表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/14

第一話 桃太郎サークル復活だ!

初めまして、南の二等星です。

『桃太郎サークル』に足を運んで下さり、本当にありがとうございます!

更新は不定期となりますが、7日~10日を目安に考えております。

 鳴海和昂(なるみかずたか)は走っていた。


 放課後の静まり返った廊下は閑散としている。頬をかすめる湿った空気も、内耳に滑り込む風を切る音も、瞳を照らすその紅い西日さえ、今の彼にとってはひどく滑稽だった。

 長い前髪が目に触れ、こめかみをかすめる。疲れが足の感覚を奪い、床が吸い付いてくるような錯覚に焦りを感じた。

 このままではダメだ、どこかに隠れるしかない。焦燥感が脳みそへ直に語りかけた。

 どこかに置いてきたしまった意識が、ふと鳴海の元へ戻って来た。その意識が、普段は滅多に立ち寄らない一階廊下の端まで来てしまったことを教えてくれた。

 前方の暗闇にひっそりたたずむのは、おぼろに浮かび上がるドアの輪郭だった。

 あそこへ飛び込むしかない……鳴海はとっさにそう思った。

 勢い余ってドアに激突しながらも、鳴海は汗ばむ手でドアをスライドさせ、自ら飲み込まれるようにして教室の中へと倒れ込んだ。舞い上がった埃を胸いっぱいに吸い、激しくむせながら、鳴海は後ろ足でなんとかドアを閉めた。

 沈黙が鳴海を包み込み、同時に心身は安堵していった。暖かなオレンジ色の陽射しが部屋を満たし、開け放たれた窓がいざなう涼風は夏の終わりを告げるようだった。鳴海は汗でねっとりと額にくっついた前髪をかき上げ、安息の吐息を漏らした。


「ご苦労さん」


 鳴海の体が宙へ飛び上がった。声の聞こえた方を振り向くと、机や椅子、掃除用具などが乱雑に積み上げられた教室の一角がはっきりと視界を覆った。粗末な風景に姿を溶け込ませるのは、一人の陰のような男だった。


「誰……ですか?」


 警戒心を盾に、鳴海は震える声でそっと尋ねた。男はまばゆい西日を背に、教室中央に無造作に置かれた教壇の上であぐらをかいている。


「そう怖がんなよ。俺は敵じゃない。味方でもねえけどな」


 逆光で男の表情はさっぱり読み取れなかった。だが、身にまとっている物がこの高校の学ランであることや、顔を上げ、妖美に輝く二つの瞳をこちらにまっすぐ向けていることは間違いなかった。

 そして不思議なことに、この男からはまるで人としての気配を感じない。本当に影のような男だった。


「誰なんですか?」


 鳴海はやはりそれを繰り返した。男は膝の上に肘を立て、気だるそうに頬杖をついた。


「俺の名は黒葉。下の名前は……失くした」


 遠くの彼方からぼんやりと響いてくるような声だった。


「名前を失くしたって?」


 鳴海はますます警戒し、同時に疑念を抱いた。


「失くして都合のいいものだってあるんだ、世の中にはな」


 鳴海は眉を潜めた。自分の名前を失って都合がいいことなど、この世に有りはしないと思えた。


「今度は俺の番。君の名前を教えてくれ」


 幾分、黒葉の声がはっきりと聞こえるようになってきたものの、不信感は止めどなくつのる一方だった。


「鳴海……和昂。一年一組」


 乾いた喉から出てくるのは、かすれるような情けない声ばかりだ。


「いい名前持ってんな。誕生日に欲しいくらいだ」


「あの……もう帰ってもいいですか?」


「ダメだ」


 丸く穏和だった黒葉の瞳が、睨みつけるように細くなった。


「俺の質問に答えてもらう。それまでは絶対に帰せない」


 この男も不良の一味に違いないと、鳴海はようやく理解した。そうでなければ、この体が恐怖と不安による拒絶反応を起こすはずがない。折しも、膝は震え、指先から汗が噴き出るのを感じた。


