家令の引継書
『お嬢様は、紅茶に角砂糖を1粒お入れになる。ただし春のあいだは2粒。理由を尋ねたことはない。お嬢様はご自分で気づいておられない』
——『家令の引継書』第1ページ
私は28歳で婚約を解消した。
3か月前のことだ。9年連れ添った婚約者オクタヴィアン子爵令息は、19歳のロザリンド男爵令嬢の手を取り、私の父の前で「自分の心が変わった」と告げた。
父はその日のうちに婚約解消の書類に署名した。私もその場で署名した。涙はこぼさなかった。9年の婚約を解消するのに、それ以上の時間は要らなかった。
そして今、私は再び社交界の床を踏んでいる。
「あら、ロザムント侯爵令嬢、まだいらっしゃったのね」
通り過ぎざまに、若い令嬢が扇の陰でそう囁いた。聞こえるように。
私は微笑んだ。微笑んだまま、父のエスコートで会場の奥へ進んだ。
広間の中央では、オクタヴィアンとロザリンドが寄り添うように踊っている。彼女の手は彼の腕に絡みついている。9年のあいだ、彼が私の手にそうしたことは、一度もなかった。
「マリエル、無理をすることはないんだぞ」
父が低い声で言った。私は首を振った。
「いいえ、お父様。私は28年生きてまいりました。あの方々の言葉でその28年が消えるのなら、それはそもそも消えてもよかった年月でしょう」
父は何か言いかけて、結局黙った。私たちは並んで広間の隅に立った。
そのとき、視界の端に黒い影が見えた。
会場の壁際、給仕たちの控えの位置に、長身の家令が1人、姿勢正しく立っていた。
アルベルト。
9年、我が家に仕える家令である。
彼は私と目が合うと、ほんのわずかに頭を下げた。
私はうなずき返した。それだけのことだった。それだけのことだったのに、肩のあたりに溜まっていた何かが、ほんの少し、軽くなった気がした。
* * *
屋敷に戻ったのは深夜だった。
玄関で外套を受け取ったアルベルトが、いつものように私の顔を一瞥した。彼の表情は変わらなかった。9年間、彼の表情が大きく動くのを、私は数えるほどしか見たことがない。
「お嬢様、湯浴みのご用意ができております。その後、書斎にて、お話がございます」
「お話?」
「明日のことについて、ご報告しておきたい次第がございます」
私は彼を見上げた。アルベルトの瞳は静かで、いつもどおりだった。けれどその「静かさ」が、今日に限ってはやけに鮮明に感じられた。
私はうなずいた。
1時間後、書斎で紅茶を待っていると、アルベルトが盆を持って入ってきた。湯気の立つ紅茶の隣に、小さな砂糖壺。私が手を伸ばす前に、彼が角砂糖を1粒、ためらいもせずに落とした。
——秋は1粒。
そういえば、彼はこの9年、1度も間違えたことがない。
「お嬢様」
アルベルトは盆を脇に置き、姿勢を正した。
「9年お仕えいたしましたが、明日をもちまして、家令の任を辞させていただきます」
私は紅茶の杯を持ち上げかけた手を止めた。
「……辞める?」
「はい」
「理由を伺っても?」
アルベルトは少しだけ目を伏せ、それから、内ポケットから革表紙の手帳を取り出した。
手のひら大の、よく使い込まれた、しかし汚れのない手帳だった。
「次の家令への引継書でございます。お目通しいただけませんでしょうか」
私は受け取った。表紙には何も書かれていない。
最初のページを開くと、そこにはアルベルトの几帳面な筆跡で、こう記されていた。
『お嬢様は、紅茶に角砂糖を1粒お入れになる。ただし春のあいだは2粒。理由を尋ねたことはない。お嬢様はご自分で気づいておられない』
2ページ目。
『お嬢様は雨の日の朝、必ず東向きの窓辺に10分ほど立たれる。何をご覧になっているのかは存じ上げない。声をかけてはならない時間である』
3ページ目。
『お嬢様は、年に2度、書庫の南側で長くお過ごしになる。3月12日と、11月7日。亡くなったお母上の誕生日と命日と推察される。お声をかけてはならない』
私は震えそうになる手でページをめくった。
次々と、私の9年が、誰かに見守られ続けた9年として、目の前に並んでいた。
