コウの居た日々
長い雨が止んだ夏間近の夜、俺は家へ帰る道を独り歩いていた。
東京の大学を卒業し就職はしたもののうまくいかず、職を転々としたあげく、逃げるように俺は地元へ戻ってきた。地元といっても、親は二人とも既にもう亡く、姉は隣町へ嫁へ行っていた。元々借家住まいの貧しかった家で自分の家があるわけでもなく、平屋の築年数だけが骨董級の借家を家賃が格安という理由だけで借りて住んでいた。
ようやく見つけた仕事も地方の工場でのアルバイトで、全くやる気のない俺はノロノロと最低限のノルマをこなすだけで、かろうじて生活できるだけの金を貰えればそれでいいと無気力に過ごしていた。
工場長からは「もっと覇気を持てよ」と何度も説教されたが、それも「はぁ」と受け流して、それでもクビにならなかったのは俺の担当分の出来がよかったからで、それでもこのままじゃまずいかなという状況だった。
でも、俺には何も見えなかった。自分が何をしたいのか、何が出来るのか。そんなものが見つからなくても生きていけるさ、とそう思ってさえいた。
その夜も、バイト帰りに今夜の食事の買い物袋をぶら下げて、何も考えずただ巣に帰る、そんな夜だった。
きしむ玄関の鍵を開けて家の中に入った。ギシギシと木の床が音を立てる台所を抜けて、部屋の明かりを点けると一瞬だけほっとする。その時だった。
「ギニャー……」と、か細い鳴き声がした。
「……?」
なんだろうと見回してみると、部屋の隅に何か黒っぽいものがもごもご動いている。近づいてよくよく見てみると、小さな小さな猫だった。毛並みはぼさぼさで、片目は目やにで塞がっている。頭と背中は黒で、顎と両手足の先とお腹が白っぽい、タキシードを着ているような模様だ。
「なんだ猫かよ……」と呟いて、俺はふと思った。
――というか、この猫どこから入ったんだ?
玄関は閉まってたし、窓も全部閉めてある。いくらここがボロ家で体が小さくても、猫が入る隙間があるとは思えなかった。
小さな猫は俺に気づくと、またつぶれたような声で鳴きながらよろよろ近づいてきた。買い物袋を提げたまま立っている俺の足元をよたよたと回っている。そして俺を見上げて「ギニュー」と小さく鳴いた。
「あのなぁ……ここペット禁止なんだよ。俺んとこじゃなくて他所へ行ってくれよ」
俺はため息をつきながら猫に話しかけてみたが、無論そんなことはお構いなしで、猫は俺の足先に鼻を近づけて知らん顔だ。そのまま玄関からほっぽりだそうかと思った時、夜だというのに窓の外で鴉が鳴いた。
「いや、待て。今出したらこんな弱ってたら鴉の餌食だよなぁ」
朝起きたら玄関先に黒っぽい毛玉が冷たくなって落ちてるなんて、いくらなんでもそれは寝覚めが悪い。
「今晩だけだぞ」
俺は猫の鼻先に指を近づけて言うと、小さい猫はふんふんと鼻を鳴らして、俺の指に小さな頭を擦り付けて「ギニャン」と鳴いた。
結論から言うと、俺はその猫をおっぽり出すことが出来なかった。次の日も、その次の日も外で鴉がカーカー騒いでるし、体も目も拭いてやって、コンビニに走って買ってきた猫の餌をむぐむぐと食べた後、ダンボールにタオルを敷いただけの小さな箱の中でクークーと寝ている姿を見ていると、こいつのこの後の人生(いや猫生か)を思うと、なんとか里親を見つけてやれないかと思うようになった。俺は大家のところへ行って事情を説明し、里親を見つけられる間世話することを許して貰えないかと、頭を下げた。
頭の禿げ上がった爺さんの大家は、「困るんだよね~。決まりだしね~」と、渋い顔だったが、俺が何度も頭を下げるんで、
「一ヶ月間だけだよ。それまでに行き先を決めてよ」と、最後は折れた。
俺はなんでこいつのためにここまでしてるのか、分からなかった。分からなかったけど、頭を下げながら心の中で小さくガッツポーズをした。そして、短い間になるだろうけど、俺と猫の一人と一匹の暮らしが始まった。
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後からの飼い主が困るだろうからと、名前はつけなかった。呼ぶときは「おい」とか「ねこ」とか呼んでいた。