「ずいぶん焦ってたみたいだな。誰かに追われてたのか?」


「えっと……そんなところです」


 考え耽るのにしばし沈黙した後、鳴海はか細い声で答えた。


「いじめられてるのか?」


「ええ、まあ。この学校も、僕で憂さを晴らそうとする人たちばかりみたいで」


「彼らに同情するね。お前見てるとムカツクし」


 鳴海が苦笑すると、黒葉の目も笑った。


「すいません。みんなからよく言われます。親にも」


 引きつった笑顔のまま鳴海は言った。


「笑うな」


 黒葉の語気が強まった。鳴海はもう笑わなかった。


「そうやってヘラヘラしてると、頭スッカスカのバカだと思われるぞ」


「そのとおりです」


「否定しろよ」


「すいません」


「俺に謝るな」


「はい」


 静寂が辺りを満たし始め、時間の流れがとても鈍く感じられた。

 風は止み、黄ばんだカーテンは天井から無気力にぶら下がっている。漆黒の影のような黒葉の顔から、白い歯がこちらを覗いていた。


「なぜいじめられると思う?」


「うーん……」


 鳴海は考えるフリをした。分かり切った答えを即答するのは、何だかとんでもなく気が引けた。


「僕が弱いから……とか。頭悪いし、運動オンチだし」


「違うな。それじゃあ全国の頭の悪い運動オンチの人に失礼だ。いいか、鳴海。お前が立ち向かわないからだ」


 身を乗り出す黒葉は少し楽しげで、声はどこか弾んで聞こえた。鳴海は唾を飲み込んだが、彼の言葉は呑み込めなかった。


「何も分かってないんですね。できることならやってますよ」


 黒葉はこめかみ近くで指を振り、チッチッと舌を打った。


「俺なら、お前にそのチャンスを提供できる」


 言って、黒葉は左手に広がる白濁した黒板を……その中央に貼られた一枚のポスターを指差した。この学校の由緒ある伝統祭、『ももたろう祭典』のポスターがそこにあった。

 鳴海はポスターへと視線を流し、更なる疑心を込めて黒葉を見つめた。


「己の弱さを自覚する者なら、誰だって理想にしがみつくもんさ」


 ポスターの中でたくしましく行進する桃太郎一行を眺めながら、黒葉は小さく儚い声でそう言った。


「僕が桃太郎みたいになれるって、そう言いたいんですか?」


「“みたい”じゃねえ、本物だ。家来を引き連れて、鬼を退治する英雄になれ」


「そんな……無理です。というより無茶です」


 鳴海は脳が揺れるほど激しく首を振った。


「できるさ」


 自信みなぎる黒葉の一言は、鳴海に二の句を継がせなかった。


「理想に憧れた者は誰だってみな、桃太郎になれるんだ」


 鳴海に反論する手立てはなかった。どうやら黒葉は本気らしい。揺るぎなくまっすぐ自分を見つめるその眼差しが、彼の熱意を物語っていた。


「僕……すみません、やっぱり帰ります」


 自分のカバンを持つと、鳴海は逃げるように背を向け、入ってきたドアの方へ向かって歩み始めた。


「待て」


 呼び止められるかと懸念したが、やはり呼び止められた。


「忘れモンだ」


 鳴海は取っ手に指先を引っ掛けたまま、自らの肩越しに振り返った。黒葉が細いアゴで指すのは、埃っぽい床に無様に打ち捨てられた一つの学生カバンだった。


「僕のじゃない。……さようなら」


「いつでも待ってるぞ」


 黒葉の最後の言葉を漠然と耳にしながら、鳴海はその教室を後にした。

 ひと気のない夕陽を帯びた廊下を、鳴海は黙々と進んでいった。そして、足を一歩踏みしめる度、桃太郎のようにたくましく、強くなる自分をはっきりと想像できるようになっていった。

 黒葉の真意は不明だが、鳴海に未知の活力を与えたのは確かなようだ。しかしこの高揚した気分は、鳴海の前に一人の男子生徒が現れたことによって大きくついえた。生徒は目の前の階段を駆け下りてきた直後だった。


