夢の話――開いてはならぬ本
私は寝室にいた。寝室といっても、テーブルとテレビがある普通の部屋である。私はそこに布団を敷いて寝ている。だからそこを寝室と呼んでいるわけである。
さて私は脚立に上がって、寝室の上段の棚に顔を出し、埃をかぶって並んでいる書籍のうちの、一冊を取り出して開いた。しかしこれは――開いてはならぬ本である。
私は密室に居た。いや私一人ではない。旧友のエヌも一緒である。和洋折衷の、壁が白い部屋であった。それは私が居た寝室にもよく似ていた。
「なぜこのような次第になったのか」旧友は私を問い詰めたが、私は狼狽するばかりであった。これは夢なのだろうか。おそらく私の夢なのだろう。だとすれば私の眼前にいる旧友に向かって、いちいち物事を釈明する道理は無いはずであった。だが、旧友は強く迫ったので、私は嫌々ながらも、状況を説明せざるを得なかった。
まずこの部屋を密室と言ったが、それは嘘である。洋風の、ブラウンのドアは開いている。漆黒の先へ、どこともしれぬ異空間に繋がっている。一度出れば戻ってはこれぬ。そういう造りなのである。不思議とこれには確信があった。
次に、これは私が開いてはならぬ本を開いたが故に起きた事象であることを語った。そんな本をなぜ開いたのかはとんと分からぬ。背表紙に書かれたタイトルまでは見ていなかったが、確かシリーズものの推理小説か何かの類であったと思う。
旧友はそこまで聞いて、分かったような分からぬような口調で、では俺はお前の夢の産物なのかと思案に耽っている。夢の中で思案に耽るとは器用な奴である。
そこで、ドアから女中がお茶を載せた盆を持って入ってきた。私と旧友はテーブルに座り、出された熱いお茶をひとまず飲んだ。飲んでから、女中がさがろうとするところを呼び止めた。
「帰るついでに、そのドアの向こうに何があるのか教えておくれ。一度引き返してきて、何があるか教えてくれるだけでいいから」
そう頼んだはずだが、女中は小さくはいと呟くばかりで、こちらの意を汲んでくれたようには思えなかった。案の定、女中は戻ってこなかった。ドアから出て、漆黒の闇に飲まれ、帰ってこなかったのである。畢竟、これはどうしたことかという議論になった。
どうやら、たまさか入ってくることはできても、決して戻ってはこれぬという仕様らしい。これでは私も旧友も、この部屋を出て行くわけにもいかない。にっちもさっちもいかぬ。万事休すとはこのことである。私と旧友はお茶を飲んだ。少し冷めたお茶の味には、夢とは思えぬリアリティがあった。
とはいえ活路は全く無いでもなかった。ドアの他にも道はあったのである。部屋には襖があった。その先に部屋があるかもしれぬ。ただ、その襖の手前には洋服のぎっしり詰まったダンボールが堆く積まれていたので、二人で一所懸命それを退ける必要があった。汗をかきながらダンボールを退けると、果たして襖はその姿をあらわにした。
「開けるぞ」と旧友が言った。私としても異論はなかった。ただ私は、この先が宇宙空間に繋がっていやしないかという、可能性としては低いがありうるケースを想定して、私と旧友がこのまま真空に吸い込まれるのではないかという不安に戦くのみであった。しかし襖を開けると、そこには畳の部屋があった。
「お二人で、どうかしたのですか」と彼女は言った。三面鏡に向かい、髪を梳り、頬に紅を入れている最中のようだったので、私と旧友は萎縮してしまった。
「いや、部屋から出るに出られなくなってしまったものですから」と私は申し訳なさそうに謝罪した。「こちらにしか道が無かったのです。御用の済むまで向こうでお待ちします」すると彼女は答えて言った。
「私の化粧などはどうでもいいことです。あなたがたがこの家にいるのに、仕組みを知らないことのほうがよほど大変なことです」「仕組み?」「あなた方は登場人物ですから、話しの筋立てを理解して演技してもらわねば困ります」
どうやら彼女の説明によれば、この地方の家は時間的にも空間的にもねじれており、そのねじれを利用して誰彼が私腹を肥やしている疑いがある。それを名探偵が颯爽と暴くというのが話しの筋であり、私たちはその筋に沿って演技をせねばならぬのだという。
「よくわかりませんが、それが終わるまで、この部屋から出るわけにはいかないのですね。すると私は愚鈍ですから、旧友が名探偵をやることにしましょう。名探偵エヌさん、どうぞ推理なさってください」「どうぞと言われても推理の材料が無いことにはな……」
旧友の、少し照れながらも困る素振りを眺めながら、ああ、この本はきっと駄作の部類に入るのだろうなと、私は漠然と考えていた。
仔細は飛ばすが、私と旧友と彼女は、なんとか役割を演じきった。この地方は、時空のねじれを物質化したもの――単に「ねじれ」と呼ぶ――を賄賂のようにやりとりすることで、古くから成り立っているらしかった。しかし当人たちは、その行為に犯罪めいたところがあるなど思いもせず、あくまで慣習としてそれを行っていたことが明らかになったので、最終的に誰もお咎めを受けることなく事件は終結した。
物語も終わりに差し掛かり、私は飲み会に顔を出していた。話の総括のため、登場人物が全員揃うという場面である。
そこで、ある者はこれから旅に出ると言い出し、ある者は職を辞すると言い出した。私の目当ての女性はというと、今度見合いをするという。私はひどく残念に思ったが、口には出さなかった。例の彼女はというと、友人がモデルとしてデビューするというので、その応援に駆けつけていた。特段予定も無かったので、私もその場に居合わせた。
カメラを構えて撮影するスタッフにまぎれて、私はそのモデルの女性に声援を送った。すると思いもかけず、その女性から名刺を手渡され、後で連絡を入れるとの返事をもらった。私の精神は少し高揚したが、その女性と自身が付き合っているところまではまったく想像できなかった。
それで私は家に帰ることにした。とはいえ家がどちらにあるかなど分かりはしない。ただ、道を歩いていくと、事件の最中に知り合った女学生が、私の後を付いてきた。隣に並ぶと、女学生は私の腕を掴み、強引に腕組みをする。その満面の笑顔に注意する気にもなれず、私は少し気難しい顔をして、そのまま腕を組んで道を歩いていった。
私は本を閉じた。脚立の上に私は立っている。本は寝室の上段の棚に戻された。そこで私は気付いた。この寝室にある、開いてはならぬ本という設定そのものが、旧友と彼女が、私という存在それ自体が、ひとえに一炊の夢であったと悟ったのである。
しかし脳裏に焼き付いたストーリーはなかなか消えず、そのまま現実の世界へと湧き出したので、私は起床すると同時にそれをメモ帳に書き留めた。結論から言えば、そのメモ帳すら夢の産物であったのだが――結果的にストーリーは記憶の中に残るに至った。
だからこれは、私の夢の話である。
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