何日かすると、猫は少しずつ元気になっていった。いや元気すぎるぐらいだった。財布を覗いてため息をつきながら近くのホームセンターで買った猫トイレも次の日には覚えた。古いセーターをほどいて作った毛糸ボールが大好きで、部屋の隅から隅まで勢い良く転がしながら遊んだ。小さな体にびっしりついた蚤取りに苦労し、病院へも連れていった。特に病気はないらしく、騒ぐでもなく大人しく診察台にちょこんと座って、俺に向かって「ミャン」と鳴いた。
いや、泣きたいのは俺の方だった。さすがに出費がかさんで、やばくなってきた。猫がこんなにお金がかかるもんだとは思ってなかった。俺はこのままだと人間がやばいと、バイトに精を出した。今まではたらたらとノルマをこなすだけだったのが、これまでの倍働くようになった。
「お、やっとやる気になったか。ここんとこ急いで帰るし、女でも出来たか?」
工場長は、ニヤニヤしながら俺の肩を叩く。
「いやぁ、そんなんじゃないっすよ」
と、俺はかぶりを振ったが、周りの連中もかしましい。ニヤニヤと笑って手を挙げる同僚たちに頭を下げて俺は工場を後にした。
途中のスーパーで買った買い物袋を提げて家へ急ぐ。不思議なもんで、家に待っているやつが居るということは、なんでこんなに幸せな気持ちにさせてくれるんだろう。
ガタガタと音をさせて玄関を開けると俺は「ただいま」と言った。誰かにただいまを言うのは本当に久しぶりだ。
あいつは玄関先に来ていて、「みゃーん」と俺を見上げて鳴いた。
「お腹空いてるだろ。今日はバイト代結構出たから、いつもよりいいご飯だぞ」
俺の足元をちょろちょろとついて来ながら、猫も嬉しそうだ。
皿にいつもの特売の猫缶とは違う高いご飯を入れてやって猫の前に差し出すが、猫はご飯に目もくれずに、座り込んだ俺の膝の上によじよじとよじ登って来た。
「ん?お腹空いてないのか?」
猫はうにゃうにゃ言いながら俺の脚からTシャツに爪をかけて腹の上を登って来る。肩の上に上がって、俺の耳元で鳴きながら俺の顔にすりすりと顔を寄せてくる。
――ああ、そうか。寂しかったのか……
「寂しかったな。ごめんよ」と、小さな猫の頭をそっと撫でてやった。猫はのどをごろごろ鳴らしながら、俺の手の中で嬉しそうだった。
毛並みもピカピカになってきて、もう立派なタキシード姿だ。俺は携帯で写真を撮って、里親募集の張り紙を近くのスーパーの掲示板やら、公共施設の交流板などに出した。ネットも考えたが里親詐欺というのがあるらしく、俺の目で見てこの人ならと思える人に預けようと思っていた。ほどなく一人の女性から連絡が来た。
隣町の主婦の人で、七歳になる娘がこの子でないと嫌とどうしても言うので譲って欲しいとのことだった。
張り紙を見たというスーパーで会ってみると、優しそうな穏やかな女性で、どうしてもと言った女の子もお母さんの後ろからじっと訴えるようにクリクリとした目で俺を見ていた。念願の一軒家を買って、ペットも飼おうということになって、探していたらしい。
「保健所とか里親募集会とか行こうかって話してたところだったんですよ。娘が一目で気に入って」
と、嬉しそうに話す様子を見て、俺は(ああ、この人なら大丈夫だ)と思った。
二回目のワクチン接種が終わった数日後に引き渡す約束をした。約束の一ヶ月間の、残りは後一週間だった。
家へ戻ってから俺は猫に報告した。
「おい。おまえの家族になる人達が見つかったぞ。よかったな」
よかったなと猫の頭をぐりぐり撫でながら、ほっとすると同時に俺は無性に寂しかった。涙が出そうになるのを、誰に見られるわけでもないのに、何故かごまかそうと必死だった。いつもはうるさいぐらいみゃんみゃん鳴く猫が、何も言わずにじっと俺の顔を見ていた。そして何事もなかったように、また無邪気に毛糸ボールを追いかけ始めた。
「猫に人間の言葉がわかるわけないよな」と、俺は苦笑した。
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ところが、引渡しの日が明日に迫った夏の日に、突然事件が起こった。
休みで猫と昼寝を貪っていたが、外が妙に騒がしい。窓から首を出して見てみると、隣近所の人が何やら声高に話し合っていた。どうやら俺んとこの大家の孫の姿が見えなくなったらしい。川方面と山方面に分かれて捜索をかけるということで、俺も呼ばれて慌てて着替えて外へ出た。