「……鳴海?」


 肩で息をしながら、生徒はゆっくりとその名を呼んだ。それは、顔の左半分に赤く大きな火傷跡を抱えた鳴海の友人、柳川拓真だった。


「……柳川」


 柳川拓真(やながわたくま)。火傷跡を理由にいじめられ続けている。鳴海とは小学校からの付き合いだ。


「まだいたんだ。帰らないの?」


 鳴海が声をかけた。顔の火傷跡が、夕陽を受けて燃えているように見えた。


「うん、カバンがね……。俺のカバン、どこかで見なかった?」


「知らない。なくなったの?」


 鳴海は柳川の大儀そうな表情に向かって尋ねた。


「トイレから戻ったらもう。大切な本が入ってたのに。……そういえば、教室から男子が走り去るのが見えたけど、誰かは分からなかった」


「一緒に探そうか?」


「いい。俺一人で探せるよ。経験上、どこにあるかくらいすぐ分かるから」


 鳴海と同じくらい小柄な柳川が公園の山ほど壮大に見えたのは、どうやら気のせいではないらしい。鳴海も柳川も、既にこういう事態には慣れっこだった。いじめられる者同士、互いに数々の苦難を乗り越えてきたのだ。これくらいのアクシデントに動じたりなどしない。


「じゃあな、また明日」


 柳川は明るく言って、鳴海の前から走って消えた。




 翌日、朝の教室はいつもと違う雰囲気にのまれていた。鳴海が教室に入るや、視界に飛び込んできたのは黒板に群がる生徒たちの異様な姿だった。夏休み前にほぼ完成していたはずの派閥が一つにまとまり、額を寄せ合って興奮気味に何か話している。


「他のクラスもだって」


 囁き声の飛び交う中、女子の誰かがそう口にするのが聞こえた。


「イタズラにしちゃあ、度が過ぎてるよな」


 教室中央、前から二番目の自分の席にカバンを下ろしながら、鳴海はため息を吐き散らした。

 みんなが見つめる先に何があるのか、それを見ずとも、鳴海にははっきり分かっていた。黒板に色鮮やかなチョークさばきで自分の悪口を書かれていたのは、つい数ヶ月前のことだった。


「何て読める?」


 口々から発せられるのは、もっぱらそんな言葉だった。


「分かんない。日本語なのは確かだけど」


 別の声が答えた。自分の悪口を分析されるなんて、胃がよじれる思いだった。


「くだらない」


 道端に吐き捨てられるような言葉が鳴海の左耳を打った。左隣の席、机上に分厚い白い本を立て、仏頂面で読書に励む一人の女子生徒がその声の主だった。


「おはよう、辻岡さん」


 鳴海が小声で挨拶すると、返ってきたのは威勢の良い大きな舌打ち一つだった。


「くだらない」


 本へ視線を落としたまま、辻岡はそればかり繰り返した。

 辻岡可憐(つじおかかれん)。清楚な顔立ちの美人だが、本ばかり読んで誰とも話さず、暗いイメージが強い。何か呟くことを日課とし、孤独をひどく好む傾向にあるらしい。

 鳴海にとっての憧れは、孤高でも堂々とたくましい辻岡の生き様にあった。同時に、彼女へ寄せる思いが病的に胸を締め付けるのは、そこに生まれて初めての恋があったからに違いない。

 そんな辻岡が黒板に書かれた悪口を見て「くだらない」と言ってくれることは、鳴海にとって大きな一歩前進だった。


「暗号だぜ、絶対。誰か解読できる奴いないのか?」


 悪口書くだけの努力に、ずいぶん回りくどいことする奴もいたもんだ。鳴海は呆れたが、明らかに様子のおかしい生徒たちの言動に、段々といたたまれなくなってきた。


「くだらないよ」


 立ち上がる鳴海に、辻岡が声をかけた……らしい。その視線の先は相変わらず本の中だったので、決して定かではない。だが、鳴海は席に戻ろうとは思わなかった。黙々と前進を続け、やがて教壇越しに黒板を覗き込むと、鳴海の存在に気付いた生徒の群れが真ん中から綺麗に割れた。

