3.先生はいつもゆっくり待ってくれるので、私は最後までそれに甘えた
夫婦関係等調整調停、事件名:離婚
第一回調停期日。まずは申立人である私が呼ばれた。
私が挨拶したのち、代理人である桐木先生が名刺を出すと、調停委員さん二名のうち年配の男性が「桐木というともしかして最高裁の…」と言いかけたので、桐木先生が遮るように「私の父です」と言っていた。桐木先生がものすごく嫌そうな顔をしていたので、調停委員さんからの印象が悪くなったら先生のせいにしようと思った。
調停は基本的には当事者が答えるので、先に提出していた書類の通り、私が夫の不貞による不和について話をする。不倫相手が妊娠中であり復縁の可能性はないとはっきり答えたので、二十分程で終わった。
続いて相手方の夫が呼び出される。夫は神代早苗を連れてきていた。
夫には代理人を通して「利害関係人として神代早苗を連れてきて欲しい」とお願いしておいた。不倫相手が調停に参加しないと、法的拘束力が得られない。逃げられるかと心配していたが、むしろ望んで来ている様子だった。きっと私に挑みたいんだろう……。
何を主張したのかわからないが、次に呼ばれたときに調停委員さんが困った顔をしていた。
「離婚には同意されてるんですが、慰謝料に関して納得できないようで。相手方の女性が、奥さんに慰謝料請求すると言ってます」
「……は?」
申立をすると決めてから、桐木先生や榊さんに資料をもらって、私なりに勉強もしたから、その主張がとんでもないことはわかった。
「こちらから説明はしたのですが。相手方はあなたも含めて話したいと希望されています。勿論、別件として扱って別の日に話し合うことも出来ます。どうしますか?」
いざとなると私は少しだけ怯んでしまった。隣にいる桐木先生に視線を投げると悠然と笑い返されたので、私は調停委員さんの方に向き直って答えた。
「大丈夫です。よろしくお願いします」
「私達は愛し合ってるだけ」「奥さんが邪魔してるだけ」「さっさと別れてくれなかった奥さんがおかしい」「だから慰謝料をよこせ」
要約すると、神代早苗の主張はこうだった。愛し合っている二人の邪魔をしているのが私らしい。虫唾の走るような自己陶酔もいい加減にして欲しい。頭が痛い。
「私は悪くないでしょ?!」
何故か自分が慰謝料をもらえるものだと思い込んでいる神代早苗がなかなか納得してくれない。
夫が有責配偶者で、神代早苗が共同不法行為者であり、申立人が慰謝料請求する立場なのだと調停委員さんが嚙み砕いて説明しても、「でも私ももらえるでしょ?」と言う。
民法によるところの不貞行為に対する慰謝料請求である、と桐木先生も説明してくれたけど、愛がどうだのといった次元の違う話になってしまう。平行線をたどって堂々巡りしてしまい、妊婦でもある神代早苗を落ち着かせるため、一旦休憩をはさんだ。このままだと次回に持ち越されかねない。出来れば長引かせたくないと思っていた。
「桐木先生……私、耳栓していいですか?」
「ああ、いいぞ。と言いたいが我慢してくれ」
「ですよねー……」
桐木先生は何かを言いかけてやめた。
「すぐ戻る」
そう言って桐木先生は電話をしながら廊下の端へと行ってしまった。他にもたくさん案件を抱えて忙しいのに申し訳ない。ひとり残された私は、申立人控え室に行く気にもなれず、白い壁にもたれながら、ため息ばかり吐いていた。
「はい、差し入れ」
急に目の前にお茶のペットボトルが差し出された。
顔をあげると森林判事がそこにいた。今日は法服ではなく、グレーのスーツを着ている。
「ありがとうございます」
「立場上、口は出せないけど、差し入れくらいは、ね」
森林判事が力強く笑うと少し元気をもらえた。担当は別の裁判官だから、自分は何も言えないという。
いただきますと言って一口お茶を飲む。俊彰とあの女ばかりがしゃべって、自分はあまり口を開いてないつもりだったが、やはり喉は乾いていた。冷たくて気持ちよかった。
「担当が俺じゃなくてよかったよ」
「どうしてですか?知り合いだからですか?」
「いや、笑って仕事にならないだろうから」
そういって森林判事は笑いを噛み殺している。何がだろうと思っていると森林判事が続けて言った。
「だって、あの狭い調停室に桐木がいると思うと……それだけで笑えるっ」
「笑いすぎですよ」
私もそう言いながら一緒に笑ってしまった。確かにそうなのだ。天井の低い狭い調停室は、身体の大きな桐木先生には窮屈すぎる。