俺は山方面に加わって、裏山近辺を呼びながら探したが見つからない。日が落ちかかって暗くなってきて、本格的に警察に捜索願いを出さないとという話になったときだった。
先程探した筈の山道を、小さな男の子が泣きながら歩いてきた。「居たぞ!」と、声が飛ぶ。いつもはしかめっ面の大家が泣きながら孫に駆け寄って抱きしめた。どうやら独りで遊んでいて裏山に入り込んで迷ってしまったらしい。するとその子は不思議なことを言い出した。
怖くて泣いていたら、一匹の黒い猫が足元へ来て鳴いたそうだ。そして少し歩いては振り返って、まるで「こっちだ」というように鳴いて、その子は猫の後をついていったという。そうして歩いていたら、いつの間にか山の入口に着いていたらしい。「あの猫ちゃんだよ」と、男の子が指さした先の道の端に猫がちょこんと座っていた。
あいつと同じ柄だ。タキシードを着たような黒っぽい猫。体中に土やら葉っぱやらがついている。男の子が頭を撫でると、猫は嬉しそうにのどをごろごろ鳴らした。
「おお。おお、お礼をしないといかん。お腹空いてないか。何か食べ物を」
大家は涙でぐしゃぐしゃの顔を今度は笑顔でぐしゃぐしゃにしながら、俺を振り返った。
「おまえさん。猫の餌がなんかあるかい?」
「ああ、ちょっと待ってて下さい」
と言って、俺はうちの猫の餌の残りがあったかと家へ向かった。
猫缶を手に戻ったが、猫の姿がない。みなが目をそらした隙に居なくなってしまったそうだ。人々は不思議なことがあるもんだと頷き合っていた。
俺はじゃあといってそのまま家へ戻ったが、俺の家の開けたままの玄関先を大家の孫がついてきてひょっこりと覗き込んで、「あ。あの猫ちゃんがちっちゃくなってここにいるよ!」と、大声を出した。
あいつは玄関先で逃げ出しもせずキョトンと座ったままだった。
大家も孫の声に気づいて覗き込みに来て「ほぉ」と目を丸くする。
「あ。例の猫で、あの、貰い手はついたんで、心配ないっす」と、俺は焦りながら手を振った。
「えーー! 猫ちゃん、居なくなっちゃうの……」と、孫が今にも泣きそうな声で大家の服を握り締めた。
「うーーん」と、大家は俺と孫の顔を交互に見ながら、困った顔をしていたが、
「まぁ。これもきっと何かの縁だろう。これ以上増やさないってんなら、1匹だけならよしとしよう」
「へ?」
俺は何がなんだかわからなかったが、とにかく、これは俺が此処でこいつと暮らしていいってことだよな?
「あ……ありがとうございます!」
俺はまだ困り顔で頭を掻く大家に向かって、それこそ地面に着きそうなほど頭を下げた。
そして俺は、譲渡先のお宅に行ってまたまた頭を下げねばならなかった。
女の子は「えーー」と涙ぐんでいたが、お母さんは残念そうに、それでも、
「きっと、神様がやっぱり貴方と一緒がいいとそう思ったんでしょうね」と、微笑んだ。
「俺も、俺もあいつと一緒に居たいんです! すみませんっ!!」と、俺はまた頭を下げた。
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それからの俺は、毎日が楽しくてしかたなかった。ずっと名無しだった猫には「コウ」と名付けた。
家に帰るといつも玄関先で待っていて、「寂しかったよ」とばかりに甘えてくるあいつが愛おしかった。バイトも頑張った。もっとあいつにいい物を喰わせてやりたかった。でも頑張れば頑張るほど帰りも遅くなって、コウを独りぼっちにさせている罪悪感もあった。
俺の真面目な働きぶりを見て、ある日工場長が「正社員にならんか?」と言ってきた。正社員なら同じ労働時間でも給料が大分上がる。願ってもないことで、俺は二つ返事で正社員になった。
正社員になってからも俺はまるで生まれ変わったように生き生きと働いた。そんな俺を見ていた女の子が居た。会社の事務所で事務をしていた同じ町の子だ。以前の俺は職場にも興味がなくて全然気にしてなかったけど、あいつと暮らすようになってから会社の人とも打ち解けて話せるようになっていた。
猫を飼っていたことがあるというその子に、猫を飼うのが初めての俺が色々相談してるうちに、俺達はいつの間にか付き合うようになっていた。コウも俺の家に遊びに来た彼女に、まるでずっと前から知っていたようにすぐ懐いた。
