コーヒーハウスに憧れて
ロバート・ウィルがロンドンに来たのは、今年の7月。親戚が株投機で一財産を作り、ウィル一家は招待されたのだ。風物詩のような移り変わりやすい空に慣れてきた頃、近所付き合いで知り合ったウォルターという青年が、ロバートに会いにやってきた。
ウォルターはロバートが密かに憧れているチューリン士官学校の学生で、今は一ヶ月間の休暇を満喫しているという。
「チューリンに入りたいのかい? 君のその立派な体格があれば、あとはもうちょっぴり知性を磨けばいけるさ。そのためには社会を知ることだ。俺が色々教えてやるよ」
と、先輩風を吹かせているウォルターに言われてから、ロバートは彼の信奉者の如く、ウォルターの行くところについて回るようになった。親戚の館はそれなりに快適だったが、18歳のロバートが興味をそそられるような面白いものは何もなく、パーティーに参加しても、成金みたいな身なりをした両親に「うちのせがれです」と紹介され、訛りが出てこないようにむっつりと黙っているだけだったから、つまらなかった。パーティーに参加して良かった唯一の点は、ウォルターに出会えたことだろう。
「どうだ、社会勉強は順調か?」
今日のウォルターは小麦色の髪をなでつけて、キャラコ姿のラフな格好でやってきた。我が物顔で屋敷に入ると、召使たちからは煙たがられたが、ロバートには、それさえカッコよく見えた。
「うん。おかげで」
ロバートは答えると、ウォルターが差し出したキセルのタバコを笑って受け取る。タバコの味もウォルターから教わった。最初はただの煙にしか思えなくて咳き込んだが、慣れてくると、深く吸い込む時の喉への刺激に、虜になった。と言っても、虜になったのはウォルターに対してであって、二服目からは惰性で吸っているというのが、より事実に近いかもしれない。
ウォルターはソファに座ると、抜け目ない、鋭い目をロバートに向けながら、面白がって言った。
「まだまだ、あんなのは序の口だ。せいぜい街中を散歩しただけじゃないか」
「でも、あすこの劇場は……」
「ボロっちいのがまたしびれるだろう? そこがまた良いんだよな」
ウォルターに連れていってもらった劇場は、劇場と聞いて想像されるような豪勢で立派なものではなく、大通りから離れたボロ屋で運営しているところだった。大道具もハリボテ感満載で、役者も醜貌な人間の多いところだった。観客もまばらで、行くとなれば、初めてか物好きしかいないところだが、ウォルターは役者の女に熱を上げて、毎週欠かさず通っているという。正直言って劇はつまらなかったが、ロバートが興味をそそられたのは、田舎では見ることのない、貴族と貧民の格差の広がりだった。片や、華美な衣装を着て、教養という名の、人間が生きる上でなくても困らない雑学と、その場限りのウィットと、乾いた笑いと飽食に囲まれて一生を終える人があり、片やその日のパンにも困る生活を送る人がいる。
ロバートは、これを興味深い社会現象として観察しようとした。しかし、分析し、判断するには、実例がまだまだ足りなかった。知識不足なのである。
「それに、国会議事堂とか」
「あんなものに興味があるのか、君」
そう言われると、ロバートは急に劣等感を感じて、二の次が告げなくなってしまった。しかしウォルターは批判せず、
「政界に興味があるんだったら、もってこいの場所がある。うん、今日はそこがいいな。一緒に来いよ。行きつけのコーヒーハウスに案内するから」
ウォルターは行き先を決めると、ソファから立ち上がった。すぐに歩き出すものだから、慌ててついていかないと置いていかれそうだった。
「どんな場所ですか」
名前にコーヒーとあるくらいだから、コーヒーを飲む場所、というくらいは想像できるが、それ以上のものが思いつかない。
「行けばわかるさ」