「離婚の案件は、勿論俺もいくつかみてきたけど、当事者は本当に疲れるよね。きついと思うけど、調停では思ってることを素直に言えばいいから」
私が頷くと森林判事はおどけたような顔で廊下の端を指さす。
「まあ、あれがいるから大丈夫でしょ」
あれ、と言われた桐木先生が廊下の端からこちらに歩いてくるので、「やば、じゃーね」と言って森林判事は風のように逃げてしまった。
男女が別れるのに、どちらか一方が100%悪いなんてことあるわけない。俊彰を選んだのは私だ。だから話をしたかった。自分の悪かった所も含めて話したかったのに。
再開された話し合いの中で、俊彰の心が完全に私から離れているのが伝わってきた。
一緒に暮らしていたころは、こんな風に言い合いすらしたことなかった。本当は私に向かって言いたいことがたくさんあったんだろうか。どうしてこうなったんだろう。どこでどう私達は間違えたんだろう。喧嘩になってもいいから逃げずにたくさん話をするべきだった。
でも私は、こと不貞については俊彰を許すつもりはなかった。別れてから付き合えばよかったのだから。婚姻関係継続中に、他の女と子供まで作ったことは絶対に許せなかった。
桐木先生はいちいち細かく反論したりしなかった。喋らせるだけ相手に喋らせて、「お話になりませんね」で終わらせる。省エネ調停。実にエコ。
あまりにも自分たちの都合のいいように嘘ばかりつくので、仕方なくこちらの証拠である例の会話の録音データを出した。俊彰と神代早苗は真っ青な顔をしていた。
「なんだよ、これ」
「盗聴じゃないの?ねえ?何これ」
「客観的な証拠です」
私が二人に向かってそう答えると、俊彰が私に向かって卑怯だとか気持ち悪いと罵ってきた。あまりにも暴言が酷いので、調停委員さんに止められるくらいに。
「これから赤ちゃんも産まれるのに酷い!汚いわよ!そんなにお金が欲しいの?そんなだから捨てられるのよ!」
自分が慰謝料を払う立場なのだと、ようやく理解して、髪を振り乱して叫んでいる神代早苗の姿を見ても、もはや何の感情もなかった。馬鹿馬鹿しいこの茶番をさっさと終わらせたい。
一転して低姿勢に減額を頼み込んできたが、減額するつもりは毛頭なかった。
「お願い。貯金なくなっちゃうわ。赤ちゃんがかわいそう」
泣いている美人というのは、男の同情を誘うものである。上目遣いの神代早苗の泣き顔は、俊彰には通用しても桐木先生には効き目がなかったようで、「仕方ありません。既婚者であることを知っていてお付き合いされてたのですから」と無表情に淡々と言われ、忌ま忌ましそうに私を睨み付けてきた。
「でも三百万円なんて!」
「……私は妥当だと思っています」
はっきりと減額の意思がないことを伝える。泣いてばかりで何も言い返さないとでも思ってた?
「なんなのよお……」
顔をゆがめてうつむく様子を見て、私に向かって「惨めすぎてかわいそう」と言っていたこの女自身が、惨めで可哀そうだった。
俊彰と神代早苗の双方から三百万円ずつ、慰謝料をもらって別れる事になった。
とられた金目のもの――といっても小型家電や現金だけだったが――は、現金化して財産分与の一部として受けとることになった。支払いを確認したら窃盗の方は被害届を取り下げることで合意した。
その日は、事務所に入ってすぐの面談ブースではなく、桐木先生のデスクに案内された。机の上は綺麗に整理され、棚のファイルも几帳面に整頓されている。広い部屋で、応接用のローテーブルと椅子もある。榊さんの机もあったが、ここまで案内してくれた榊さんはいつものように明るく笑って、何故か席を外した。
挨拶するとソファに座るように促され、桐木先生から通帳を渡された。中を開くときちんと慰謝料が振り込まれていた。しばらく無言でその数字の羅列を眺めていた。虚しさしか感じない。
終わりか。
あっさりと終わった。
泣いて喚いて……疲れたなぁ……。
コーヒーの芳香に気づいて通帳を膝に置くと、桐木先生が湯気の昇るカップを二つ持って傍に立っていた。
「お疲れ様」
桐木先生の低い声はとても落ち着く。私は、コーヒーが冷めるのを待って一口飲んだ。その間、ずっと先生は黙ったままだった。
私が口を開くのを待ってくれている。
そうだ、初めて会った時からそうだった。この人は黙って待ってくれていた。泣いていても、泣いてなくても。
「ありがとうございました。桐木先生がいなかったら、私は多分、相手のいいように振り回されて泣き寝入りでした」
私は桐木先生に心から御礼を言った。
「君が頑張ったからだ。俺はほんの少し手助けしただけ。それに十分報酬も得られるし」