 全員が、鳴海の奇妙な行動に感心を寄せたかのようだった。それはまるで、ナマケモノが木から下りて排便する様を観察するような眼差しだった。

 鳴海が割れた人垣の向こう側に見たのは、断じて自分の悪口などではなかった。 




せんちょうしゃへ。


たのこたをみわひはしつし。

ごこんのきあをうぶんと、てつのほっしそをみけひういと。

かっかいはきしゅうんん。

かみっつばひしょいのはい、あこそうかにしくおのるろうに。

みかうなばれのみぞをだえのがひつかれ。


ントヒ、の1そ:「、」るぎとでこく。

ントヒ、の2そ:グラナアム




 大きな白い用紙に綴られているのは、何とも不可解で、何とも無機質な、表面上まるで意味を成さない謎の文章だった。不可思議を超越して恐怖さえ感じる。

 鳴海はその場に突っ立ったまま呆然としていた。徐々に昂る鼓動と、目の奥が熱くなるほどの興奮に、まともな意識が削ぎ落とされていくのを感じた。


「なんだあいつ、キモッ!」


 どれくらい硬直していたのか、鳴海はほとんど覚えていなかった。ただ、誰かが発したその一言で、迷子だった意識がその身に舞い戻ってくるのをはっきりと自覚することができた。

 折しも、HR開始のベルが鼓膜を打った。鳴海は振り向き様に席へダイブし、カバンからメモ帳を引っ張り出して机に広げた。間髪入れずにペンを握ると、用紙に向かって顔を上げたまま謎の文章をコピーしていった。視力にはすこぶる自信があったので、前の生徒の頭越しからでも十分だった。


「なんだろ、これ」


 鳴海はペンを投げ捨てると、書き殴られた自分の文字を読み直してそう呟いた。それは鳴海の知るところ、かなり難解な代物だ。止めどない興奮と好奇心で血流が何度も氾濫を引き起こしそうになるのを、鳴海は根性だけで何とか抑えなければならなかった。


「起立!」


 その掛け声で、鳴海は弾けたように立ち上がった。気付くと、暗号文を背にスーツ姿の男が立っていた。担任の久木先生だった。


「着席!」


 学級委員の次の掛け声で、生徒たちはダラダラと着席した。


「何これ?」


 出席簿を広げ暗号文を覗き込みながら、久木は鼻で笑った。縦にも横にもたくましい体つきの久木は、豪快に笑うと活きの良い力士を連想させた。


「今朝から貼ってありました。他のクラスにも」


 鳴海の背後から女子の誰かが応じた。友達作りに臨もうとしない鳴海にとって、その声の持ち主が誰かなんて全く興味がなかったし、そもそも、自分のすぐ後ろの席が男子か女子かも分からないのが現状だ。

 いじめ、いじめられる関係になるくらいなら、最初から互いに関心を持たない方が無難だということを、鳴海は小学生の頃からずっと心得ているつもりだった。


「イタズラか? こんなことに時間を使うなら俺の靴でも磨けってんだ」


 久木は用紙を几帳面に折り畳むと、ズボンのポケットにそれを押し込み、何事もなかったかのように出欠を取り始めた。


「出欠とるぜ。井畑」


「先生、それって暗号文ですよね?」


 井畑が尋ねた。久木は無視した。


「菊井」


「絶対暗号文だよな」


 菊井が便乗した。久木は聞く耳を持たない。


「斎藤」


「予想だけど、これって新手のテロじゃないか?」


「竹之内」


「犯行予告ってこと?」


「戸田」


「俺が一番に解く。そしてモテモテ」


「今の五人、全員欠席な」


 五つの非難めいた呻き声と一部の笑い声、退屈げなため息が漏れるのを、鳴海はぼんやりとした意識の中で聞いていた。


「返事をしろ、意見なんか聞いてねえ。……鳴海」


「アナグラムだよ、これ。文字を並べ替えて文章を複雑化させてる」


 ちょっとした出来心だったのに、直後、鳴海は沈黙した教室の真ん中で、巨漢の熱く荒ぶる鼻息をまともに喰らった。顔を上げると、すぐ目の前に久木が立っていた。


「罰則。放課後。便所の床掃除。明日から一週間」




 昼休み開始のベルが頭上で鳴り響いた。暗号とにらめっこするのに夢中で、時間や授業内容、便所掃除のことさえすっかり忘れていた。鳴海は、思わしくない一学期の成績をかんがみても尚、この謎めいた暗号には、授業をほったらかすのに十分の価値があるはずだと確信していた。