キセルはウォルターの手元に戻っていた。話しているうちにコーヒーハウスというものの前にたどり着いた。二、三段、段差のある入り口は狭く、足幅が狭いので、ロバートはまたいで入った。ドアを開けると、喧騒と煙が飛び込んできて、ロバートは一瞬顔を背けた。目を細めながら、中を見る。
中は古風な感じだ。長テーブルの端には聖書が置かれ、土製の長キセルがあり、暖炉の上には大きなコーヒーポットが置かれている。
腕付きの椅子には人が座って、何か記事を書いている人もいれば、おしゃべりに夢中な人もいる。部屋中が煙だらけなのは、タバコを吸っている人が多いからだ。
壁の方を見てみると、「酒を追放せよ」だとか、「汚い言葉は排除すべし」だとか、議会が定めたらしい条文が掲げられ、棚には一言で言うと、変なものがたくさんある。得体の知れない黄色い液体、あのペストも治るという錠剤、ヘアクリーム、タバコの箱、コーヒーのカスで作ったという歯磨き粉、咳どめ薬。こうしたものが「効能確実」「正真正銘」「最高品質」の謳い文句を提げて、堂々と鎮座している。
コーヒーハウスだと聞かされていなかれば、バーゲンセールにでも連れてこられたと思っていたかも知れない。
「すごいな」
ロバートは思わず苦笑を漏らした。あまりの喧騒と繁盛ぶりに、目眩がした。
「まあ、座れや」
とウォルターに勧められて、空いている椅子を埋める。ぼんやりと周りを眺めていたが、こうしていろんなものに囲まれて座っていると、そのうちコーヒーの一杯でも飲みたくなるのだから、不思議なものだ。
店の中央にある大きなテーブルは、議論用らしく、新聞を広げて朗読する紳士の声が聞こえる。
「この度、発令されたノース規制法は……」
よく耳を澄ましていないと、聞き取れない。
「何か飲むか?」
ウォルターが肘をつき、ロバートに聞いた。
「でも僕、そんなに懐が……」
「一杯1ペニーだ。俺が奢ってやるよ」
ロバートはポケットに手を突っ込み、まさぐる。入っていたのは10ペンスだった。この間観に行った劇、馬車代だってウォルターに払わせている。律儀なロバートは申し訳なくなって、
「いや、僕が払います」
と申し出たが、
「遠慮なんかしなくていい。おーい、コーヒー、二つくれ」
と店員を呼びつけて大声で注文した。なんせ、店中ワイワイガヤガヤと騒がしいものだから、ウォルターが叫んで、やっと奥まで届いた。
「よってこの法律は、イギリス東インド会社が統治機関ではなく商業貿易会社として発展することを期待するものであり、社員の風紀更生と会社の経営改善に大きく貢献する見込みである」
中央の紳士が読み上げる声に、耳を傾ける。
「だが、そんな簡単に、うまく行くものなのか?」
朗読を聴いていた男が、声を上げた。
「一度起きたことは二度あるとも言うじゃないか。インドだけ、ネイボッブだけが例外ということはあり得ないと思うんだが」
ネイボッブ。
ロバートはその言葉に虫唾が走った。ネイボッブの、誇張の入った噂はロバートの耳にも届いている。なんでも、インド人の従僕を大量に雇って、王様よりリッチな暮らしをしているというのだ。朝には召使に起こされて、豪華な服を着させられて、食事が用意される。なんの努力もせずに、インド人たちに敬礼され、巨富を築き、豪邸を満喫する。本国に帰った後も、インド風生活が抜けきれず、成金生活を送っているという。
「とすると、もっともっと厳しく規制するべし、という意見かね」
紳士は声を上げた男性を興味深そうに見ると、落ち着いた物腰で尋ねた。議論の始まりそうな予感がして、ロバートの目は釘付けになった。
「その通りだよ。徹底的に腐敗の芽は積んでおかなくてはな。賄賂と搾取で甘い汁を吸って、ぶくぶく太ったネイボッブたちを羨ましがる連中は多いよ。全く、真っ当じゃない奴らが憧れるから、そうゆう奴らが増えるんだ。これからも増えるだろうし、それが腐敗の原理というものだ。毅然として対応しなくちゃ、抜け道を作られて終わりだよ」
