2.私がついてきてくださいねと言ったら先生は、君がついてくると言ったんだろうと笑った
「え、お義父さん?お義母さんも……」
リビングはめちゃくちゃに荒らされていた。それこそ泥棒に入られたあとのように。いや泥棒の方がプロな分マシかもしれない。
荒れた部屋の中に、俊彰と女、そして俊彰の両親が立っている。
蔑むような目でこちらを見ているその女、神代早苗を目の当たりにして、私は床に釘付けされたように動けなくなってしまった。
不倫しておきながら、堂々と家に乗り込んで来るなんて……。腸が煮えるってこういう時に使うんだ。腹の奥から血が逆流しそうだった。大声で罵りながら、ここにいる全員をめちゃくちゃに殴り付けてやりたい衝動に駆られて、自分が嫌になる。
「今日は早かったんだな」
俊彰の冷たい声に頭が冴える。
私は震える手でスーツの胸をぎゅっと掴んだ。
「まさかとは思うけど、金目のものをとりに来たの……?」
私の問いかけに俊彰は無表情で答えた。
「そうだ。別にいいだろう?」
「でも、家具や家電はほとんど私が買ったものよ……?」
「だから何だよ」
馬鹿だ。私は何でこんな男と一緒に暮らしていたんだろう。クソバカじゃないか、こいつ!
「お義父さん、お義母さんもお手伝いですか。酷いですね。まだ離婚してませんよね?」
私がそう言うのを、神代早苗が嘲るように笑う。
「そうそう。まだ離婚届、出してくれてないんですよね?困るんで、早く離婚届を書いてくれませんか?今ここでもいいですよ?ねぇ、俊彰さん」
勝ち誇ったように神代早苗は笑い続けている。美人なはずなのに、私にはその顔はひどく醜く見えた。
それを無視して私は俊彰に話しかける。
「私はまだ離婚届は書きたくない。話がしたいの。俊彰、時間を作ってくれない?」
笑いが堪えきれないという様子で神代早苗が口元を手でおさえる。
「うふっ!何を話し合うんですか?もう遅いのに」
見せつけるようにお腹をなでさすり、俊彰の腕にもたれかかった。
―――それは私の夫よ?
吐きそうだ。
「赤ちゃんのためにも、早く書いてくださーい」
私たちが言い争ってる間に、俊彰の両親がそそくさと荷物をまとめている。
私の知ってる俊彰の両親はこんな人達だったかな。別人みたいに冷たい顔をしている。
「神代さん、あなたは本当に妊娠してるの?」
「私が嘘ついてると思ってるの?キャハハ!エコー写真見せてあげようか?ほら、可愛い赤ちゃん写ってるよ。あ、でも梓さんってこども出来ないんでしたっけ。嫉妬しないでくださいねえ」
私は不妊ではない。だが流産したのは事実だ。たとえ早期流産の割合が妊婦の六人に一人だとしても、その一人が私だった。お腹の中で死んでしまった子供の命を思い出すと、さすがに堪える。あの時の痛みが記憶をよぎり、全身の震えが止まらなくなって奥歯がガチガチと音を立てていた。
「もう、いいから。さあ、帰りましょう」
焦るように義母が横から言った。
「……俊彰、あなたまさか、練馬の……自分の実家に、その人も一緒に?」
「そうだよ!一緒に住んでるんだよ!もう家族だもの。梓さんって同居は絶対やだって言ってたんでしょ?ひどいよね!私は優しいおとうさんとおかあさんを大事にするから、安心して離婚してね?」
「いい加減にして!俊彰に質問してるのに、なんでさっきからこの女が答えてるのよ!!」
私は思わず甲高い声で怒鳴ってしまった。それを聞いた神代早苗が「うわ、オバサンコワーイ」とふざけて身をすくめる。神経を逆なでしてくるその態度に、もう同じ空間にいることが耐えられなくなってきた。誰か助けて。
「同居を拒否したのは事実だけど、それは俊彰も同じじゃない」
「でも金遣いも荒くて、料理とか全然しなかったんでしょ?妻失格だよねー!」
平日遅くなったら、お総菜買って帰ることも多かったよ。でも俊彰が一切準備しないから、残業した日は、そうせざるを得なかったんじゃない。休日は料理してたじゃない。
「俊彰……なんで嘘ばっかりついてるの……?そんなに私が嫌いだったの……?」
悔しくて泣く事しか出来なかった。情けない情けない情けない!