そう言って桐木先生は請求書を差し出した。成功報酬は慰謝料の二割にしたから百二十万円。それに日当や交通費などの諸経費と――。
「先生、請求書に着手金が入ってません」
私がそう言うと、桐木先生は首をかしげて言った。
「着手金はいらないと言ったはずだが」
「後払いの意味かと思ってました」
「いいよ。おつりがくるって言っただろう?」
そうだった。号泣してぐちゃぐちゃの素顔を見て大爆笑されたんだった。
「案件終了だな」
そう言って、先生が右手を差し出す。私は躊躇うことなく握り返した。
「本当にお世話になりました」
「ああ。林原……じゃなくて」
「上松です。上松梓です」
私は旧姓を告げた。
「……梓、さん」
桐木先生は私を名前で呼び、握手したその手をなかなか離さなかった。
「先生?」
桐木先生が真っ直ぐに見つめてくるので、私の心臓が早くなる。少し笑って先生が言った。
「最後に食事に行かないか?」
最後……。
当たり前のはずのその言葉に打ちのめされそうになる。
そう、もう会うことはない。
「打ち上げですねー!行きましょう!」
私は、わざとらしいくらいに明るく言った。
「お疲れ様でしたー!」
ご近所の居酒屋で、桐木先生と榊さんと私と、何故か店にいた森林判事との四人で、中ジョッキを天にむかって掲げる。一気に飲み干して「美味しい!」と笑ったら、榊さんが目を真ん丸くして「男前ですね」と呟いていた。森林判事は「いいねーいいねー飲め飲め」と手を叩いて喜んでいる。
「ここ、お魚が美味しいから」
「なんか普通に座ってるけど、なんでお前がいるの」
案の定、森林判事に桐木先生がつっこむと、榊さんが手を挙げた。
「僕が森林先輩に連絡しました!」
「榊、お前クビな」
「森林先輩には逆らえないんです~」
大学のゼミの先輩後輩らしい。「刺身が食べたい。イカ食べたい」と言ってオーダーしてる森林判事の前で「俺と森林、どっちの言う事が優先なんだ?ああ?」「どっちもです~」と師弟が揉め始めていた。
それを横目に、オーダーを終えた森林判事が小声で手招きする。
「ちょっとちょっと、梓ちゃん」
聞こえないので、移動して顔を寄せた。
「何ですか?」
「梓ちゃんてさぁ、桐木の事どう思ってんの?」
「え?あ、はい、とても尊敬してるし、感謝してます。顔は時々まじやべーなって思うことありますけど。ほら今みたいに」
「いや、そうじゃなくてさー……」
そこに榊さんが割り込んできた。
「森林先輩、桐木先生が物凄い顔で睨んでるんで、ちょっと離れてください」
そして、榊さんが私の隣に座る。どうやら、上司一番、先輩二番の順番になったらしい。
向かいでは追い払われた森林判事と桐木先生が喧嘩をはじめていたが、じゃれてるだけだろうから放っておいた。
「林原さん、じゃなかった梓さん。本当にお疲れ様でした。僕もとても勉強になりました」
「とんでもないです。いつもありがとうございました」
二人でペコペコ頭を下げる。
「僕、桐木先生みたいに企業法務専門って思ってたんですけど、ああいう家事も遣り甲斐ありますね」
「………………え?」
「いや、民事とか家事なんて初めての案件だったから、本当に物凄く勉強になって……あれ?梓さん?」
「ポカーンとしてるけど、どうした?目を開けて寝てるのか?もう酔っぱらったか?」
私の顔の前で、桐木先生が大きな手をひらひらさせていた。その手を掴んで私は訊いた。
「桐木先生、質問していいですか?」
「質問内容によっては相談料もらうぞ」
「わかりました、払います。桐木先生はいつもは企業法務専門なんですか?なんで私の依頼を引き受けたんですか?」
その場の全員が沈黙した。
「何この子、鈍……」
「これだけ特別扱いされてもわかりません???」
「榊くん、お願い黙って。本当にクビにするよ?ね?」
「わかりました。僕はあと百日黙ってます」
「百日……?」
「何この子、鈍……」
森林判事が同じことを二回繰り返していた。
終電が、と言ったのに二軒目にも連れていかれ、泥酔した森林判事に「御祝儀の前払いじゃー!」とお札をねじ込まれてタクシーに乗った。
翌朝の土曜日、二日酔いの私は、ベッドの上でたくさん泣いた。
全部終わった。全部。
それきり、桐木先生と連絡をとることはなかった。
多分、私は桐木先生に惹かれている。だからもう会えないと思うと辛くて苦しかった。
引越したり、実家に帰ったり、友人と会ったりしていると、時間はあっという間に過ぎていった。そして、離婚から三ヶ月と少し経った頃、鳥居坂法律事務所から着信があった。