「ミスター・クロムウェルの再来だな」
誰かが、そう皮肉った。
ロバートはぼんやりと議論を眺めながら、運ばれてきたコーヒーをすすっていた。いつの間にか、ウォルターが立ち上がっていた。どうしたのだろう、とロバートが不思議がって見ている間に、ウォルターはのっそり歩いて、議論の輪に加わった。
「ちょいと待ってくれ。東インドの功績にも触れるべきじゃありませんか」
「おう、ひょっとして、ネイボッブの回し者かね」
小太りした人の良さそうな紳士の発言で、どっと笑いが生まれた。ウォルターは不敵に黄色い歯を見せて笑い、彼独特の、自分ペースに持ち込むやり口で、自論を主張した。
「それこそクロムウェルの時代で貿易が本格的になってから、ここまでの発展に持ってきたのは、彼らの多大なる努力が身を結んだ、というものです。お茶っぱや、安い綿のキャラコ、香辛料、ああ、それから砂糖もありましたね。それで膨大な利益が出たからといって、金のなる木を封じ込めようとするのは、少しばかり嫉妬が過ぎていると思いませんか」
ウォルターはよどみなく、説得力の富んだウィットでものを言った。それに受けて立ったのは、やはり最初に規制を訴えていた「ミスター・クロムウェル」だった。
「いかにも。束縛を嫌う若者が言いそうなことだ」
「東インド会社が儲かれば、本国イギリスの経済だって潤うことをお忘れなく」
「だが坊っちゃん、もっと大事なことを忘れていないか? ネイボッブの懐に潤っている金が、現地の民衆から奪い取ったものだということを」
ミスター・クロムウェルはウォルターの鼻をへし折ろうと、声をさらに大きくして反論した。
「会社内部の規律だって、めちゃくちゃだと聞くじゃないか。極め付けは会社そのものが赤字だってことだ。インド民衆を苦しめ、賄賂はたんまり、そのうえ会社は赤字。全く、終わってるよ」
その通りだとロバートは思った。少なくともロバートの町では、その意見が主流をなしている。ここ、ロンドンでもそうなのだ。
ネイボッブの存在を許容するとなれば、彼らの回し者だと思われても仕方がないだろう。ウォルターはどう反論するのだろう。聴衆の視線が、彼に集まり出した。ウォルターはキセルをいじりながら、不適な、そして少し見下したような微笑を浮かべて意見を聞いていた。そうすることが最高にかっこいいと思っているような、ずるそうな微笑だった。無論、ロバートはかっこいいと思った。
「もちろん、不当に搾取している輩を野放しにしていては行けないという点では、私も賛成です。ですが、こう思いませんか? ベンガル地方の徴税権を得たからこそ、フランスやオランダに対抗できる地盤を固めることができたのだと。私たちが、まず戦うべきなのは、外の敵です。内の敵というものは、共通の敵が外に現れたときに、味方になるものですよ」
「それは、敵の敵は味方、ということかね?」
「艱難は共にできるということです。富貴は知りませんがね。そうそう、それに、私はとある士官学校に在籍しているんですがね、年々、東インド会社からの募集枠が増えているんですよ。これの意味するところとは、一体、何なのでしょうね」
「そうなのか」
議論相手は、多くの士官候補生たちが東インド会社に就職しているという情報は、初耳のようだった。
「心配なさらずとも、彼らは直に絶えましょう」
とウォルターはにこやかに結論づけた。
するとまた一人が、
「根拠のない暴論だ。軍人がネイボッブを抑えるなんて、彼らにいいように扱われるのがオチなんじゃないのか? 何も努力せず甘い汁を吸ったやつは、決してそれで満足することなく、欲望が膨らんでいく——それが真実というものじゃないかな? そのうち東インド会社が名前を変えて、全インド支配会社だとか、そんな名前になるんじゃないかね」
