第21話 私が先に言うべきだったのかな?
翌朝、瑠花は珍しく朝早く起きた。
朝六時。普段なら絶対に起きていない時間だ。瑠花の朝は、十時くらいに始まる。それが「お嬢様」として育った瑠花の標準時だった。
でも今日は、早く目が覚めた。
というか、よく眠れなかった。
ベッドから起き上がって、窓辺に立つ。向かいのアパートのカーテンは、まだ閉まっている。蓮はまだ寝ているらしい。当たり前だ、こんな朝早く起きている人は珍しい。
瑠花は窓に額を当てて、ぼんやりと外を見た。
……コラボ配信まで、あと五日。
頭の中で、昨日の夕方の光景が、何度も再生されていた。
ベランダで剣を磨いている蓮。
夕日に反射する黒い刃。
あの剣を、白波つむぎは、見ることになる。
白波つむぎは、ホロダイのトップ配信者だ。瑠花も、ルカたんとして配信を見たことがある。冷静で、技術があり、洞察力のある人だ。
あの人なら、本物の剣を見て、本物のダンジョンに連れていかれて、何が起こっているかすぐに察するだろう。
察した上で、白波つむぎは、どう動くだろう。
……わからない。
◆ ◆ ◆
朝食は、トーストを焼いた。
最近、瑠花は少しだけ料理をするようになった。蓮におにぎりを作るために、台所に立つ習慣ができた。それまでは、家政婦さんが作ってくれるものを食べるか、コンビニで済ませるかだった。
今日のトーストは、少し焦げてしまった。
でも、食べた。
「……」
考えごとをしていた。
考えていたのは、白波つむぎのことだった。
昨日の夜、瑠花は決めた。「願うこと、画面の向こうから見守ること、ルカたんとして声をかけ続けること」。それくらいなら、自分にもできる、と。
でも、朝になって、考えが揺れていた。
……白波さんに、先に言っておくべきなんじゃないかなと。
瑠花の中に、その考えが、芽生えていた。
白波つむぎのVStreamのアカウントには、たぶん、DM機能がある。瑠花は「ルカたん」として、白波つむぎに、メッセージを送ることができる。
送るとしたら、なんて書く?
『あの、RENさんとのコラボ、楽しみにしています。
ただ、一つだけお伝えしたいことがあります。
RENさんは、ホロダイの話をしているとき、たぶん、本物の話をしています。
驚かないであげてください』
……いや、これは送れない。
送ったら、白波つむぎは、何のことかわからない。あるいは、わかった上でコラボ自体をキャンセルする。それは、蓮を傷つけるからダメだ。
じゃあ、別の文面なら?
『RENさんは、ちょっと変わった人ですが、悪い人じゃありません。
いきなり驚くようなことが起こっても、離れないであげてください』
……これも、変だ。
知り合いでもない他人から、こんなメッセージが届いたら、白波つむぎは「なんだこの人」と思って、ブロックするだろう。瑠花だって、逆の立場ならそうする。
……「ルカたん」としてなら、どうだろう。
ルカたんはRENの配信の常連で、白波つむぎも認知しているはずだ。「ルカたんからのメッセージ」なら、白波つむぎは、少しは話を聞いてくれるかもしれない。
でも、ルカたんとして、白波つむぎに直接コンタクトを取るのは、配信文化的に「重い」気がする。「視聴者がコラボ相手にDMを送る」というのは、配信者からしたら、たぶん、嫌な行為だ。
……どうしよう。
瑠花は、トーストを噛みながら、考え続けた。
◆ ◆ ◆
午前中、瑠花はノートPCを開いた。
VStreamを開く。白波つむぎのチャンネル。
最新の配信を見ようとアーカイブを確認した。「黄昏の遺跡ソロクリア達成! RENさんとのコラボも決定しました」
白波つむぎ本人が、コラボの告知をしていた。
瑠花はその配信を最初から見た。
白波つむぎは、いつも通りだった。プロのゲーマーで、解説が丁寧で、視聴者からの質問に的確に答えていた。配信の終わりに、コラボについて触れていた。
「RENさんとのコラボ、すごく楽しみにしてます。私、ずっとファンだったんです」
白波つむぎはそう言って、笑った。
「ちょっと気になっていることもあって、その、聞きたいことがあるんですけど。それは当日のお楽しみということで」
