4.百日経ったこのあとで、これからも私は先生とたくさん話をするだろうと思う
ここを書くための1-3だったので、頭ゆるくしてお読みくださいませ。
電話をかけてきたのは榊さんだった。
『梓さん、お久しぶりです。お忙しい所すみません。お元気ですか?』
「はい。ありがとうございます。榊さん、クビにならなかったんですね」
『お陰様で!』
榊さんが相変わらず陽気に笑う。たった三ヶ月程なのにとても懐かしかった。
『ところで、今週、お時間頂けませんか?桐木からお話したいことがあるようなので』
榊さんの言い方にひっかかりを感じたが、桐木先生に会えることが嬉しすぎて、私は即答した。
「わかりました。今日でも構いませんか?」
待合せ場所は六本木の事務所ではなく、丸の内のカフェになった。私の職場のすぐそばで、パンが美味しいから、時々同僚とランチに行くこともあるお店だった。
桐木先生はお仕事でこの辺りに来ているらしい。近くにいるのだと思うと落ち着かず、私は終業後すぐに待合せ場所に行った。あいにく店内は満席で、テラス席ならすぐ案内できると言われたので、気が急いていた私は仲通りに面したテラスへ行くことにした。
今日は曇りだが東京は梅雨入りしていて、日が沈んでしまえば寒いかなと思える気候だったにも関わらず。
「あ、来た……」
広い歩道。街路樹の向こうに、電話しながらこちらに歩いてくる桐木先生を見つけて思わず呟いた。
背が高いからすぐわかる。ちゃんと聞いたことないけど、多分身長は一九〇センチ位あるだろう。私も低い方ではないけれど、いつも見上げないと話せない。
法廷で見たら格好いいんだろうな。でも企業法務専門なら、裁判になる前に話つけちゃうのかな。
あんな、どっちが有責かわかってて物証もある家事事件なんて、簡単すぎて桐木先生の無駄遣いだったんじゃないかって気がしてきた。ごめんなさい……。
「榊、待て、呼び出したから行けってどういう事だ?おい!オイコラ!……チッ、切りやがった……」
舌打ちしてる桐木先生はどう見ても極道です。
本当にありがとうございました。
カフェのテラスにいる私には気づいていない様子で、桐木先生が電話をかけ直している。
「榊!お前、もう少し詳しく説明しろ!」
少し大きな声で怒鳴るように話してるので、すれ違う通行人が皆避けていく。
(モーゼだ、モーゼ)と思いながら見続けていたら、ついに桐木先生は警察官に取り囲まれた。
「お前のせいで久々の職質だっ!!」
そう言って電話を切ると、髪をかきあげる。まだ反抗期は続いてるらしい。
(名刺出してる……。弁護士バッジも見せてる。身分証明出して、多分バッジの裏の番号と合ってるか見せてる。……まだ信用されてない……。「東弁に聞けよ!」って言ってる。かわいそうに。ああ、免許証まで出してる。嘘でしょ、マイナンバーカードも持ってるの?凄い……)
しばらく見守っていると、取り囲んでいた三人の警察官が敬礼して、桐木先生は解放された。
桐木先生は、それからようやく、すぐそばのカフェのテラス席で私がじーっと見ていた事に気づき、「何でそこにいるんだよ」と言いながらしばらく瞑目していた。
そして一歩近づいて爽やかにこう言った。
「やあ、待たせたね!」
「いま言うとギャグにしかなりませんよ、先生」
私がそう言い放つと、桐木先生は回れ右して逃げようとしたので慌てて引き留めた。
私のはす向かいに座った桐木先生は、どことなく落ち着かない様子だった。
私はというと、久しぶりに桐木先生に会えた事に少し浮かれていた。もう会うことはないだろうと思っていたから。
離婚後の私は、何故か異様なモテ期が来ており、実はお付き合いした人もいたのだが、すぐに別れてしまっていた。
……それは、どうしても桐木先生を思い出してしまうからだった。釣り合わない、とわかっていても。
「私が『今日がいい』って言ったせいですよね。スケジュール狂わせてしまってすみません」
「いや、いいんだ……」
しばらく沈黙していると、先生が頼んだコーヒーが運ばれてきた。
それには手をつけずに先生が口を開く。
「その後、前夫から接触はあったか?」
「いえ」
「仕事は順調か?」
「はい。元々仕事では旧姓を使い続けていたので、特にかわりなく……」
いつも闊達として明敏な桐木先生の歯切れが悪い。用事があるから連絡があったはずなのに。依頼のアフターケアは契約になかったはずだけど、何かあるんだろうか。
