺麗事ね」


 所在無げに前髪をいじりながら、辻岡は冷たく吐き捨てた。そんな彼女に、おじさんは朗らかに笑いかけた。


「弱いくせにでしゃばりだね、君」


 まばたき一つ終わらない内に空気が凍りついた。指に巻き付けた前髪の奥から辻岡が睨んだ。


「それとも、弱さを隠すための強がりかい? 何怯えてる?」


 辻岡はただおじさんを睨むばかりで、何も口にしなかった。無闇に反論して揚げ足を取られるのではと、警戒しているように見えた。


「君……カレンだったよね。否定して、悲観して、二コリともせず偉そうで。いつからなの、笑わなくなったのは?」


 辻岡はだんまりを決め続けたが、おじさんを見つめる瞳からは鋭い眼光が消えていた。ゲタを踏み鳴らし、おじさんはトウモロコシ畑の一角に手を伸ばした。そして一本もぎ取ると、外皮を剥いて豪快にかじりついた。太陽の色に熟したトウモロコシは、おじさんが食べると尚更おいしそうに見えた。


「俺に君を救う義理はない」


 汚れた袖で口をぬぐうと、おじさんは遠くの空に向かって物悲しげに言った。


「だが、君自身が変わろうと思うなら、あるいは素敵な風が吹くかもしれない。誰かを好きになれ、カレン。犬でも猫でもクラスメートでも……その存在がきっと、君を救ってくれる」


 辻岡はバッグの紐を固く握り締め、唇をキュッと結んだ。何か言いたげな素振りも、結局おじさんには届かなかった。


「そして、実に面白い……仲直りするためのケンカか」


 おじさんは心底ワクワクするような眼差しで鳴海を見つめた。


「勝ち方ってのは色々だが、自分の思いを拳に託して、ストレートにぶつけるやり方が一番伝わりやすい。そして、これは難しい手段じゃない。人間なら誰にだってできることなんだ」


「俺にも?」


 馬場が即座に食いつくと、おじさんは深くうなずきかけた。


「心があれば誰にでもできる、気慰め程度の産物だ。だいたい、世の中は何事もムキになったら負けるようにできてる。気張らず、無理せず、背伸びせず、ありのまま素直に生きてる奴はかっこいい。おかしい時は笑い、腹が立ったら怒り、悲しい時は泣けばいい」


 気まぐれの秋風が小躍りするように現れ、おじさんがまとうボロキレをフワリとなでて畑を通り抜けていった。こんなに風の似合う男を、鳴海は初めて目の当たりにした。


「タツ。カレンとレンタをつれてイモ掘ってきて」


「えーっ! 内緒話かよ!」


「川で冷やしてあるスイカ食わせてあげるから、な?」


 馬場はそう易々とスイカに釣られはしなかったが、結局は二人をつれてテントから離れていった。鳴海はあまりに唐突な展開に戸惑ったが、おじさんは構わずトウモロコシをガツガツ頬張り続けた。


「あの……」


「大好きだろ。カレンのこと」


 鳴海はとっさに辻岡の方を振り向いた。一番遠くの畑で、馬場と須川がせっせとイモ掘りするのを退屈げに眺めている。


「何言い出すんですか、急に!」


 鳴海は声を落としてがなった。おじさんは愉快そうに鳴海を見た。


「カレンを見る時のカズタカの目がそう言ってる。好きで好きでたまらない、と」


 鳴海は耳たぶまで熱くなるのを感じた。やたらと目が乾いた。


「おそらく、カレンはその事に気付いてる。が、あの子には分からないんだろうな、どうしていいのか」


「迷惑に思ってるってこと?」


 胸の内側でざわめく不安を、鳴海は言葉に乗せて聞いてみた。


「違う……とは断言できないけど、あの子は見た目ほど器用じゃない。器用じゃないが繊細だ。そのせいで常に気が立ち、個人的なことに首を突っ込まれるのを嫌ってる」


「どうして分かるんですか?」


 鳴海は驚いて尋ねた。一之瀬もと子も真っ青な洞察力だ。


「長く生きてれば、見たくないものでも見えてくるものだよ。たぶん、カレンは愛し方を知らないんだろう。慈悲、思いやり、まさしくそれだ」


「……それでも僕、辻岡さんが好きだ」


 口に含んだ声で、しかし鳴海ははっきりとそう言った。


「あの子を助けたい。そして……柳川も絶対に」


 高揚した気分が血液を沸騰させ、体温をみるみる底上げしているようだった。この湧き上がる自信がどこから来るものなのか見当もつかなかったが、もうそんなことはどうでも良かった。

 大好きなあの子のために、そして、大切なあいつのために、遠慮する力などどこにもありはしなかった。


「じゃ、もう教えることは何もないな」


 おじさんは満面の笑みでトウモロコシを食べ終えた。


「えっ、でもまだ必殺のパンチが……」


「もう持ってるじゃないか」


 口角に食べカスをぶら下げながら、おじさんはニコッとほほ笑んだ。


「カレンを守ってやれ、鳴海和昂」


 その時、北の空から急に荒々しい風が吹いた。風車が音を立てて激しく回転し、テントが波立ちざわめいた。


「いい風だ」


 帽子を押さえ、おじさんは全身で風を受け止めた。ちょうど、家の庭にあたる方角から風が吹いている。軽快にゲタを踏み鳴らしながら、おじさんは屋上の縁に飛び乗り、庭を大きく眺めた。

 鳴海も後につられて庭を覗き込んだ。その瞬間、鳴海は言葉を失った。眼下に広がるのは隣のお屋敷どころの騒ぎではない。地平の彼方まで続く黄金の麦畑が、鳴海の視界を完全に覆い尽くしていた。

 おじさんの伸ばした両手が、風を味方に今にも空へ舞い上がりそうなたくましい翼に見えたのは、きっと鳴海の気のせいではないはずだ。


「嗚呼、風になりてえなあ」




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