2年目のページにはこう書かれていた。
『5月17日、お嬢様は薔薇園で12分間泣かれた。従姉のクラリス様の婚約解消の報せを受けた当日。誰もご覧になっていないと思っておられたご様子。私もご覧になっていない位置から下がった。お嬢様の涙には、見られていない自由がある』
4年目。
『お嬢様が刺繍を始められた。3週間で中断された。未完成の布は化粧室の引き出しに畳んでしまわれた。捨てておられない。再開される日をお待ちしているように見受けられた』
7年目。
『お嬢様の眠りが浅くなられた。夜中に書庫の灯が点く頻度が3か月続いた。無音であろうと努めておられたが、廊下の床板の鳴る場所が決まっている。私はその時間、台所に湯を沸かしておくようにした。お嬢様が手を伸ばされた時、温かい紅茶が用意されているように』
——3年前の深夜。
私は確かに、書庫から階段を下りて台所に行った。
眠れない夜だった。台所は暗くて誰もいないと思っていた。けれど、調理台の上に、湯気の立った紅茶が1杯、置かれていた。湯気はほのかに残っており、温度はちょうどよかった。
私は誰がいるのかと辺りを見回し、誰もいないことを確認して、その紅茶を飲んだ。誰かが私のために置いてくれたのだと思った。それきり、考えるのをやめた。考えると、何かが崩れそうだったから。
「アルベルト」
私は顔を上げた。声が掠れた。
「これは、引継書ではないのですね」
アルベルトは目を伏せたまま、答えた。
「次の家令に、お嬢様へお仕えいただくための、最低限の手引きでございます。9年も知らずにお仕えするわけにはまいりませんから」
「これは——」
私は彼を見つめた。
「これは、私を見守った日々の記録でしょう。家令としてではなく」
アルベルトの肩がわずかに動いた。彼は1度、深く息を吸った。
「お嬢様」
* * *
「お嬢様。私は、アルブレヒト・フォン・カートライトと申します」
静かな声だった。
淡々とした声だった。けれどその名前を聞いた瞬間、私の心臓は奇妙な動きをした。
カートライト——隣国の、伯爵家。
「次男でございました。9年前、爵位を持たぬまま、王立アカデミーの留学生として、こちらの王都に参りました。デビュタントの夜会で、お嬢様にご挨拶いたしました。覚えておいでになる必要はございません。私はその夜のお嬢様の手の冷たさを、今でも覚えております。19歳のお嬢様は、ひどく緊張しておられました」
私は息を呑んだ。
あの夜のことは、覚えていた。たくさんの人と握手した。誰の顔も覚えていなかった。
「伯爵家を継ぐのは兄でございました。私には領地もなく、爵位もなく、お嬢様にお仕えする身分すらございませんでした。けれど、お嬢様にもう1度お会いしたい、それだけは諦めることができなかった。だから、家令として、こちらのお屋敷に参りました。身分を伏せて。9年お側に仕えれば、せめて、お嬢様の1日のお時間にいくらかは関われると」
アルブレヒトは——9年「アルベルト」と呼ばれてきたその人は——1度言葉を切った。
「9年でございました。お嬢様が婚約者の方と幸せにお過ごしになるのを、私はお側で見守ろうと思っておりました。私の役目はそこまでだと思っておりました」
彼の声がかすかに揺れた。
「けれど、3か月前、お嬢様が婚約を解消されたあと、書斎で1人、長くお泣きになる声を、私は廊下で聞いてしまいました。泣くというより、息を整えるような、声にならない声でございました。その声を聞いた瞬間、私は——お側に立っているだけでは、もう、足りないと思いました」
「アルベルト……」
「昨日、隣国から報せが届きました。兄が、狩猟の事故で亡くなりました。子はおりません。カートライト伯爵領は、私が継ぐことになります」
私は彼を見つめていた。
「明日、私は隣国に発ちます。爵位の継承手続きのためでございます。家令の任は、明朝、後任に引き継ぎます」
彼は身体を起こし、私の正面に立った。
「お嬢様。手続きが終わりましたら、私はこの屋敷に、もう1度参ります。家令としてではなく、隣国カートライト伯爵として。そしてお父上様に、お嬢様との婚約をお願いに上がります」