「あんたキモイね」


 左手に白い本を握り、右手に梅干しを挟んだ箸を持ちながら、辻岡がまるで独り言のようにそう呟いた。

 左手に暗号文、右手に潰れた握り飯を持っていた鳴海は、「お互い様だろ」と言ってやりたかったが、後が怖いのでやめておいた。


「ごめん。でもかなり分かってきたんだ。これはね、たぶん……」


「あっそ」


 口の中で梅干しを転がしながら、辻岡がつっけんどんに突き放した。鳴海はガックリ肩を落とした。


「興味ないって言ったじゃん。くだらないよ」


「ごめん」


 梅干しがコリコリと砕かれる音を聞きながら、鳴海は更に肩を落とした。あんまり落とし過ぎて、肩が外れるかと思った。


「……そういうの好きなの?」


 辻岡の声は、少し言い過ぎた自分を戒めるかのように、微細な慈悲で覆われていた。鳴海は輝く笑みで彼女の横顔を見つめた。


「まあね。パズルが得意なんだ。数学は大嫌いだけど」


「私は全部嫌い。勉強も、人間も。ここへは本を読みに来てるようなもんよ」


「じゃあ、僕のことも嫌いだよね」


「あんたは論外」


 言うと、辻岡はさっさと弁当箱を片づけ、本を脇に抱えて教室を出て行った。

 一人残された鳴海は、騒々しいお昼の教室の真ん中で、握り飯をペンに持ち替え、また暗号の解読に取りかかるのだった。




 放課後、鳴海は図書室の隅で、一人黙々と暗号解読に励んでいた。騒がしい教室よりも、静かな図書室の方がよっぽど集中できる。

 休憩がてらに背筋を伸ばすと、本を読まない生徒たちがグループになって席を独占していた。みな険しい顔で手元の紙を指差し、ひそひそ声で話し込んでいる。おそらく鳴海と同じ、例の暗号文に取り憑かれた同志なのだろう。右に目を向けると、小型のノートパソコンを持ち込んでいる男子が一人、紛れ込んでいた。


「やれやれ……」


 鳴海のすぐ向かいの席に腰掛けた生徒が、出し抜けに言葉を落とした。顔を上げると、一番に顔の火傷跡が目に入った。柳川拓真だ。


「あの暗号文のせいで、俺のお気に入りの席が女子たちに乗っ取られちまった。放課後の図書室は俺にとって癒しの場だったのに」


「悪いけど、僕も柳川の癒しの場を汚す者の一人だよ」


 細かいメモだらけで更に難読化された暗号文を掲げながら、鳴海は朗らかにそう言った。柳川は無表情のまま、瞬きもせずにこちらを見つめていた。


「そういやお前って、そういうパズルの類が好きだったよな。ホント、いい迷惑だぜ」


 それは、いつもの穏和な柳川とは程遠い、荒々しい口調だった。


「席取られたこと、そんなに怒ってるの? だったら僕がそいつらの尻を蹴っ飛ばしてきてあげようか?」


 鳴海はひょうきんにそう言って、机の下で大げさに蹴る仕草をしたが、柳川は相変わらず無表情のままだった。


「なあ、どうしたんだよ、柳川」


「……覚えてるか、鳴海? 小学生の時、顔の火傷が原因でいじめられてた俺に……一人ぼっちだった俺に声をかけてくれた時のこと」


 柳川の声色は悲哀を帯びていた。それは鳴海に、過去から今へと続く惨劇をリアルに彷彿とさせた。


「俺はあの日のことを、今でもはっきり覚えてる。教室の隅で震え、怯えていた俺は、鳴海の一言で立ち上がることができたんだ。お前と一緒にいる時だけだった……この醜い火傷跡を忘れることができたのは」