再び沈黙が続いたので、今度は私から話しかけてみた。
「先生はやっぱりお仕事、大変ですか?」
「それなりに。……いや……君の事ばかり考えて、仕事が手につかなかった……」
「えっと、それはどういう意味で?依頼人……として?……じゃなくて?え?」
私が混乱していると、桐木先生がふっと笑った。
その顔を見て私は先生を睨み付けて言った。
「先生からかってますね?」
「いや、からかってない。可愛いなと思って笑っただけだ」
「……誰にでもそう言うんですか」
「こう見えて仕事熱心なんだ。女遊びはしてないよ」
動揺してる私が面白いのか、桐木先生は笑って、やっとコーヒーを飲み始める。
桐木先生の綺麗な指を見ていたら、その言葉を信用してみたいと思い、ほんの少し勇気を出してみた。
「私も、桐木先生の事ばかり考えてましたよ」
恥ずかしくて顔が見られない私は、自分の膝に視線を落として言った。
カシャンという、カップとソーサーがぶつかる音がしたが、私は顔をあげることが出来なかった。
拒否されてもいい。これで終わりでもいい。多分最後のチャンスだからと思って言った。
「……もしよろしければ、今度二人でお食事にいきませんか?」
その問いに対する答えは、私にとっては意外なものだった。
「今日これからでもいい」
「えっ?」
思わず顔をあげると、歩道の石畳に視線を落としたままの桐木先生の横顔があった。
「このあとの予定は、何故か榊が空けてくれた。だから今日でもいい」
「はあ……それはつまりその……」
私たちは榊さんに嵌められた。
「榊のお膳立てっていうのが癪だが、まあ、いいか。とりあえず、その服じゃ色気ないな」
そう言って、先生は顎に手をあてて私をじっと見つめる。
「すみません、着古した安物で……」
私が着ているのは、量販店の黒いスーツ。一方の先生は、今日も仕立ての良い高そうなスーツ。先程背もたれに掛ける時ちらりと見えたジャケットの裏地には、ブルーに鮮やかな白い花が描かれていた。多分、今日はポール・スミス。今更ながら貧相な自分が、先生の隣にいるのが恥ずかしくなる。
「よし、銀座に行くぞ」
「え?」
突然そう宣言して、桐木先生は立ち上がった。
百貨店で桐木先生が選んだのは、ドレスワンピース。
黒に細い線のストライプ。シンプルなデザインだがシルエットがとても魅力的だった。
「こんなの着たことないです」
「じゃあ着て見せろ」
「えええ、もう少しおとなしい感じがいいです」
「君のセンスは地味なんだよ」
「先生が派手なんです!地味顔の私は服も地味でいいんです!」
すっぴん知ってるくせに……と呟くと桐木先生が真顔で言った。
「化粧してない方が綺麗だった」
「はあ?本気ですか?爆笑したくせに?」
「本気で言ってる。綺麗だった」
ちょっと待って、このやり取り、まるで一夜を共にした男女じゃないか。
店員さんの生暖かい視線が気になって、ひったくるようにドレスを受け取って試着室に逃げ込んだ。
心臓が早鐘のようになる。
化粧してない方が綺麗?
そんなの言われた事ない。
信じられない。
ドキドキしながら着替えると、自分でもびっくりするくらい体のラインがきれいに見えた。
「お客様は美人で背が高くていらっしゃるので良くお似合いですね」
「ほらみろ」
店員さんのお世辞に、何故か桐木先生が得意気な顔で腕組みして頷いている。
桐木先生は、値段も聞かずに買おうとしているが、このブランドの価格帯を考えると、ワンピースだけでも二十万円くらいするはず。
先生の腕をぐいぐい引っ張って、耳元で小さな声で囁いた。
「あまりに過分な贈り物は、お返しが出来ません」
「じゃあ後で脱げ」
「へ?」
「これと、この靴も。包まなくていい。このまま着ていく」
「え、ちょ、ちょっとまってください!!」
桐木先生は私の抗議が聞こえないふりをして会計を済ませている。ああ、予想通りブラックカードでした。これはマイ・フェア・レディごっこに違いない。
ミッドタウンが近くに見える場所でタクシーを降り、裏通りの小道を歩く。門があり、途中からどこかの敷地内に入った。薄暗い林の中を抜けると、そこに大きな建物があらわれた。
「ここは、入るとき記帳するんだが、家族しか入れないから妻にするぞ」
もう私は抵抗をやめて、ただうなずいていた。
重厚な建物の中は、入ってすぐの場所にラウンジがあり、奥がレストランだった。平日だったせいか空いていて、すぐに席に案内された。