私は彼を見つめたまま、言葉を見つけられずにいた。
「お嬢様には、お断りになる権利がございます。私の9年は、お嬢様に何らの義理を生じさせるものではございません。9年は、私が勝手にお仕えした9年です。私の自己満足です。お嬢様が、その引継書を読まれたあとで、それでも他の方をお選びになるなら、私はそれを受け入れて、隣国に戻ります」
* * *
私はしばらくの間、何も言えなかった。
言葉を選んだのではない。言葉が、追いつかなかった。
「アルベルト」
ようやく口が動いた。
「3年前の、深夜の紅茶のことを覚えていますか」
アルブレヒトはうなずいた。
「142ページ目に、書かれてございます」
私は、そのページを開いた。
確かに書かれていた。日付。時刻。書庫を出てから台所に着くまでの所要時間。紅茶の温度。私が1人で飲み終わるまでに費やした時間。そして最後に、1行だけ、こう添えられていた。
『お嬢様は、紅茶を飲み終えられたあと、10秒ほど目を閉じておられた。誰かに気づかれることを望んではおられなかった。私は廊下に下がった』
私は声に出して笑った。
3か月ぶりに、心の底から笑った気がした。
「アルベルト。それは、あなたがしてくださったの? 紅茶を」
「はい」
「私は、誰かが置いていったのだとばかり——」
「お嬢様にお気づきいただかぬよう、努めてございました」
「なぜ?」
「お嬢様は、見られていないご自分を、最も大切になさっておりましたから」
私は引継書を膝の上にそっと置いた。
革表紙はあたたかかった。彼の手のひらの温度が、まだ残っているような気がした。
「アルベルト。隣国に行ってきてください。そして、戻ってきてください」
私は言った。
「私は、28年生きました。けれど、9年見ていてくださった人がいるのなら、私の28年は、誰かにとっては短くなかったのかもしれません」
アルブレヒトは、その場で片膝をついた。
家令としてではない、貴族としての所作だった。
彼は私の手を取り、その甲に唇を寄せた。9年お仕えしてきた人の唇だった。けれどその瞬間、私はもう、彼を家令だとは思えなかった。
* * *
1か月が経った。
王都最大の年中行事——収穫祭の夜会の夜だった。
私は深い青のドレスを纏っていた。地味でも陰気でもなく、ただ静かな青だった。父のエスコートで広間に入ったとき、いくつもの視線が私に集まった。3か月前と変わらぬ視線だった。けれど、私は背を伸ばして歩いた。
広間の中央近くで、ロザリンドが壁際に1人立っていた。手にした扇を、所在なげに開いたり閉じたりしていた。彼女の周りには、誰もいなかった。
——後で聞いたことだが、彼女がこの1か月、年上の令嬢たちに執拗に嫌味を言い続けていたことが、社交界で広まりつつあったらしい。年配の夫人たちは、若い令嬢たちに「あの方の隣には立たないように」と忠告していた。今夜の夜会で、ロザリンドにダンスを申し込む者は、誰もいなかった。
オクタヴィアンは別の場所で、父親と何やら難しい顔で話し込んでいた。
後で聞いたところによれば、子爵家の領地経営の不審な数字が、王宮の監査で発覚したらしい。婚約解消時に彼が放棄した私の持参金は、本来であれば領地の赤字を埋めるはずの資金だったとのことだった。
私は彼らの方を見なかった。
見る理由がなかった。
そのとき、入口で進行係が高らかに告げた。
「隣国カートライト伯爵——アルブレヒト・フォン・カートライト閣下、ご入場」
広間が、波のように静まった。
黒の正装に身を包んだアルブレヒトが、まっすぐ広間の中央へ歩み出た。9年、家令として静かに歩いていた廊下と、同じ姿勢で。けれど今夜の彼の歩き方には、隠していた何かが、まっすぐ表に出ていた。
彼は私の父の前で立ち止まり、革表紙の手帳を差し出した。
「ロザムント侯爵閣下。これをご確認いただきたく」
父はその手帳を受け取り、最初の数ページを読んだ。読み進めるにつれて、父の顔色が変わっていった。十数ページめくり、彼は顔を上げた。
