20 月夜(1)
とっぷりと夜が更け、闇が世界を覆う頃。ある者はほろ酔い加減で家族のもとに帰り、ある者は一晩の夢を求めて色街に繰り出す。良くも悪くも雑多なものが入り混じった街を、満月に少し欠けた月が煌々と光で照らしていた。
その月の光を一瞬影が遮る。
敏感な者が時々何かに気付いたように空を見上げるが、そこに何かを見つけることは出来なかった。だがもし建物の上に誰か居たのなら、屋根の上を音もなく走っていく小柄な人物を見ることが出来ただろう。
やがて人影は王都のはずれ、人気ない区域で動きを止めた。
わずかな夜風に吹かれなびくのは漆黒の髪。月に勝るとも劣らないほど暗闇に輝くのは紫紺の瞳。
小柄な少女がある屋敷を見つめていた。
(ここだわ。この屋敷からリーンの匂いがする)
それほど大きくはない建物は下級貴族が住んでいたであろうことをうかがわせる。だが今現在、荒れ果てた庭、使用されていないだろうその屋敷は外から見た限り、ひっそりと静まり返り誰も居ないように見える。だがシェリアはリーンがこの中に居ることを確信していた。
(どうしよう・・・兄さんたちが来るのを待つ?それとも一人で侵入する?)
ウルの伝言を聞けばすぐに駆けつけてくれるのは分かっていた。だか、心細く泣いているかもしれないリーンを早く助け出してあげたいのも本音だ。どうしようかと悩み、確実に助けるため兄を待とうと気配を消したその時---
「・・・っ!!」
突然屋敷の気配が変わった。シェリアがライルを待つと決めたのを感じ取ったかのように。待つことは許さないとばかりにシェリアに向けて放たれる気は挑発的で余裕に満ちていた。
(あいつがいる)
長年追いかけていた敵がここに居ることを確信するが、だからこそ挑発になど乗らずライルを待とうと思った。悔しいが自分一人だけではやつに敵わない。冷静になれと自分に言い聞かせていたが次の瞬間、シェリアは物陰から飛び出した。
微かに感じたのは、血の臭い。
獲物が罠にかかったのを感じ、屋敷が愉悦に震えた気がした。
玄関の扉がぎしりと軋みながら開いた。すでに自分がここに来たことに気づいているのだからと、シェリアは隠れることなどしなかった。本来なら客人を歓迎する最初の場であるはずの玄関ロビーにはすべて持ち出されたのか何も置いておらず、だだっ広い物寂しい空気だけが流れている。
そんな中シェリアに届いたのは左奥の扉から漂ってくる血の臭いと、長年追い続けた敵の気配だった。
音もなく歩を進め、扉に手をかけて一瞬躊躇い、だがコクリと唾を飲み込むとその手に力を込めた。
「よく来てくれた」
元は応接室だったと思われるその部屋にあまりに不釣合いな豪奢なソファとテーブル。そこに深く腰掛けてこちらを見た人物にシェリアは虚を突かれてしまう。全く予想していなかった男がそこに居た。
「ケルハイム侯爵・・・?」
「昼以来だな。よくここまでたどり着いた」
口元を歪めて笑いシェリアを心底楽しそうに見つめるのは、昼間王城で出会ったケルハイム侯爵だった。
「なんで、ここに・・・」
あまりに意外すぎて深く考えられず呟く。敵が居ると思い覚悟して扉を開けたというのにそこに居たのは予想外の人物で、肩透かしをくらったかのように感じる。
思ってもみなかった事態にシェリアは呆然としていたが、扉を開けたことにより、より濃く感じる血の臭いにはっとした。
「こんばんは、ケルハイム侯爵様。女の子を迎えに来たんです。どこに居るのでしょうか?」
悠然とワインを飲みソファに腰掛けるダーウィルを睨みつけ、シェリアは硬い声で尋ねた。鷹揚に構えた侯爵は面白そうにシェリアを見つめ、コトリと静かにグラスを置く。そしてにやりと笑った。
ふと、シェリアはそんな男に違和感を覚えた。
(あれ、なんだか・・・違う?)
だがそんな違和感も次の瞬間吹き飛んだ。ダーウィルの視線が向けられた先に立っていたのは夕方シェリアをつけた男の一人で、その左手に子供を引きずっていた。
「・・・リーンっ!!」
男が手を離すとトサっと軽い音と共に床に崩れ落ちるリーンに駆け寄ろうとしたが、背後から現れた二人の男によりシェリアは拘束されてしまった。もがいてもシェリアの力では二人の男の力には敵わない。血と汚れでぼろぼろになった姿に焦燥に駆られてもう一度リーンを見るが、ピクリとも動いている様子がなかった。
「リーン!放してよ、放・・せっ!!・・・侯爵、あんた何が目的なのよ!!」
声を荒げ、激しく暴れるシェリアをダーウィルは楽しそうに見つめていたが、自分を睨む紫紺の瞳に目を細めた。とたんに、ゾクリとシェリアの背中に悪寒が走る。
(誰、これ・・・)
突然強まったダーウィルからの圧力に冷や汗がにじみ、血の気が引いた。心なしか腕を拘束する男たちの力も弱まったようだった。ゴクリと誰のものとも知れず咽が鳴る音がした。
冷気さえも感じるほど一変した雰囲気の中で、ダーウィルはただ愉快そうにクツクツと笑う。
「侯爵の目的はどうでもいい。が、オレの目的はただ一つ。・・・ディールに絶望を与えることだ」
「・・・っ!!」
思いがけず出された保護者の名前にひゅっと息を呑み、シェリアはダーウィルの姿をした誰かを呆然と見つめた。分かっていた。これはケルハイム侯爵ではない、と。
では、これは---
「・・・もういい、やれ」
ぼんやりと言葉を発しないシェリアに飽きたように、ダーウィルの姿をした誰かはリーンを連れてきた男に声をかける。男は無表情のまま腰に挿した短剣をすらりと抜いた。倒れ伏すリーンの胸倉を左手で掴み上げ、そのままわずかに振りかぶる。
---次の瞬間、部屋内を一陣の嵐が吹き抜けた。




