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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

毒杯

作者: 杜若表六

 韓非は使者から受け取った粗末な杯をしげしげと眺めた。

 白く濁った酒の面から、良く知る男の顔が物珍しそうにこちらを覗いている。

 満々と湛えられた杯の酒は彼の内に鬱屈し滞留した言葉の毒に似ていた。しかし毒酒は彼一人しか酔わせない。一方でもしこの舌を自在に躍らせることができたなら、言葉の毒をもってして、聖人、百姓、賢者、愚者、善人、悪人、老人、赤子、ありとあらゆる者を酔わせることがきっとできよう。だから秦王の(おそらくは李斯の)から賜った毒酒などには恐ろしさも、嫌悪さえも覚えなかった。ただ、我が身から滴り落ちた言葉の毒が己を、やがて万民を、国家を、天下を蝕んでいく奇怪な幻想を一瞬の内に見た。それを飲む者はみな良薬として自ら飲み干し、嬉々として知らず侵され死んでゆく。

 韓非は、彼が閉じこめられている狭く薄暗い牢の中を見回した。

 ――可笑しなものだ。私からは、世は全て逆さまに牢の内へ封ぜられているように見える。やがて私が死に、この血の巡りが停まれば、遺した言葉はかえってこの薄汚い牢を脱し、狂猛な勢いの激流として天地を呑みこむだろう。ただ一人、私だけがこの酒が毒だということの本当の意味を知っているのだ。してみると、この私の不器用な舌というのはどうやら法を越えた勢いを削いで調えるための弁の役割をしていたらしい。

 韓非はまさに死に瀕した己のそんな滑稽な考えを、心中で苦々しく嗤った。彼の耳に秦王の二人目の使者のものらしき足音が聞こえて来た。

 ――いまさら来たか。おおかた、私の命を助けてやろうとでもいうのだろう。……ならぬ。決してそれはならぬ。私は一度は死を賜った身である。それを取り消すなどということは、たとえ王あろうと誰であろうとできぬことだ。何より、私が許されれば、私は法をまげて醜態をさらしおめおめと生きていく私自身を許すことができぬ。

 韓非は大声で使者に言った。

「オ、オイ、オヌシ、王ノ使者ガ来タラ、コ、コウ伝エヨ。韓非ハ必死ニ釈明セントシタガ、ソレモ叶ワヌコトヲ悟ルト、毒杯ヲ受ケ取リスグニミズカラコレヲアオッテ死ンダ、トナ」

 言い始めの方は若干つっかえたが、後の方は上出来だ。韓非は満足して杯の面をぐっと睨んだ。

 面は波立ち、泡立ち、何者も映していなかった。

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