瑠花は、画面を一時停止した。
……白波つむぎ、気づいてる。
瑠花にはわかった。白波つむぎの、あの「気になっていること」という言い方。あの「当日の楽しみ」という、ちょっとぎこちない笑い方。
あれは、何かを薄々感じている人の顔だ。
たぶん、白波つむぎは、RENの映像が「ホロダイじゃないこと」に、気づいているかもしれない。
……だったら、私が言う必要はないかな。
瑠花は、ほっとしたような、寂しいような、複雑な気持ちになった。
白波つむぎは、自分の頭で、ちゃんと、考えている。
仮説を立てて、確認しに来ようとしている。
……それなら、私が先回りして「警告」する必要はない。
自分の手で、自分の目で、確かめに来る人を、邪魔したくない。
瑠花は、ノートPCを閉じた。
窓の外を見る。向かいのアパートの二〇三号室は、もう、カーテンが開いていた。蓮が起きたらしい。今日も、剣の手入れをするんだろう。回復薬を作るんだろう。来週末の準備をするんだろう。
……私にできることは、やっぱり、画面の向こうで見守ることだけ、なのかもしれない。
◆ ◆ ◆
昼前、瑠花の部屋のドアがノックされた。
「お嬢様、お父様からお電話です」
家政婦さんの声だった。
瑠花は固まった。
「……お父さん?」
「はい。お嬢様が昨日、本社にお越しになったと聞いて、お電話くださったそうです」
……あ、と瑠花は思った。
工藤主任が、たぶん、報告をしたんだ。「瑠花様が映像を見せに来た」と。父はそれを聞いて、心配して電話をかけてきたのだろう。
瑠花は深呼吸をして、子機を取った。
「お父さん、おはよう」
『瑠花。昨日、会社に来たんだって』
「うん。ちょっと、聞きたいことがあって」
『工藤から聞いたよ。映像を見せたって』
「うん」
『何の映像なんだ』
瑠花は、しばらく黙った。
父は、たぶん、答えを待っている。瑠花が「実はね、お父さん」と話し始めるのを、待っている。
でも、瑠花は、言えなかった。
『……瑠花』
「お父さん」
『うん』
「ごめんなさい。今は、まだ、言えないの」
『そうか』
「でも、変なことに首を突っ込んでるわけじゃない。たぶん」
『たぶん、か』
「うん、たぶん」
父は、しばらく黙った。電話の向こうで、深く息をつくのが聞こえた。
『瑠花。お前のお母さんがよく言ってたんだけどな』
「うん」
『お前は、人を見る目はある。だから、お前が「言えない」と判断したことは、たぶん、言わなくていいんだろう』
「お父さん……」
『ただ、危なくなったら、すぐに言いなさい。お前一人で抱え込むのは、お父さんは、嫌だ』
「……うん」
『うん、じゃ、またな』
電話が切れた。
瑠花は、子機を握ったまま、しばらく立ち尽くしていた。
お母さんが、よく言っていた。
お母さんが亡くなったのは、瑠花が中学生のとき。交通事故で即死だったみたいだ。それから、瑠花は引きこもるようになった。その時からコンビニとリビングを往復するだけの生活が始まった。
お父さんは、たぶん、ずっと心配していた。
でも、何も言わなかった。何も聞かなかった。瑠花の世界に踏み込まないでくれた。
その距離感が、瑠花にとってはありがたかった。
……お父さん、ごめんね。
瑠花は、子機を置いた。
いつか、ちゃんと話せるときが、来るかもしれない。
でも、今はまだ、言えない。
言えないことを抱えているのは、苦しい。
けれど、その苦しさは、たぶん、蓮が抱えている苦しさに比べたら、ずっと軽いものだ。
蓮は、本物のダンジョンに毎日潜って、本物の命を懸けて、それを「ゲーム配信」として消費されている。
その消費を、本人は、たぶん、無意識に「歓迎」している。「ゲームだと思われている方が、自分は普通の人でいられる」と。
その気持ちが、瑠花にもわかる気がする。
お母さんが亡くなったとき、瑠花は「天城ホールディングスの社長令嬢」として扱われた。葬儀で、たくさんの大人が瑠花に頭を下げた。「ご愁傷様です、お嬢様」と。
瑠花は、そのとき、思った。
「お嬢様」じゃなくて、ただの「瑠花」として悲しみたい、と。
でも、それは許されなかった。