きっかけは彼女のコウにかけた一言だった。
「コウちゃん、いつも独りで寂しいね」
コウは彼女の目を見て、そして俺を振り返って「にゃあ」と鳴いた。
俺は自然に、「……結婚、しよう」と、言っていた。
彼女はちょっと目を丸くして、そして微笑んで「うん」と言った。
それからは嫁さんの家で、三人と一匹の暮らしが始まった。俺と嫁さんと嫁さんのお母さんと、コウだ。コウは誰にでも懐いて可愛がられた。
昼間は義母とのんびり日向ぼっこをして過ごして、夜は俺や嫁さんに纏わりつきながら遊んで、そしていつものように俺の布団の足元で丸くなって寝た。
もし幸せに形があるなら、きっと猫の形だ。のどを鳴らすコウの頭を撫でながら俺はそう思った。
ほどなく俺達に子供が生まれた。男の子だ。
「コウちゃん。お兄ちゃんになったのよ」
嫁さんが腕に抱いた赤ん坊を見せるように、優しくコウに語り掛ける。コウは赤ん坊に顔を近づけふんふんと匂いを嗅いで、わかりましたというように「うにゃん」と鳴いた。
コウはまさしく子守猫で、赤ん坊が泣くと大慌てで俺か嫁さんのところへ来て、「にゃーにゃー」と鳴き騒いで俺達を誘導する。
気づくと昼寝をしている息子のすぐ隣でコウも丸くなって寝ている。
息子とコウでおもちゃを取り合って遊んでいる。
息子が歩き出す頃になって散歩に出かけると、コウもついてきて、息子の少し前をまるで先導するように歩きながら時折振り返る。
まるで俺達の幸せの道をコウが導いてくれているようだった。
そんな時間に終わりが来るなんて、その時の俺は考えもしなかった。
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コウの具合が悪くなったのは、梅雨が明けて間もなくの頃だった。一進一退の病状で、家でも寝ていることが多くなった。
その日も俺が帰るとコウは部屋の隅の猫ベッドの中で、じっと眠っていた。
「コウ、具合はどうだ?」と、俺はコウの頭をそっと撫でた。四歳になった俺の息子も俺の真似をして「コウ大丈夫か?」と頭を撫でる。うっすらと目を開けたコウはにゃーと鳴く口の形をとったが声は出なかった。
一緒にコウを覗き込んでいた嫁さんが、「そうそう。今日おかしなことがあったのよ」と、言った。
「コウちゃん、もうずっと外には出てないのに、今日気づいたら体に土や草の葉なんかが、いっぱい付いてたの。何時の間に外に出たのかしら。外に出れるほど元気になったのかと思ったんだけど、その後もずっと寝ているし…」
嫁さんは怪訝そうな顔で、首をかしげている。
「土? 草の葉?」
俺の中で何かが引っ掛かる。
――なんだろう、何かが……
布団に入ってから天井を見上げながら、じっと考えているとふとあの時の事を思い出した。
――もしかしたら……
心臓がどくどくと鳴る音が聞こえる。俺は跳ね起きて、部屋の隅に居るコウを見た。
コウは暗い部屋の隅の猫ベッドの上で目を開けてじっと香箱を組んでいた。起き上がった俺を見て、また何か言いたそうに口を開けたが声にならなかった。
「コウ。あの時の……あの猫は、おまえだったのか?」
俺はコウにそっと話し掛けた。コウは俺をじっと見て、そして何も言わずに目を瞑った。
「……そうなんだな。おまえ自分で、俺と居られるようにしてくれたのか」
何も言わずにコウは、近づいた俺の手にそっと頭を寄せて微かに喉を鳴らしている。
「だったらさ。もっと一緒に居ようよ。もっと、もっと俺達と……」
後は言葉にならなかった。堪えたくても、嗚咽が後から後からこみ上げてくる。
気配に気づいた嫁さんが起き上がって不安そうな声で「あなた……?」と声を掛けてきた。
「コウ。ありがとうな。コウ。コウ……」
コウは少し顔を上げて、俺の手をそっと舐めて、そして、
「にゃん」
と小さく鳴いた。それが、俺とコウの別れだった。
今でも、あの小さな猫がどこからやってきたのか俺には分からない。
コウは俺達の元から居なくなってしまったけど、バカな事を言ってると思われるかもしれないが、俺のように道に迷っているやつのところへ、幸せへの道案内をしに行ったんじゃないかと、俺にはそう思えるのだ。
コウ。俺は元気だよ。
もし、もしもさ、道案内に疲れたらさ、いつでも、俺のところへ戻ってこいよ。