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MuDaI / 2015 no U2.

作者: 枕くま。

私は今度こそあのスタンドに泊ろうと思った。一番汚いところまで、行けるところまで行ってやれ。そして最後にどうなるか、それはもう、俺は知らない。【いずこへ/坂口安吾】



 窓を強かに叩いていた雨が止み、陽射しが刻々と鋭さを増していた。薄暗い部屋から、白々と輝く外を眺めながら、暑くなりそうだと、他人事のように思った。が、すぐにやるべきことを思い出し、そっと息を詰めた。床板の上に這いつくばり、階下の物音に耳をすませる。床を流れる冷気が、ふやけた頬をそっとなぞっていた。みし、みし、と床板のしなる音すら微かに聞こえた。階下にいる母の足音。知れず固い唾を飲んだ。緊張が張りつめる感じがする。腹の底がざわざわする。

 母の足音がどこをどう通ってくるのかは、手に取るようにわかった。居間と寝室とを繋ぐ廊下を、行ったり来たりしている。その二つの部屋の間に、二階へ続く階段もある。ちょうど、一五歩の間隔で、僕の神経はすり減っていく。あと何回往復するつもりだろう。すると、ふ、と足音が止んだ。僕は思わず頭を持ち上げた。階段の前で立ち止まったのだ。

 部屋の扉を凝視した。意識も視線も、すべてそこ一点に集約する感覚。母は、こちらに向かって来る。腹の底ざわざわ。胃がせり上がるのと併せて恐怖心が肝を冷やす。足音が、来る、来る、一歩。また一歩と迫ってくる。情けない、と云う気持ちが頭の根っこの方から四方八方に飛び散り、僕を徹底的に傷つけようとする。痛みを察した脳は瞬時に現実から妄想の方へと意識の指向を切り替える。窓の向こうは冴え渡る青空、蝉の鳴き声が世界に反響するように響いている。今日も暑いんだろう。明日も、暑いんだろうか。もう、三日も外に出ていない。明後日に僕は二五歳になる。なる。母が、もう部屋の前に、

「」

 す、と息を吸う音。僕は今にも卒倒しそうになった。死、死ぬことが頭の中を縦横無尽に駆け巡った。今にも死にたい。母が僕に云うことは決まっていた。僕を罵倒するに決まっていた。しかし、僕には母の言葉に応えるだけの力がない。気力もか細く、すでに折れた。母の言葉は、いつも僕をずたずたに引き裂いた。心が軋むのだ。情けない。僕はもうすぐ二五になる。大学を出て、職に就く気概もなく、家族の冷たさに当てられ、思うままになってたまるものかと偏屈ぶってみたところで、僕は自室の底の底で膝を立てて縮こまるちっぽけな凡夫だった。何者でもなく、ただ、若いと云うことだけが、透き通った一筋の蜘蛛の糸。それも、年々細くなるばかり。もう二五歳。もう二五歳。僕を僕たらしめてきた硬い金剛石染みた、光り輝く何かが、社会の暗い洞穴から吹く潮風に負けて、腐り、すり減っていく。僕には何も出来やしない。死んだ方がましだと思いもすれ、いっせーのーせっ! で飛び込む覚悟もなかった。僕の頭は僕自身を痛めつけるために、いくらでも働く。自罰のつもりだろうか。または、僕はもうこんなにも落ちぶれて、潰れてしまったのだから、どうしようもないと思いたいのだろうか。母や家族から受ける痛みを誤魔化すため、先に傷を受けておこうと云うことかもしれない。事実、僕は家族と向き合っていない間、世間のすべてに対して舌を出し、昼間から不適に寝転がっているのだ。情けない。わからない。僕には僕がわからない。嘘、すべてわかってる。僕は何もしたくないのだ。ずっと部屋にいて、化け物染みた退屈の舌の上で仰向けに寝っ転がり、口蓋のひだを数えていたいのだ。しかし、退屈もまた苦しく、理解したはずの、そのすべてがまた裏返る。僕にはどちらがどうなのか、やはりわからない。

「お前、いつまでそうしているつもりだよ」

 その声に、僕ははっと気を取り戻した。僕は気を抜くと、すぐ云い訳と反省と自嘲をくりかえしてばかりいた。嵐のような自問自答の後、ふっと思考が途切れて思うのは、現実と戦うよりか、そちらの方がずっと気楽だからだと云うこと。

「まったく、お前はいつもいつも、黙ぁってぶすっとしてばかり。何を考えているのか、まるでわからない。あんたが何を考えていようと、私にはわからないからね、ちっともわかりやしないよ。私もお父さんも、身を粉にして働いていると云うのに、お前ときたら!」

 僕は扉の方を凝視したまま、身動き一つ出来やしなかった。扉越しに、母の表情が手に取るようにわかった。眉間に深い深い皺を刻んでいることだろう。いつからか、母の顔の半分は眉間の皺で覆われていた。僕にはもはや、そうとしか見えない。歳を重ねる度に、もう半分も眉間になってしまうだろう。もはや巨大な肉ひだが、母と云う存在そのものだった。

 巨大な肉ひだが震え、その隙間から、鋭利な悪罵が秋風のように吹いてくる。

「働きもしない奴に居場所なんかないよ」

 母はさんざっぱら悪罵の限りを尽くした後、それだけ云って踵を返した。妙にさっぱりした声をしていた。圧倒的に正しい立場から、反撃される心配もなく、人を罵倒すると云うのは、さぞ気持ちのいいことだろう。

 母の気配が失せると、自然と重苦しい溜め息が漏れた。気が抜けたと同時に、ふらりとある考えが鎌首をもたげる。僕はお前の黒い腹の中に発生したのだ。僕はお前の薄汚い行為の果てに出来た癌のようなものだ。僕の自尊心やら自信やらををひねり潰したまま、伸ばす努力を怠ったのはお前じゃないか。お前と、父じゃないか。お前等はいつも僕を鈍間と罵ったな。愚鈍と笑ったな。堅物と、ウスノロと、低能と。僕が物心つく頃から、幾度となく罵ってきたな。そうして、僕がまだ子供だからと甘く見ていた、どうせ忘れてしまうだろうと、甘く考えていた、そのツケが今、この状況のすべてじゃないのか。

 次第に頭の底がぐらぐらと煮えてくる。大昔より僕の根底にあり続けた、怒りが噴き出してくる。殺してやる、と何度思ったか知れない。しかし同時に、冷めた頭のてっぺんが鼻で笑いもするのだ。でも、お前はもう成人して五年も経つじゃないか。

 居間に下りると、食卓の上に冷めた目玉焼きがあった。皿の下に、母の書き置きが残されていた。母の字は丸く、やさしかった。そこには、少しでも外に出るようにしなさい。職業斡旋所で話しを聞いてきなさい。ちょっとでも進みなさいと、書かれていた。

 何度も何度も、読んだものだ。何度も何度も、ゴミ箱に丸めて投げた紙切れだ。でも、このとき僕は、何故だか涙ぐむことを止められなかった。やさしさが沁みたわけじゃなかった。

 

 ただ、わからないのだ。

 

 まるで公衆便所に嘔吐するように、毎日のように僕を罵倒する母と、この紙面上から感じられるやさしい母。ほんとうの母はどちらなのか、僕にはまるでわからず、とても恐ろしかった。



ずっと、書いてますよ。

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