プロローグ
彼女を一目見た瞬間、僕の心は彼女でいっぱいに占められていた。
エルヴィラの第1王子として、父の名代として、隣国アルデンシアの建国2000年という記念式典に参列して、その後のパーティーに出席していた僕は、1人でパーティー会場を抜け出した。
「シェリスもどこかへ行っちゃうし、流石に少し疲れたよ」
妹ともはぐれ、おべっかを使ってくる周りの大人たちの相手をするのにも疲れていた僕は、少し夜風にあたろうと思って(勝手に)庭へ散歩に出させて貰った。
エルヴィラ王国は建国4000年の歴史を持つ、大陸の南に位置する大国で、魔法の道具––魔道具や、魔法の利用、研究などの魔導産業において大陸随一だ。
その他にも、広大な土地では農業等も盛んにおこなわれ、北にあるゼノリマージュ山脈及びオルストロ山地等から算出される豊富な資源などにもより、大陸にその名を響かせていた。
そんな国に生まれたからには、僕も自分の責任は把握している。毎日が、魔法や格闘技、勉学にダンス、礼儀作法から、果ては料理や掃除、裁縫等に至るまで、勉強、勉強、勉強だ。
しかし、社交とはいえ、父の名代として来ているからとはいっても、せっかくのパーティーだ。窮屈な挨拶回りばかりをしていたくはない。僕はまだ子供だったのだ。
そう思って、護衛の目を盗んで、庭へ出たのだった。
「月が綺麗だなあ」
満天の星が輝く夜空を見上げていると、思わずため息がこぼれた。
涼しい夜風に吹かれながら、しばらく散歩をしていると、王宮の庭の真ん中にある噴水で、運命と出会った。
シェリスと同じくらいの年齢にも見えたその子は、月の光に反射してきらきらと輝く銀の髪をゆるやかに靡かせながら、感情を伺わせない表情で噴水の縁に座っていた。
伏せられた長いまつ毛の間から見えるのは、宝石のように綺麗な紫の瞳。
幼いながらも整った顎は、将来、素敵な女性になるだろうことを予感、いや、確信させる。というよりも、すでにかなりの、今までの人生で会った中では1番の美少女だった。
彼女に見とれてその場から動けずにいると、不意に強く風が吹いてきて、急に靡いた髪を押さえた彼女と目が合った。
彼女が僅かに驚いているように紫の宝石を瞬かせたので、ようやく時間が動いていることを認識させられた。
次の瞬間には、僕は彼女の下まで歩み寄り、傍らに膝をついていた。
「結婚してください」
その、人形のような美貌の女の子は、思い切り訝しんでいるような瞳を向けてきた。
「兄様ー。ユーグリッド兄様ー」
遠くから、シェリスの呼ぶ声が聞こえてきて、はっと我に返った。
そうだった。シェリスに任せっきりにしてしまっていた。兄として情けない。
「呼ばれていますよ」
初めて口を開いてくれたその子の鈴の音が鳴るように綺麗な声で紡がれた言葉は、冷たいともとれるようなものだった。まあ、初対面で知らない男性に声をかけられれば、そうもなるだろう。
「せめてあなたのお名前を教えてはいただけませんか?」
「シャイナです。シャイナ・エルフリーチェ」
エルフリーチェって––
「もう、兄様!」
服の裾を引っ張られて振り向くと、愛しの妹が頬を膨らませていた。
「私にあの人達の相手を押し付けて自分はお散歩だなんて良い御身分ね」
どこの世界に妹に公務を押し付ける兄がいるのよ、と、シェリスは大分ご立腹だった。
「悪かったよ。ごめんね、シェリス」
背中まで伸ばした金の髪を優しく撫でてやると、シェリスは、まあ、許してあげるわ、と機嫌を直して微笑んでくれた。
4歳になったばかりの妹は、本当によくできた妹で、僕なんかよりよほどしっかりしている。
今回も、本当は僕だけで出席するはずの手はずになっていたのだけれど、『僕のことが心配だから』という理由で付いて来てくれていた。
「それで、大事な私をほっぽり出していたからには、よっぽど重要なご用事だったのでしょうね?」
中途半端な用事だったら許さないわよ、とじっと僕の事を睨んできた。
「うん。今そこで、運命に出会っていたんだよ」
振り向いたときにはすでに彼女––シャイナ姫はその場にはいなかった。
シェリスは可愛そうなものを見る目で僕を見つめて、それから慈愛に満ちた表情で、僕をしゃがませると、優しく頭を撫でてくれた。
「余程疲れが溜まっていたのね。大丈夫よ、兄様。私が癒してあげるから」
お父様もお母様によくやって貰っているし、とシェリスはさらりと言った。
「シェリス。お父様とお母様のお部屋はあんまり覗いちゃいけません」
シェリスの教育に悪影響を及ぼすかもしれない。
僕たちの父様と母様は結婚されてから10年以上たっているというのにいまだに甘々なカっプルで、暇さえあればいちゃつこうとしている。
「––とにかく、彼女、シャイナ姫の事がなんだか気になるんだよね」
エルフリーチェといえば、ここ、アルデンシアの王族の家名だ。
あの、見た目はシェリスとほとんど変わらないであろう年齢にも関わらず大分落ち着いて見えたのは、その辺りが原因なのかもしれない。
ここを訪れて、国王様と王妃様に挨拶をさせていただいたときには一緒に居なかったと思ったけれど、何か用事があったのだろう。
「好きになっちゃった? 一目惚れ?」
年齢に関係なく、女の子は恋だとかの話には敏感なんだなあ。
「いや、どうだろう‥‥‥」
シェリスが探るような目を向けてきていることには気がつかず、僕はさっきのシャイナ姫の姿を思い返していた。
空色のドレスに身を包んだ彼女は、まさに妖精の国のお姫様のようだった。
もしかしたら一目惚れだったのかもしれないし、そうではなかったのかもしれない。
「頭から離れないのなら一目惚れなんじゃないの?」
シェリスは少し拗ねたように唇を可愛らしく尖らせた。
「むぅ。兄様。そんなことより、そろそろダンスが始まるわよ。一緒に踊りに行きましょう」
シャイナ姫の事は引っかかったけれど、シェリスにせがまれては仕方がない。もちろん、僕も、妹に頼りにされたり、好意を寄せられるのは好きだ。
「うん、そうだね」
僕は会場に戻ってシェリスや、いらしていたお姉様方のお相手も務めさせていただいたけれど、頭の中はシャイナ姫の事でいっぱいだった。