……蓮も、たぶん、似たようなものなんだろう。
「最強の探索者」じゃなくて、ただの「神崎蓮」として配信したい。だから、ゲーム配信者として扱われている方が、楽なんだ、と。
その壁を、瑠花が壊す権利はない。
白波つむぎが壊すかどうかは、白波つむぎ次第だ。
瑠花にできるのは、画面の向こうで、見守ること。
……うん。
瑠花は、自分の決意を、もう一度、確かめた。
◆ ◆ ◆
昼。
瑠花は、自分でおにぎりを握った。
今日は鮭、昆布、梅干し。三種類。
ツナマヨは、まだ、二回目はうまく作れる気がしなくて、入れなかった。
タッパーに詰めて、メモを書いた。
『お疲れさまです。
来週末、楽しみですね。
白波さんと、いい時間を過ごせますように。
瑠花より』
書いてから、メモを、ちょっと見つめた。
「白波さんと、いい時間を過ごせますように」
私が言いたかったのは、たぶん、そういうことだ。「私が先に言うべきだったのかな」と何度も自問した。でも、結論は「言わない」だった。
代わりに、メモに込めた。
言葉が届くかどうかは、わからない。ただの応援の一文に見えるだろう。
でも、私には、これが精一杯だ。
◆ ◆ ◆
昼過ぎ、瑠花はアパートに向かった。
タッパーを、二〇三号室のドアの前に置く。メモを添える。
いつも通り。
でも、今日は、いつもより少し、長く、ドアの前に立っていた。
この扉の中に、本物の探索者、S級のモンスターを倒せる人がいる。三年間、ダンジョンの中で生き延びた人がいる。
その人は、来週末、初めて誰かと一緒にダンジョンに入る。
……どうか、白波さんが、隣に立ってくれる人でありますように。
瑠花は、扉に向かって、もう一度、心の中で願った。
それから、振り返って、坂を下りた。
◆ ◆ ◆
その日の夜。
瑠花の部屋のノートPCの画面に、VStreamのアラートが点いた。
白波つむぎの新しい配信告知。
タイトル「コラボに向けて、ホロダイのRENさんの配信を全部見返します配信」
……え、と瑠花は固まった。
全部見返す? 半年分の配信を?
「マジか……」
瑠花は思わず声に出した。
白波つむぎ、本気だ。コラボに向けて、RENの配信を全部、もう一度見返すと言っている。
それは、白波つむぎが、RENの配信に「分析する価値がある」と判断している証拠だった。プロが、本気で相手を理解しに来ている。
……白波さん、たぶん、当日確信を持ってくる。
半年分の配信を見返したら、絶対に「これホロダイじゃない」と気づく。気づかないわけがない。
その上で、当日、現地に来る。
来た上で、本物のダンジョンに入る。
入った上で、たぶん、何かを言う。
……白波さん、何を言うんだろう。
瑠花は、白波つむぎの配信告知を、もう一度見つめた。
不安と期待が半分ずつ混じっていた。
あの人が、隣に立ってくれる人でありますように。
この願いだけは、何度繰り返しても、減らなかった。
◆ ◆ ◆
別の場所。
白波つむぎは、配信機材の前に座って、伸びをしていた。
告知配信を出したばかりだ。「コラボに向けて、ホロダイのRENさんの配信を全部見返します配信」
「全部見返す」と言ったとき、コメ欄が湧いた。「白波さん本気じゃん」「分析配信きた」「コラボへの気合がすごい」
つむぎは、画面を見て、少し笑った。
「気合」じゃない。
「確認」だ。
仮説Dの。
つむぎは、ノートを引っ張り出した。一ヶ月前に書いた、四つの仮説のメモ。仮説Dには、すでに小さなチェックマークが入っている。
その横に、つむぎは新しい一行を書き加えた。
『直接会って、確かめる』
ペン先で、その一文を、もう一度なぞった。
仮説Dが本当だったら、つむぎはとんでもない場所に連れていかれる。
仮説Dが間違っていたら、ただの楽しいコラボになる。
どちらでも、つむぎは、行くつもりだ。
行って、自分で確かめる。
画面の向こうで、ずっと寂しそうに見えた、あのRENという配信者の隣に、ちゃんと、立ってみる。
立った上で、何が起きるかは、その時に考える。
来週末まで、あと五日。
つむぎは、ノートを閉じて、長い深呼吸を一つした。