「マリエル、この方を知っているか」
「はい、お父様」
「この記録を、お前は知っているのか」
「はい」
父はもう1度アルブレヒトに視線を戻した。
「カートライト伯爵。この場で、ご意向を改めてお述べいただけますかな」
アルブレヒトは広間に響く声で、ゆっくりと言った。
「ロザムント侯爵閣下。私はこの9年、貴家の家令として——お嬢様のお側にお仕えできる、唯一の身分として——お仕えしてまいりました。本日、隣国カートライト伯爵の地位を継承いたしましたゆえ、ようやく、貴家のご令嬢にふさわしい身分となりました。この場をお借りして、お嬢様、マリエル様との婚約を、お父上様にお願い申し上げます」
広間の沈黙は、長くは続かなかった。
「あ、あの——」
ロザリンドが、ようやく声を絞り出した。
「ですが、ロザムント侯爵令嬢は28歳ですわよ。伯爵閣下のような若いお方が、わざわざそのような——」
アルブレヒトは、彼女の方を見もしなかった。彼は私の父を見たまま、答えた。
「私は32歳でございます。お慕い申し上げる方は28歳でございます。お互いの間には、合わせて60年がございます。その60年の1年たりとも、私はお譲りする気はございません」
ロザリンドの扇が、止まった。
オクタヴィアンが、震える声で口を開いた。
「アルベルト——いや、カートライト伯爵閣下。あなたは、9年もの間、我が婚約者の家を、見張っておられたのですか」
アルブレヒトは初めて、わずかにオクタヴィアンの方へ顔を向けた。彼の声は、いつもの家令の声と変わらず、淡々としていた。
「9年お仕えしてまいりました。見張ったのではございません。お側におりましたのは、お嬢様でございます。閣下のお側にではなく」
父侯爵は咳払いをし、はっきりとした声で告げた。
「カートライト伯爵。ご求婚を承ります」
私は前に進み出た。
何も言わなかった。私は、オクタヴィアンの方も、ロザリンドの方も、見なかった。私はただ、アルブレヒトの差し出した腕に、自分の手を置いた。
私たちはそのまま、広間の中央へ歩いていった。
楽団が——どうやら指揮者の判断で——ワルツを始めた。
私が踊るのは、9年ぶりだった。
* * *
半年後、私たちは結婚した。
結婚式の翌朝、新しい屋敷の書斎で、アルブレヒトは新しい革表紙の手帳を取り出した。
「また引継書ですか?」
彼は今朝も、ためらいなく角砂糖を2粒、私の杯に落としてくれていた。春だった。私はその紅茶を口に運びながら尋ねた。
「いいえ」
彼は穏やかに笑った。家令だった頃には決して見せなかった笑い方だった。
「これは、私自身のためのものでございます。古いものは、ロザムント家の書庫に納めてございます」
私は手帳を覗き込んだ。最初のページには、こう書かれていた。
『結婚1日目。妻となられたお嬢様は——マリエル様は——以前より少し低い温度の紅茶を好まれるようになった。お目覚めの時間が早くなった。お笑いになる回数が増えた』
私はその1行を読み、目元に手を当てた。アルブレヒトは何も言わずに、私の隣に座った。
「アルブレヒト」
私は手帳のページを彼の前に押し戻した。
「では、もう1行、書いてくださる?」
彼は羽根ペンを持ち直した。
「マリエル様は今朝、お泣きになった」
私は目を閉じてうなずいた。
「幸せで、初めて」
アルブレヒトは丁寧にその1行を書き添えた。家令としての筆跡ではなかった。夫としての筆跡だった。
書庫の棚には、9冊の引継書がしまわれている。10冊目は、彼の机の上で、まだ続いている。11冊目以降の革表紙は、私たちのために、表紙工房がすでに用意してくれている。
——私は29歳で結婚した。
9年見守られていた。
これからは、2人で書き続ける。
それだけで、私の30代は、もう、長すぎるほど豊かだ。
【作者から読者様へお願いがあります】
少しでも、
「面白い!」
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