「なあ、柳川。僕だって君に感謝してるんだよ。君がいたから、今の僕がいるんじゃないか」


「いじめられてるお前が、か?」


 柳川の表情が変わった。鋭くなった柳川の眼光を前に、鳴海は助けを乞うように暗号文へと視線を落とし、同時に口をつぐんだ。


「俺がいなかったら……もしあの時、俺に声をかけてなかったら、お前はいじめられっ子じゃなかったかも知れない。そうだろう?」


「いい加減にしろよ。今日の柳川、なんかおかしいぞ。だいたい……」


「お前、俺のこと嫌いだろ?」


 刹那、全てが凍りついた。目に見える光景や、空気の流れや、時間までもが、鳴海の中でその動きを止めた。握り締めているはずのペンの感覚がない。全身から汗が際限なく溢れ出してくる。


「で……たらめ言わないでよ。なんで僕が柳川のこと……」


「誰かは分からないって言ったけど、本当はお前だって気付いてた。教室から走り去る後ろ姿。もう8年の付き合いだ……嫌でも分かるさ」


「……違う、誤解だよ。命令されたんだ。三年の不良たちに……言う通りにしないとボコボコにするって脅された」


 鳴海は必死に弁解した。すると、柳川がやっと笑ってくれた……さげすむような冷たい微笑みだった。


「一人になった時点で、やめようと思えば逃げれたはずだ」


 柳川が決定的な事実を言い放った。


「だがお前はそうしなかった。なぜ?」


 手の平で愛おしげに火傷跡をなぞると、柳川の表情から笑みが掻き消えた。次に現れたのは、殺気に満ちた虚ろな形相だった。


「鳴海。きっとお前は、いつの日からか、俺と並んで帰る時、一緒に外で遊ぶ時、行事でグループを組む時……俺がこうして話しかけた時でさえ、こう思っていたんだろうな。“こんな気味の悪い顔の奴と一緒にいると僕までいじめられる”って」


「違う!」


 張り上げた声は図書室中に反響し、周囲から注目を浴びたが、鳴海はそのことをまともに自覚できていなかった。それは、全てが図星故の、無駄なあがきだった。


「無理すんなよ、鳴海。こう見えてお前には感謝してるんだぜ? あの日、お前が声をかけてくれなかったら、俺は“これまで”ずっと一人ぼっちだった。けど“これから”は違う。俺には仲間ができた。決して裏切らない仲間だ」


 言い残し、柳川は鳴海の前から姿を消した。後に残されたのは、大きな絶望と、目の前に横たわる暗号文だけだった。並べられた文字列に目を向けた時、皮肉にも、未解読箇所だった暗号文が鳴海の前にその正体をあらわにしてくれた。

 まさにそれは、全ての暗号が解き明かされた瞬間だった。




 鳴海は再び、夕陽のオレンジをまとった一階廊下に足を運んだ。昨日と違う点は、重い足を引きずるように歩いていること、それだけだった。今日はただ、自分を追いかけてくるモノの足がすこぶる遅いだけの幸運だ。むしろ昨日は速過ぎたくらいだ。

 鳴海は、一階、西廊下の果てにある倉庫の前までやって来た。周囲をよく見てみると、どうやら、到着地点まで昨日と同じらしいということがはっきりした。そこは鳴海が黒葉という謎の生徒と出会った、あの教室だった。

 半分開けたドアから、中に今度こそ誰もいないことを確認すると、鳴海はそっと教室に足を踏み入れた。ここまで来て、鳴海はもう一度解読した暗号を読み直してみた。


 ちょうせんしゃへ。


わたしはひみつをのこした。

このあんごうぶんをとき、そのひみつをうけとってほしい。

きかんはいっしゅうかん。

ひみつのばしょはいっかい、にしろうかのおくにあるそうこ。

ひみつをえればだれかののぞみがかなう。


「秘密って何だろう?」


 その場に突っ立ったまま辺りを見回したが、あるのは壊れた掃除用具と、埃のかぶった机や椅子くらいだった。教室の端へ追いやられるように重ね置きされた机と椅子は、今にもなだれ落ちてきそうな気配をかもしている。それらで窓の半分は塞がれ、隙間からチラチラと覗く夕陽がまばらに輝いている。