と、揶揄った。
だが、イギリスがアイルランドでさえ統合できずに手こずっているのに、はるかに遠い大陸を支配するなんて、それこそ空論のように思えて、誰も取り合わなかった。
新聞を読み上げていた紳士が、ウォルターの名前を尋ねた。ウォルターはさりげない自己PRも交えて答えた後、
「そうそう、議論に夢中になり過ぎて、私の知人を紹介し忘れるところでした。どうぞ、あちらで初めてのコーヒーハウスのコーヒーを堪能しているのが、ロバート・ウィル君。ヨークシャーから来た、新入りです」
と紹介した。ロバートは、急に自分の方に視線が集まったのに戸惑った。硬い表情のまま、どうも、と挨拶した。ウォルターはロバートをチラリと横目で見ながら、
「将来の夢は……確か首相だったかな」
と、冗談を言った。
「ちょっと、からかわないでくださいよ」
紳士はロバートの前へ行くと、握手をしてくれた。
「そうか、君がミスター・ウィルか。よろしく」
大人の仲間入りができたような気がして、ロバートは誇らしい喜びに包まれた。コーヒーハウスでの時間はあっという間に過ぎ、店を出る頃には夕方になっていた。
「楽しかったかい?」
道中、ウォルターが聞いてきた。
「うん、とても」
「それはよかった」
ウォルターは黄ばんだ歯を見せた。それからさらりと、とんでもないことを言った。
「さっきはああやって言ったけどさ、俺、実はネイボッブになることが夢なんだ」
ロバートは驚いてウォルターを見た。彼はいつもの抜け目ないまなざしと、愛敬ある笑みをたたえていた。
「国を動かしてやりたいのさ。でも議員になるには、うちは身分が足りないんだ。ネイボッブがたくさん下院議員になっているのは、お前も知っているだろ?」
「しょっちゅう聞くよ」
しかもそれは、悪いニュースとしてだ。だが、誰にとっての悪いニュースかと考えてみれば、既成権力を持っている貴族の奴らに、違いなかった。
「金があれば選挙区を買収して議員になれる。買収するためには金が要る。金を得るためには? 俺は誰かの言いなりにはなりたくないんだ。自分の道は自分で開きたい。何もしていなくて、ネイボッブになれるわけ、ないだろ。奴らは生き抜いてきたんだ。そして、これからも。俺だって同じだ」
ウォルターは淡々と語っていたが、その姿がロバートに感銘を与えた。
これが——ロバートは思った——僕の憧れていた「生き抜く男」を体現した姿なのだ。
ウォルターは、目を輝かせて見守っているロバートに不意に歩み寄って、ポンと肩を叩いた。
「まあ、お前も頑張れよ。もし俺の部下になったら、精一杯可愛がってやるからさ」
と語った。ロバートの、一生忘れられない思い出の一つになった。
世界史の教科書に、「コーヒハウス」が書かれていた。その挿し絵を見た私は、一目惚れした、「コーヒーハウス」に行ってみたい! だがこの「コーヒーハウス」、実は女人禁制らしい。「いいもん、かわいい男の子主人公作るから」と言って、妄想を膨らませたのが、この作品である。果たして、現実にこのような議論が起こっていたのか。実際に起こっていたら、行って混ざりたいものだ。あ、そうだ、女人禁制だった。
そんな作品だ。コーヒーハウスに憧れたのは、作者だったというオチになりそうだ。
念の為、歴史における私の見解も述べておこう。
東インド会社については、イギリスの150年にわたる悲惨なインド植民地支配の発端となったという点で、罪深いものではあるが、もともと貿易会社であり、イギリスの発展に貢献したという点では、公平に評価したいと思っている。だから、私自身は成金「ネイボッブ」を一方的に否定する気もない。地位やお金、権力というものは、本来価値中立的なものであるはずだ。お金持ちが悪いのではなく、お金の使い方を知らず、人の不幸を顧みず、自分のためだけにお金を利用する人がいけないのだ、と思っている。