テーブルとテーブルの間隔がかなり広く、空間を贅沢に使ってある。卓上花と蝋燭が可愛らしく置いてあり、銀のカトラリーも大きなお皿もシンプルだが上品だった。窓から見える庭のライトの配置がとても綺麗で、都会の喧騒から切り離された異空間のようにも思える。
レストランのメニューを見せてもらったが、その価格に驚いて思わず顔をあげた。
「え?これってどういう事ですか?」
「内緒」
そう言って、桐木先生はフレンチのフルコースを注文する。ワインのリストがちらりと見えたが、そちらもあり得ない価格だった。
―――これは多分、原価に近い。
しばらくリストを眺めていた桐木先生が言った。
「料理に合わせて、スパークリング、白、赤と順番に選んでもらえるかな?お祝いなのでいくらでも構わない。一番合うものを」
「かしこまりました」
金葡萄のソムリエバッジをつけた壮年の男性が恭しくお辞儀する。
「お祝いって……」
「百日経ったな。君は自由だ」
桐木先生が目を伏せて笑う。私は背筋を伸ばして言った。
「桐木先生も榊さんも、今日だって、わかってたんですね……」
「当たり前だろう。担当したんだから」
女性の再婚禁止期間、百日。離婚後にもし子が生まれた場合、父親が前夫なのか再婚相手なのかの混乱を防ぐために設けられた待婚期間。離婚時点で懐胎していないことを証明すれば適用されないのだが、私は再婚を急ぐつもりも理由もなかったので検査はしなかった。
「指折り数えてたわけじゃないですけど」
「人それぞれだろうが、ひとつの区切りかな」
「そうですね……本当に。色々自分の気持ちがわかりました」
薔薇色のスパークリングワインが運ばれてくる。細長いグラスに、ソムリエの手で丁寧にワインが注がれる。泡が弾けてキラキラしていて、私は思わず微笑んだ。
「可愛い……」
「そうだな」
桐木先生の視線は、ワインを通り越して真っ直ぐ私に注がれている。
テーブルの上の蝋燭の灯がゆらめいて、私はもう自分の気持ちと向き合うことから逃れられないと感じていた。
「君は以前、どうして自分の依頼を引き受けたのか、と質問しただろう?」
「はい」
「君に興味をもったから、が答えだ」
その言葉の意味を飲み込む前に、前菜がサーブされ、先生が静かな低い声で「乾杯しようか」と言った。私は頷いてグラスを持ち、震えながら乾杯した。シャンパングラスに口をつけると、ワインは少し甘くて胸が苦しくなった。感情が抑えきれない。溢れそうだから、言わなければ多分食事なんか出来ない。
「先生、桐木先生、私、私は……」
涙が出そうになって喉が詰まる。でも桐木先生は、私の次の言葉を黙って待っててくれる。本当に、この人は泰然自若で羨ましい。すぐに感情が揺れてしまう自分が恥ずかしかったが、懸命に言葉にした。
「……私、桐木先生が大好きです」
「ありがとう。俺も君が好きなんだ」
桐木先生が見たことないくらい優しく笑うから、心臓が壊れるかと思うくらい高鳴って、私は泣いた。
前菜、スープ、魚料理に続いて出された口直しがシャリシャリして爽やかで美味しく、私が「これも美味しいですねー」とはしゃいでいたら、子供を見守る保護者ような目で桐木先生が笑っていた。悔しかったので少し文句を言った。
「えーと、先生は食べ慣れてるかもしれませんが、フレンチフルコースなんて庶民は滅多に食べないんですよ?」
「別に俺だって毎日こんなもん食べてるわけじゃない。むしろ忙しいんでゆっくり食事なんか出来ない」
「そうですね。時間をかけて食事するって贅沢ですね」
「今日は特に美女と一緒だからな」
「私も世界一の美男子と一緒に食事が出来て光栄です」
「……酔っぱらってるな。水飲め、水」
そう言われたので、私は自分のグラスに少し残っていた白ワインを飲み干した。多分かなり私は酔っていると思う。
肉料理もデセールも完食して、コーヒーを飲みながら、私たちはたくさん話をした。ここは何かの厚生施設なのだろうが「内緒」らしいので、それについては聞かないことにした。
檜町公園を散歩して酔いをさましてから、私たちが出会ったお店、アストライアーを目指して歩く。表通りは相変わらず人が多いから、離れないようにと繋いだ手が心地いい。少し前を歩く桐木先生の腕を、ぎゅっと引き寄せてみた。
「歩くの早かったか?」
決して早くなかったが、私は頷いた。
仕方ないなと笑って、桐木先生がゆっくりと歩いてくれる。