 その中央に、黒葉の座っていた大きな古い教壇がでんと構えて腰を据えていた。


「……本」


 教壇の足元、化粧のように埃をまとった床に、本が一冊落ちていた。擦り切れた黒い皮表紙は夕映えで不気味に黒光りし、静寂の中でもその存在はとても明瞭だった。

 鳴海は怪しむこともせずに本を拾い上げ、息を吹きかけて埃を払った。


『クローバー教の9つ』


 剥がれ落ちた褐色の文字はそう読み取ることができた。かつては輝きを誇っていたのだろう。まだわずかだが、文字の溝に金箔が付着している。かなり古い本のようだ。


「著者『ケスター・B』」


 巻末には、著者である老人の顔写真と、その名が記されていた。深いシワの刻まれた表情はとてもおごそかで、丸眼鏡の向こうからこちらを睨み通す鋭い眼光は、モノクロ写真でもその威厳の大きさが強く鮮明だった。

 そして、名前からは想像もつかないほど、その顔は日本人そのものだ。

 本を閉じ、鳴海はもう一度あたりを見回してみた。この本以外に取り分け目立つものと言えば、黒板に貼られた『ももたろう祭典』のポスターと……。


「久木先生!」


 鳴海の声がひっくり返った。入口のすぐ向こうに突っ立っていたのは担任の久木だった。その大柄な体格はドア枠に収まり切らず、小さな額縁に押し込まれた惨めな力士を思わせた。


「何やってる?」


 いきなりすごまれた。鋭い眼は夕陽を浴びてギラギラと輝いている。


「何やってた?」


「いえ。特に何も」


 鳴海はとっさに、後ろ手でカバンの中に本を押し詰めた。


「ここは立ち入り禁止だ。鍵がかかってたはずだ」


 野太い声が教室中に反響し、鳴海を荒々と包み込んだ。


「鍵はかかっていませんでした。……本当です!」


 久木が一歩近づいたので、鳴海は急いで付け加えた。


「何か見つけたか?」


 久木の細い目がえぐるように教室を観察すると、最終的には鳴海で落ち着いた。


「いいえ、何も。あのポスターはとっても気に入りました」


 鳴海は黒板のポスターへ視線を流しながら嘘を並べた。『ももたろう祭典』が楽しみでしかたがないと聞こえるように努力したつもりだった。


「桃は嫌いだ」


 鳴海から片時も目を逸らさずに久木は言った。その間も、久木はゆっくりとこちらへにじり寄って来る。


「教師やってなかったら、俺はきっとお前のことも嫌ってただろうな」


 鳴海の後ろに回り込みながら久木は囁いた。


「鳴海。お前みたいに、気弱で、バカで、うじうじしてて、何を考えてるのか、さっぱり分からん奴は、視界に入るだけで、俺の癇に障る。分かるか? 見てるだけで、俺の癇に障るんだ」


 言葉の一つ一つにねじ込まれた憎悪を肌に感じながら、鳴海は心底震え上がり、小刻みにうなずいた。


「分かってんなら、さっさと帰れ!」


 鳴海は脱兎のごとくその場から逃げ去った。




 次の日の昼休み、鳴海は早々と昼食を食べ終え、図書室で『クローバー教の9つ』を読むつもりで教室を出た。

 鳴海はその道すがら、十数人で組まれた不良グループに遭遇してしまった。天気の良い昼休み、学校の中庭で日光浴をするのが不良たちの日課だった。こいつらはこれから中庭へ向かうところなのだろう。鳴海は運悪く、廊下の真ん中で、不良たちの大移動に鉢合わせてしまったわけだ。

