■プロローグ
「何やってんの? お前」
出勤して早々の第一声が「おはよう」ではなく、このような言葉にならざるを得なかった事は誠に遺憾であった。
しかし残念ながら、俺はそいつの奇行を華麗に見て見ぬフリができるほど高度なスルースキルを体得してはいない。
「あ、おはよ、七森君!」
朝の始まりと共に『さあ今日も一日頑張るか!』と自らを奮い立てる歯牙無い公務員の尊い勤労意欲をさっそく根こそぎにしてしまうような甘ったるい声。
俺の職場の同僚――名を理々川という。
俺と同い年のはずなので成人しているはずだが、童顔と幼い声のせいで、どう見ても高校生以下にしか見えない。あと背も低いが、そのクセ何故だか胸だけはデカいのは造物主の趣味か何かか。
俺の席とは、通路を挟んで背中合わせの位置に当たる理々川のデスク。そのデスク上には、何やら鋭利なナイフを括りつけた紐、弦を張った弓、滑車――と、何やら儀式めいた品々が散らばっていた。
異界の魔神でも召喚する気か?
などと思いつつ、俺は自席のデスクに鞄を置き、椅子を引く。
「今ね、わたしが認識してるこの現実世界が本当に現実であるかどうかの検証をしてたんだよ!」
「ほう」
とりあえず俺は席に着いて、自席のPCに電源を入れた。
俺が背を向けているにも関わらず、理々川は変わらずのテンションで俺に自身の謎行為についての説明を続ける。
「何故そんなコトをするかというとね、きのう一気にバリバリと片付けたハズの書類の仕事がね、今日出勤したら未処理のままなの! だからわたしは思ったね! これは現実じゃない、世界に騙されているのだと!」
コイツがバリバリと仕事をこなす等という光景は、それこそ現実では起こりえない事象なので、たぶん昨夜にそんな夢を見たのだろう。
現実世界においては未だ彼女のデスクには数多の書類が山高く積み上がっており、一日かかりっきりになったとしても今日中に片付けられるかどうか怪しい。
コイツはそんな現実をどうあっても認めたくないらしい。つまるところ現実逃避である。
「もし今わたしが『現実だ』と認識しているこの世界が本物の現実じゃなかったとしたら、いま認識している世界をの観測者である『わたし』が、より上位の世界からわたしを観測しているはずなの。いちおう、ほっぺを抓ってみると痛かったんだけど、これだけじゃ推論が足りないよね? 上位の現実が痛覚を始めとする五感を下位の『わたし』に感じさせているに過ぎないかもしれないからね!」
何を言っているかのか解らねーと思うが、俺にも解らない。
たぶん、デカルトだったか――が唱えた『コギト命題』のような事を考えてるのだろうとは想像がつくが、今日もまたメンドくさい方向に思考を暴走させたものである。
「それでね、これを確かめる為にスイッチひとつで自分の頭を刃物で躊躇いなくブッ刺せる『全手動現実確認装置』を作る事にしたの! この装置によって間接的にわたしがわたしの頭を刺して観測不可能にする。その様子をわたしが観測できたのなら、いま知覚しているわたしは『わたし』じゃなかった事が分かるのでコレが現実でなかった事が証明できるよね! 『われ思う、故にわれあり!』ってやつだよ!」
いよいよ何を言っているかのか解らねーと思うが、やっぱり俺にも解らない。
要するに今見ている世界が夢じゃないのかどうかを『確実に』確認したいらしい。ちなみに彼女のこの行為は一般的には『自殺』と呼ばれている。
「そうか。がんばれよ。うまく行けばだいぶ上のほうの世界に到達できるかもしれんぞ。『あの世』と呼ばれる世界とかに」
「うん! がんばるよ!」
さて、今さら説明するまでもないが、コイツは馬鹿である。
壊滅的に馬鹿である。
常人なら恐怖や脅威を覚えてもいいレベルの馬鹿で、きっといつか取り返しの付かない馬鹿をやらかすはずであると俺は見ているが、今の所、辛うじてというべきか、惜しくもというべきか、その馬鹿を公共に仇なす方向へは発揮していない事になっているので(俺を除く)、社会的に排除されたりクビになったりはしていない。
「あっ!?」
俺が雑誌を眺めながらPCの起動を待っていると、背後から理々川の声が聞こえた。
「たッ! 大変な事に気づいちゃったよ七森君!」
「どうした? フライングして迎えに来た死神でも視えたか?」
「コレ、もしいま知覚してるのが夢じゃなくて現実世界だったなら、わたしホントに死んじゃうかも!?」
……ご覧の有様である。
「ふぃー、あぶないあぶない」
袖で額の汗を拭いつつ、デスク上の謎装置をいそいそと片付け始める理々川。
「いやー、こんな死に方しちゃったら向こう半年間くらいは社内のいい笑い者になるよね!」
「世間一般だと孫の代まで笑い者になるレベルだな」
「いやはや、うかつだったよ!」
……そして至極残念な事に、この馬鹿は仕事において俺と命を預け合う二人組の相棒なのである。
最早こいつの馬鹿を達観、解説してしまえる程度には長い付き合いになるのだが、その馬鹿さに巻き込まれてこれまで何度死にかけたかは数え切れない。
二人組の片方が死ねば、必然的にもう片方も高確率で死ぬ事になる。これはチームで当たるような任務すべてに言える事なのだが、俺達の場合、特にその意味合いが重い。
この仕事での殉職率はそれなりに高く、その多くは強力な敵との遭遇、戦闘によるものだが、俺が場合はきっとコイツが殉職の原因となるに違いないだろう。
とはいえ、重度の馬鹿は現代の最新医療を以てしても治らないそうなので、現状の改善は見込めない、と半ば諦めている。
世界は結局、成るようにしか成らないのである。