幸せすぎてふわふわして、喧騒が遠くなるみたいだった。
「大好き。私、桐木先生が大好きです」
聞こえないように呟いたつもりだったが、先生の耳たぶに朱が差すのが見える。
本当に、この人はなんて可愛いんだろう……。
でも、そんな夢心地は数分後に粉々にされた。
店のドアを開けて視界に飛び込んできたのは前夫・俊彰の姿だった。会社帰りらしくくたびれたスーツで、隣には妻の早苗ではなく……見たこともない女と親密な様子で一緒にいた。
「俊彰……あなた、早苗さんは?妊娠中の奥さんを放ったらかしなの?」
怒りで酔いも完全に醒めた。あんなに気持ち良く酔ってたのに。
「……梓?そんな格好だから一瞬わからなかった。痩せた?」
誰のせいで食事が喉を通らなくなったと思ってるんだ、この馬鹿。
私と桐木先生が一緒にいるのに気づくと、下卑た目で舐めるように見てきた。
「なんだ、弁護士センセイとデキてたのかお前」
桐木先生の腕が、電気が走ったようにびくっと動いたから、私は瞬時に引っ張ってとめる。
「殴っちゃだめです、先生! 私は気にしませんから」
私が話してるのもお構い無しに俊彰が喋る。だいぶ酒も入ってるようだ。
「股開いて、そいつとグルになって俺らから金ぶんどったのかよ。そんでその金でチャラチャラ遊んでるのか?いいご身分だな」
酷い物言いに、私は血が沸いて、声が震えた。
「先生を侮辱しないで……」
「お前、どうせ石女だから避妊もしてないんだろう。生でやりたい放題だな」
私が俊彰を殴るのが一番早かった。人生で最も敏速に動いた瞬間だと思う。
桐木先生もマスターも手が出てたけど、俊彰の一番近くにいた私が、全身の体重をかけて手の平で俊彰の顔面を張り倒したのだった。
桐木先生も経歴に傷がつくし、マスターだって店内で暴力沙汰だなんて、きっとクビになる。
そもそも私の問題なのだし。
私の手で終らせたかった。
鼻血をおさえながら、床に這いつくばった俊彰を見て(百万年の恋もさめるわ)と思っていた。
「二度と私の前に現れないでね」
成り行きを見ていた外野から、やるじゃん、姐ちゃん!等と喝采がわいた。満場で恥をかかされた俊彰が遠吠えしている。
「おまえ、ふざけんな。これ傷害だろ、警察呼ぶぞ」
「呼べばいい。俺が彼女を全力で弁護する」
桐木先生が凄むと極道です。
本当に以下略。
俊彰は逃げるように店から出ていく。女はそれを追わなかった。白けたような顔をして、マスターに謝っている。
「あー……私、出禁ですか?」
やっちゃったな。後悔はないけど。お気に入りのお店だったのに。
するとマスターが「ここの出資者は桐木先生なので、出入り禁止になるかどうかは先生に聞いてください」と言った。
「え?オーナー?」
「言ってなかったか?」
聞いてない聞いてないと首をぶんぶん横に振った。
自分の事務所の近くにいい店がなかったから自分で開いた、軽食が食べられて遅くまで開いてるのは単なる自分の都合だ、と。
「あそこ、事務室だし。本棚にあるの帳簿」
個室を指差して言う。
そうだ……カードキー式だった。照明も店内より明るいし。
「今更ですけど桐木先生、何者?まさか油田……」
「いや、さすがに油田は持ってない」
私のバカな質問は遮って先生はマスターに飲み物を頼んでいた。
奥の個室もとい事務室へ行き、中に入るとすぐに、先生が「手を見せて」と言った。
私の右手は真赤だった。桐木先生がそのまま持ち上げて私の手にキスするから、胸の奥がきゅっとなった。
そのまま包むように抱きすくめられた。
気持ちいい。先生は体が大きいから、私は全身がすっぽりと腕の中に収まってしまう。安心する。
「私、桐木先生にずっと側にいてほしいです」
私がそう言うと、先生がぎゅっと力をこめて抱き締めてきた。返事を待ったけど無言だったので、私はゆっくり顔をあげた。
桐木先生の綺麗な顔がすぐそこにあった。
「俺も、梓にずっと側にいてほしい」
長い長いキスをして、私たちは約束をした。
百日経ったこのあとで、これからも私は先生とたくさん話をするだろうと思う。
ありがとうございました。異世界もののプロット中に「ボイレコあればいいのに」と思い、書き始めました。当初より長くなってしまい、お砂糖を吐きながら四話にわけました。ちなみに資料で勉強はしたのですが、調停などの実体験はないので、なにかお気づきの点があれば教えてくださいね。
お読み頂き、本当にありがとうございました~。