 しかし、本当に最悪だったのは、彼らの中に柳川拓真が溶け込んでいることだった。


「どけろ、チビ」


 呆然としていた鳴海のみぞおちに、強烈な肘打ちが見舞われた。鳴海は体勢を崩しながらも壁際まで避難した。


「……柳川」


 苦痛に顔も声も歪めながら、鳴海は彼らの背中に向かって声を投げかけた。たった一人、足が止まった。


「言ったろう、鳴海。仲間ができたって」


 振り向き様、柳川は言った。自信に満ち溢れた明るい声だった。


「何で? 何であいつらなんだよ……」


「俺は強くなりたかった。それだけだ」


 鳴海は何も言えなかった。柳川の真剣そのものの表情は、鳴海が反論を試みる隙を与えてはくれなかった。


「昨日、鳴海には感謝してると、そう言った。あれは嘘じゃない。お前との出会いは俺に希望をくれた。その決別が、俺を強くするためのきっかけに変わった」


「いやだ……カバン隠したことなら謝るよ。だから、だから柳川……!」


「鳴海。ありがとう」


 柳川はもう振り返らなかった。段々と遠ざかっていく彼の背中と、通じ合っていたはずの心の絆を……鳴海はかすんだ瞳で、見えなくなるまで見つめ続けていた。




 気付くと、目の前はあの教室だった。ドアに鍵はかかっていなかった。


「来ると信じてたぜ。鳴海和昂」


 中にいたのは、教壇に座ってこちらを見つめる黒葉だった。その微笑みも、ほっそりと痩せた輪郭も、愉快げな声も、ボサボサの頭髪の一本一本までも、前とは比べ物にならないくらいはっきりと鮮明だった。


「前に言いましたよね、強くなるためのチャンスを提供できるって」


「ああ、言った。確かに言った」


 足を前後に揺らしながら、黒葉は楽しさを噛みしめるようにゆったり答えた。


「友人を救うための力が必要になりました。是非、あなたの言葉を信じたい」


 確固たる決意とは裏腹に、集め過ぎた勇気でその声は震えていた。


「鳴海が桃太郎のごとくたくましい男になるよう、俺は全力で期待に応える。だが一方的な契約ってのは筋が通らねえ。そこでだ、俺もお前に頼みがある」


「何ですか?」


 教壇から飛び降りると、黒葉は長身を左右に揺らしながらゆっくりと歩み寄って来た。黒葉が三歩近づくごとに、鳴海は一歩ずつ後退した。


「期待した通りになった」


 黒葉は言った。その視線の先は、鳴海の手の中の物にあった。


「まさか一日で解いちまうとはな。その本を拾ってくれたのがお前で良かった」


 黒葉が何を言いたいのか、鳴海にはよく分からなかった。


「もしかして、あの暗号文のことを知ってるんですか?」


「まあな。俺の契約相手は、あの超難解アナグラムを解読できるだけの実力者じゃなきゃダメだった。つまりお前は俺にとっちゃ、うってつけの契約相手ってわけだ」


 鳴海は眉根を寄せて考えたが、答えは出なかった。


「混乱してるとこすまねえが、本題に入るぞ。頼みってのは、祖父が俺にかけた呪いを解いてほしいってことなんだ。呪い解除のヒントはその本の中に暗号として記されてる。俺のじいさんが書き遺した、その本の中にな」


 鳴海は限界を感じ取った。聞こえてくる日本語がヘブライ語か何かに翻訳されているようだった。


「いっぺんに話すとややこしくなるから、今はここまでだ。どうだ、やってくれるか? イヤとは言わせねえけど」


「えっと……要するに、僕が桃太郎になる代償として、この本に残された暗号を元にあなたの呪いを解けばいいんですよね?」


 鳴海は自分で言っていることの半分も理解できていなかった。だが、ここまできて引き下がるつもりはなかった。

 柳川は最高の友達だった。彼が間違った方法で強さを求めるのなら、鳴海は、自分なりのやり方で強さを証明してやろうと、そう結論した。あわよくば、柳川は自分の元へ帰ってきてくれるかもしれない。毎日が楽しかったあの頃に、また戻れるかもしれない。柳川を傷つけてしまった罪滅ぼしができるかもしれない。


「……僕、やってみます」


「うっしゃ、契約成立! そして……」


 黒葉は鳴海の左肩に手を置くと、黒板に貼られた『ももたろう祭典』のポスターに向かって指を突き立てた。


「“桃太郎サークル”復活だ!」


 言っていることはさっぱり分からないが、その横顔は、勇ましくも雄々しい力強い笑顔だった。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