ミチヅレ
「ねえ、何か聞こえない?」
そう友人に言ってから、耳を澄ました。
女子トイレの手洗い場。
排水口の奥をわたしはじぃーっと覗き込んでいた。
「んー?、何にも聞こえないよ」
友人が首を傾げた。
「どこかの病室からじゃないの?」
「そうかな」
午後4時の入院病棟だった。
廊下には、見舞いに訪れた面会者たちと入院患者たちとが談笑する声が時折響いていた。
でも、わたしが聞いたのはそういう声ではなかった。
「それよりも指輪。ごめんね、あたしが妹のお見舞いにつき合ってって言ったばっかりに」
「ううん気にしないで、どうせ安物だし。わたしの不注意」
すとん、と排水口に落ちて見えなくなるのは一瞬だった。
古い病院に見合った薄暗い手洗い場で、当然のように排水口にゴミ受けのようなものは一切ついていなかったのだ。
仕方ないよ、諦めたから大丈夫、そう言ったのだが。
「ダメだよ。やっぱり、ナースステーションに行って話してくる。待ってて!」
止める間もなく、友人はドアから飛び出していった。
「……確かに詰まっても困るか」
具合が悪くてみんな入院しているのだ。手洗い場まで故障してしまったら、ますます患者たちの日常は不便になる。
そう思うとかえって申しわけない気持ちでいっぱいになった。
女子トイレにひとり。
取り残され、しばらくするとまた例の声が聞こえてきた。
……うー、……うー。
正直気味悪く思ったが、ここは病院だ。
配管を通じて、院内のどこかの音が聞こえているだけかもしれない。
例えば、ボイラーや洗濯機の類のような。
10分経った。
友人は戻ってこない。
心配になってナースステーションで聞いてみたが、「ちょっと、わからない」と言われてしまった。
看護師に洗面所で指輪を落としてしまったことと連絡先を伝え、わたしは友人を探しに向かった。
家族や会社から、急な呼び出しがあったのかもしれない。
だったらひと言くらい連絡くれてもいいのに。
院内を探し回っても見つからず、とうとう外へ出てきてしまった。
つくづく古い病院だ。
窓はきれいに磨かれているが、コンクリートの壁には亀裂があった。
正面の駐車場では車や人の動きがあるが、裏手にある切り出された土手や鬱そうと茂る森はひっそりと静まり返っている。
空気もよく、療養するには素晴らしい環境だが、随分と建物の老朽化が激しいのが気になる。
待てど暮らせど音沙汰ないので、友人をスマホで呼び出してみた。
「あ、マナーモードか」
電源を切られている可能性もある。
諦めて病院内に戻りかけた時、またあの声が聞こえた。
……うー、……うー。
音の発生源をわたしはついに突き止めた。
土手近くにあるマンホールだ。
しかも、蓋が大きくずれていた。
昨晩のゲリラ豪雨で、蓋が飛ばされてしまったのかもしれない。
そういったニュースを見たのを思い出した。
そして音は、音ではなくやはり声のようであった。
見渡すとマンホールはひとつではない。
気味悪さが増した。
けれども同時に、人が落ちて助けを呼んでいるのかもしれないとも思った。
誰かに知らせなきゃ。
駆け出したとたん、ふいに足を踏み外した。
「あっ!」
落ちた、と思った。
冷や汗と、浮遊感。
限りなく全身が擦りむけ、頭と背中に強い衝撃が走った。
ドドドドドッ、ザザザザザッ!
深い、死ぬ、と直感した。
ドスっと肩を強打して、やっと落下は止まった。
助けを呼ぼうにも声が出ない。
目の前に落ちたスマホを取ろうにも、手足が動かない。
地面には不快に生温かいものと、粘液性のものが広がっていた。
胃液が込み上げてくるような異臭の中で、何者かの肉を啜り、骨を噛み砕く音がした。
いくつもの息遣いの中に、わたしは例のあの声を聞いた。
……うー、……うー。
息が止まりそうになった。
集団で発光する気味悪い虫が、土の壁にびっしりとたまごを産んでいた。
毛むくじゃらな猛獣たちが共食いをし、土を掘り、病院の地下を穴だらけにしていた。
亡者のような巨体が群れを成し、怒り狂ったように病院を支える杭へと噛みついている。
薄闇の中、わたしは猛獣と目が合った。
人間だ。
住処を追われた彼らがそう言ったように見えた。
その昔、この一帯は動物たちが暮らす豊かな森だったのを思い出した。
人間だ! 人間だ!
怨念と憎悪がさらなる狂気を呼んだ。
わたしは手足を引き千切られた。
果汁のように体液がはじけ、表も裏もなく内臓を引きずり出された。
──ヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤメヤメゴメンゴメンゴメンゴメンゴメ……!
スマホがメッセージを受信した。
≪指輪、看護師さんに取って貰ったよ~!≫
そのとたん地鳴りが聞こえた。
杭は拉げ、洞穴は音を立てて崩落した。
周りのものすべてが道連れだ──。
了
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