「あらら、元奥さんおかしくなっちゃった。顔、青いよ。惨めすぎてかわいそうになってきたわ。帰りましょう、俊彰さん」
「待ってよ、俊彰!返事してよ!」
私の懇願を無視して家を出ていく四人の背中を見ても、これが現実だと思えなかった。
部屋に独り取り残された私は、初めて俊彰のご両親に会った時の事を思い出していた。
お義母さんは「うちは俊彰ひとりだから、娘が出来てうれしい」って言ってたじゃないですか。一緒に買い物したり、結婚して一年目には家族旅行にも行ったじゃないですか。リビングに置いてあったその沖縄旅行の写真を見て心臓が苦しくなった。私はまたスーツの胸をぎゅっと掴む。
リビングにはたくさん写真を飾っていた。付き合い始めた頃の照れてる俊彰が若い私の隣で笑っている。格好よくて優しくて一番人気だったバイトの先輩。告白されたとき、結婚したとき、皆に祝福されたあの瞬間。このリビングで一緒に映画をみたり、キスをしたりした、そんな思い出が苦しくて、泣くしかなかった。
ぶるぶる震えながら私は電話を掛ける。
ほんの数コールが永遠に感じていた。
先生!先生!先生!早く出て先生!!!
『こんな時間にどうした?何かあったのか?』
電話の向こうのその人に、私は叫ぶしかなかった。
「助けて!桐木先生、助けて!」
桐木先生の顔を見たら、ほっとして力が抜けた。床にへたりこんでいた私を力強く支えてソファに座らせてくれる。また涙がこみ上げてきた。
鳥居坂から広尾までは車なら十分かからない。ものの五分で来てくれた桐木先生は、荒れた部屋を見てすぐに悟ったようだった。
「会ったのか」
「はい」
「約束は守ったか?」
「はい……」
そう答えて私はスーツの胸ポケットからボイスレコーダーを取り出した。
先ほどのやり取りが全て録音されている。
契約の時に約束した。
もしも旦那や不倫相手と遭遇したら、会話は全て録音する事。
相手を侮辱するような事は言わない事。
どんなに腹が立っても、物を投げたり、暴力をふるったりしない事。
―――絶対にこちらが不利にならないように。
再生した音声を聞きながら、桐木先生は、こめかみに手をあててうんざりした顔をしている。聞くに堪えないんだろう。私は耳をふさいでいたが、笑っている神代早苗の顔がフラッシュバックしてトイレで二回戻した。
全て聞き終えた桐木先生は、大きなため息をひとつ吐いた。
そして、白い顔でソファに座ってる私の前に跪いて、私の両肩に手を置く。
「頑張ったな……」
その言葉に、また涙がボタボタ落ちてくる。
かすかに煙草の匂いがして、この人は煙草吸うんだなぁ、どんな風に吸うんだろうか。多分きっとセクシーに吸うんだろうなと、どうでもいいことを考えていた。
そうでもしないと気が狂いそうだったので。
「えー、こりゃ酷いや。警察も呼びます?」
「そうだな……そうするか」
「夫ひとりじゃなくて他人も一緒ですもんね。勝手すぎて許せないなあ」
あとから追ってきた榊さんが、部屋の中の写真を撮りながら桐木先生と話している。
夫婦間の窃盗は不起訴処分になる可能性が高いが、今回は神代早苗や夫の両親もいたため被害届は出すことにした。
「しかし、何か頭悪そうな女ですね……べらべらよくしゃべって」
「こっちは楽に証拠がとれたのでいいが……」
「あー……林原さんのダメージが大きいですよね……すみません」
榊さんが私の方を向いて頭を下げる。
「大丈夫ですよ。桐木先生がすぐ来てくださいましたし」
それを聞いた榊さんがにやっと笑った。
「そうなんですよ。飛んで行ったんです。よね?先生!」
「榊、黙れ」
「別件の打合せ中だったんですよ。なのに林原さんから電話あったら、全部放り出して愛車で飛び出しましたもんね。せんせー?」
にやにやしている榊さんを見て、桐木先生は額に手をあてて目をそらした。
「『すまん、河村!あと頼む!』って言って。マスタングのエンジン音がドーンって鳴って走り去っていくのを見た河村先生、なんて言ったと思います?『え、あれ右ハンドルのマスタング?レアじゃん』って。全員で、河村先生、そこ?いまそこ?ってつっこみましたよー」と榊さんの話は陽気さを増して勢いよく続いている。
カワムラ先生、みなさん、私のせいでごめんなさい。
「頼む、もう黙って、榊くん。あとで何でも奢るから」
「やったー!」
「私が取り乱してたからですよね。大事な打合せ中にすみませんでした。ありがとうございます」
