ミクトラン帝国 32 西方の不穏
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侯爵家で開かれたパーティーの数日後、僕とシェリスは、シャイナ達の帰国に合わせて、一緒にミクトラン帝国を発つことになっていた。
もう少しゆっくりして行かれれば、とのありがたいお誘いをフェアリーチェ王妃様からもいただいていたのだけれど、エルヴィラに残っていらっしゃる母様から書簡が届けられて、国王様がシェリスに会えずに大層寂しがっているから、申し訳ないのだけれど、そろそろ戻って来てはくれないかしらというメッセージをいただいた。
「それに、兄様の誕生日もお祝いしなくちゃ」
そちらに関しては、僕としては割とどうでも良かったのだけれど、シェリスにとっては重大な案件であるらしく、頑なに譲ろうとはしなかった。
「お兄様の誕生日は来月、春の第2月、フィオリトの9日よ。もう時間もあまりないわ」
「いや、わざわざ言わなくても、流石に僕だって自分の誕生日を忘れたりはしないよ」
もちろん、シェリスの誕生日も、シャイナも、クリストフ様のものも忘れたりはしないけれど。
「まあ、そうなのですか。それは是非、私もお祝いさせていただきたいのですけれど、お邪魔させていただいてもよろしいでしょうか?」
エルマーナ皇女が、ルビーのような紅い瞳を輝かせて、胸の前で手を合わせられる。
「ええ、是非! エルマーナ姫に祝ってもらえたら、お兄様もきっとお喜びになるわ」
シェリスが僕の方を振り向き、エルマーナ皇女と一緒に僕の方を見つめるので、僕は光栄ですと頭を下げた。
「そういえば」
忘れていましたとでも言いたそうな口調だったけれど、確実にそうではないと断言できる。
「シャイナ姫はユーグリッド様のお誕生日のお祝いには行かれないのですか?」
基本的に我が家の誕生日は家族だけで祝う事にしているので――そうでもしないと、例えば父様の誕生日なんかにはエルヴィラ中の方がお城へ、文字通り、詰め寄せることになってしまい、とてもではないけれど、お城に収まりきらなくなるどころか、それはもう誕生日のパーティーではなく、お祭りになってしまうからだ。
もちろん、街の方では父様の時も、母様の時も、シェリスの時でも、もちろん僕の時にも、ぞれぞれ公的な催しではないにしろ、お祭り的な騒ぎになっているのだということは知っているけれど。
だから、今まで僕やシェリスの誕生日に、お城で、正確には家族でのお祝いの席に、他の方を招待したことはなかった。
けれど、おそらく、お城の誰に聞いても、シャイナや、あるいはエルマーナ皇女を招待することについて、歓迎こそされ、渋られるということはないだろう。
「わ、私は……」
シャイナがわずかに首を傾けて、僕の事を見上げる。
しかし、視線が合うと、さっと顔を元へと戻してしまった。
柔らかな風になびく銀の髪の隙間から、赤く染まった耳が見え隠れしている。
「招待されたのであれば、失礼になりますので、参上しないということもありません」
隣のシェリスから、やれやれというような雰囲気を感じる。
シャイナの奥ではクリストフ様が、仕方ないなあとでもおっしゃるように肩を竦めていらした。
「うん! じゃあ、帰ったらすぐに招待状を書くよ!」
すぐ出そう。すぐに飛ばそう。
「もちろん、エルマーナ皇女にもお出しいたします」
エルマーナ皇女は、柔らかな笑顔でお礼をおっしゃられた。
それでは、と馬車へと乗り込もうとしたところ、
「あっ、すみません、ユーグリッド様。母からの言伝をすっかり忘れておりました」
思いついたような、不思議なお顔をされたエルマーナ皇女に呼び止められた。
「何でしょう?」
僕は馬車の前に置かれていた台にかけていた足を引き戻して振り向く。
「実は、内密な話なのですが……」
それならば、念話で教えてくださってもよさそうなものだけれど。
内密な話、と言われれば、口元へ耳を寄せる他ない。
僕は近寄ってこられたエルマーナ皇女の側で、身体をかがめる。
耳を向ける直前、エルマーナ皇女が、一瞬、シャイナへと意味ありげな視線を流された。
そして、頬に、花びらのような柔らかなものがふわりとふれて、離れていった。
隣のシェリスが驚いたような顔で、しかし楽しそうに、小さく悲鳴を上げる。
「私、諦めは悪いんです」
そうおっしゃられたエルマーナ皇女は、まぶしい笑顔を浮かべていた。
「それから、宣戦布告です」
「宣戦布告というのでしたら、先日も告白を受け取りましたが?」
もっとも、パーティーの時には断ってしまったのであまり宣戦布告といった感じではなかったのかもしれない。
僕がそう尋ねると、エルマーナ皇女は子供を見る母親のような顔を浮かべていた。
シェリスも、仕方ないわね、とでも言いたそうに、これ見よがしにため息をついていた。
一体、何だというのだろう。
「少し、サービスが過剰過ぎる気もしましたが、十分満足致しました。早くしないと、私が貰いにゆきますからね」
エルマーナ皇女はそれでもう言いたいことは全部言い切ったというように、黙ってしまわれた。
「ユーグリッド様。我が国北方の砦から知らせが」
北方というと、ミクトラン帝国の西という事だろうか。
それなら、もう少し、こちらのお城でも動きがあってよさそうだけれど。
まあ、帝国にはあまり関係のない話かもしれないし、そもそも、モンドゥム陛下が、一応客人であるところの僕達にそのような事態を悟らせるようなへまをしたりはしないだろう。しかも、この出立直前という時間帯に。
「そちらに関しては……とりあえず、一端、王宮へ戻りましょう。父様と母様も何かご存知かもしれませんし」
何も、ほとんど情報がない段階で、大胆に動くのには、リスクが高い。
シェリスはそんなこと気にしないというだろうけれど、僕は気にするし、滞在するための準備も必要だ。
「申し訳ありません、エルマーナ姫。お名残り惜しいですが、私たちはこれで失礼いたします」
「また、お会いできる日を心待ちにしております」
エルマーナ皇女も、こちらの事情を悟ってくださったのだろう。それ以上、引き留められることはなかった。
シャイナにも尋ねてみたかったけれど、アルデンシアとは直接関係のない土地の出来事だし、と思っていると、馬車に乗り、走り始めて少ししたところで、クリストフ様から念話が届いた。
国家機密というほどの事でも、今のところはないので――というよりも、僕自身分かっていることが少な過ぎる――聞いたままをそのまま伝えた。
『詳しいことは、後程出向いて確認するつもりですが、オーリック公国の方で、問題が起きているようです』
伝聞では、いかに魔法があるとはいえ、やはり自分の目で見るのには劣る。
『では、僕達もご一緒させていただいてもよろしいですか? 友好国の危機とも分かれば、いずれ救援が出ることは確実ですし、僕達、個人としても、そう遠い場所でのことではありません。それになにより、姉様が、ユーグリッド様に何かあったと知れば、以前のように飛び出してゆかないとも限りませんから』
『以前?』
僕が倒れてしまっていた時のことだろうか?
たしかにシャイナは来てくれたし、それはとても嬉しかったけれど、飛び出したというほどの様子でもなかったと思っていたけれど。そもそも、ついでのような感じだったと本人も言っていたし。
そう疑問を口にすると、クリストフ様は誤魔化すような笑いを浮かべられたようだった。
何はともあれ、シャイナ達の行動を制限する権限は僕達にはない。
シャイナ達も、1度はアルデンシアまで戻るという事だったので、では、エルヴィラのお城でお待ちしておりますと答えた。