私が改めて御礼を言うと二人が微妙な顔をした。
「……林原さんって、鈍い?」
榊さんはそう言うと「僕が頑張ります」と桐木先生の背中を叩いていた。
翌週の火曜日、私は会社を休んで午前中に戸籍謄本をとりに行き、午後から東京家庭裁判所に出向いた。夫婦関係等調整調停の申立のために。
申立に関する書類一式は、すでに榊さんを通じて事務所に預けてある。事情説明書の「夫婦が不和となったいきさつや調停を申し立てた理由」についての項目は、きっと調停委員さんがびっくりするであろうくらい詳細に作成した。勿論、榊さんに手伝ってもらって。
そして内容をチェックした桐木先生が、ちょうど東京地方裁判所と公正取引委員会に用があるからついでに自分が持っていくと言ってくれたのだ。金曜日にその旨を電話してくれた榊さんに、私も来週は年休がとれるのでついていきたいと伝えたら、何故か明るい声で『OKです!是非是非一緒に!!』と即答された。
空港の手荷物検査場のようなセキュリティチェックを受けて、私は東京家裁の中に入った。一階で待ち合わせのはずだが、桐木先生の姿は見当たらない。早すぎたかなと思って壁際のベンチに座る。フロアには人がたくさんいた。スーツ姿の人、年配の女性、若い男性等々。裁判所というと堅苦しいイメージだったが、事務受付のある一階の雰囲気は他の役所とあまり変わらない。ただ、やたら天井が高いなあと思っていた。
私は手元にある戸籍謄本を取り出した。戸籍には、私と俊彰が結婚した日付が書いてある。
この結婚記念日に、私は離婚を決意したんだ。私と桐木先生が出会ったこの日に。
「やっぱり申し立てるのやめるか?」
顔を上げると、真剣な表情で桐木先生が立っていた。協議離婚を望んでいた私の気持ちを再確認しようとしているんだろう。
「先生はお人好しですね」
「そんなこと初めて言われた」
私は立ち上がって、家事事件受付窓口へと向かった。
「行きましょう。窓口あそこですよね。先生ついてきてくださいね」
「君がついてくると言ったんだろう。書類は俺が持ってるんだぞ」
やれやれと呆れたように笑って、先生が私を追い越す。
足の長さが違うからズルいと思いながら、フロアを斜めに突っ切って歩いた。何も怖くなかった。
受付後、「せっかく来たんだから、調停室がどんなものか見ていこうか」と桐木先生が言ってくれたので、私達はエレベーターで上階へ昇った。調停室や法廷、申立人と相手方の待合室等があり、さすがに一階とは雰囲気が違う。私はなるべく桐木先生にくっついて家裁の廊下を歩いていた。すると、突然朗らかな声で呼び止められた。
「おい、桐木!久しぶり。まだ反抗期なのか?」
裾の長い黒い法服をひらめかせて、若い裁判官がこちらへ手を振りながら歩いてくる。桐木先生と対照的な、スポーティーな短髪が爽やかな人だった。
「森林……何でお前がここにいるんだよ……」
「何でって、年末の人事で仙台から戻ってきたんだぜ。葉書出しただろ」
「捨てた」
「酷いな」
私が「反抗期?」と首を捻ってると、森林と呼ばれたその判事さんが小さな声で言った。
「知ってます?こいつの親父さん、最高裁の判事なんですよ。超エリート。なのに息子はこんな万年反抗期……って痛!」
桐木先生が森林判事の肩を殴り付けている。裁判所の中で裁判官に暴力ふるってるヤバイ人にしか見えないなと思っていたら、森林判事がにこにこしながら私の方に向き直った。
「バッジつけてないけど事務の子かな?可愛いね。彼氏いる?今度、俺と食事に行かない?」
バッジとは、弁護士記章か司法修習生の三色バッジの事だろう。いきなり食事に誘う軟派さが、いま森林判事が着ている法服に全然似合ってない。ちょっと面白くて笑ったら、肯定と受け取ったようだ。
「いつにする?土曜は?最近、いい店見つけて……って痛!」
「この人は依頼人だ」
桐木先生が遮るようにそう言うと森林判事は大袈裟に驚いていた。
「はあ?お前が家事?え、なに、家裁にいるの仕事?嘘だろ」
「他に何だと思ったんだよ」
「俺に会いにきたのかと」
「んなわけあるか。お前がここにいる事も知らなかったのに」
「へーへーほーふーん」とやたらハ行を連発しながら森林判事は桐木先生の肩をがっしと抱いて廊下の隅に寄る。顔を寄せあってこそこそ何かを話してるのを眺めながら、私は仲良いんだなぁ同期かなぁと思っていた。
それから約一ヶ月後、私は夫婦関係等調整調停のため、再び東京家庭裁判所に出向いた。