2.庭に落ちていたのは
アルガルド公爵家の庭園は無駄に広かった。 専属の庭師たちが手入れをした芝生は絨毯のように柔らかく、色とりどりの花が咲き乱れている。
パパの腕に抱かれながら、私は獲物を探す狩人のような目つきで周囲を観察していた。 もちろん、探しているのは獲物ではなく、最高の昼寝スポットだ。
「リア、あそこを見てごらん。珍しい青いバラが咲いているよ」
「んー」
パパが機嫌よさそうに指さすが、私の興味はそこにはない。 花よりも、木陰だ。 直射日光を遮りつつ、適度なそよ風が通り抜ける完璧な木陰が必要なのだ。
その時、庭園の奥にある巨木の根元に、何かが横たわっているのが見えた。 銀色に輝く、小山のような物体だ。
「あ」
「ん? どうしたんだい、リア」
私はパパの腕の中から、その銀色の山を指差した。
「あれ」
「あれ? ……!!」
パパの動きが止まった。 抱きしめていた腕に力が入り、全身からピリピリとした空気が放たれる。いつもの親バカなパパの顔が消え、氷の騎士団長と呼ばれる戦士の顔になっていた。
「……まさか。王都の結界を抜けてきたというのか」
パパは私を抱えたまま、ゆっくりと後ずさりをした。 けれど、私の体質がそれを許さなかった。 私の存在に気づいたのか、その銀色の山がむくりと動き出したのだ。
ザザザッ、と草を踏みしめる音が響く。 起き上がったその姿は、狼だった。 ただし、サイズがおかしい。屋敷の馬車よりも遥かに巨大だ。全身を覆う銀色の毛並みは太陽の光を浴びて神々しいほどに輝き、金色の瞳は鋭い知性と獰猛さを宿している。
伝説の魔獣、フェンリルだ。 本来なら、人が遭遇したら死を覚悟しなければならない災害そのもの。
「グゥルルルル……」
フェンリルが喉の奥から低い唸り声を上げる。それだけで空気が震え、近くの小鳥たちが気絶して落ちてきた。 パパが腰の剣に手をかけ、私を背中に隠すようにして立ちはだかる。
「リア、逃げなさい!! アンナを呼ぶんだ!」
「パパ?」
「いいから行くんだ! 私が食い止める!」
パパが剣を抜き放つ。 その殺気に反応し、フェンリルが牙を剥き出しにして飛びかかろうとした、その瞬間だった。
フェンリルの金色の瞳が、私の姿を捉えた。
「――?」
フェンリルの動きがピタリと止まる。 空中で固まったかのように静止し、鼻をヒクヒクと動かして私の匂いを嗅いだ。
殺気が、霧散していく。 獰猛だった瞳が、見る見るうちにとろんと溶けていく。
「クゥ……ン」
巨大な狼は、まるで甘える子犬のような声を漏らした。 そして、ドスンという地響きとともにその場に横倒しになり、だらしなくお腹をさらけ出したのだ。
「……は?」
パパが剣を構えたまま、間の抜けた声を上げた。
私はトコトコとフェンリルに歩み寄った。 近くで見ると、その毛並みは想像以上の極上品だった。最高級の羽毛布団よりも柔らかそうで、陽の光を吸い込んで温かそうだ。
「だめだリア! 離れなさい!」
パパの悲鳴を無視して、私はフェンリルのふさふさの胸毛に顔を埋めた。
「ふあぁ……」
最高だ。 温かさ、柔らかさ、弾力。すべてが完璧だった。 フェンリルも嬉しそうに尻尾をバタンバタンと振っている。その風圧だけで近くの花壇が吹き飛んでいるけれど、気にしない。
「おまえ、あったかいねぇ」
「ワフゥ」
フェンリルが大きな舌で、私の頬をぺろりと舐めた。 ザラザラしていて少し痛いけれど、敵意は微塵も感じられない。むしろ、「もっと撫でて」と言わんばかりに鼻先を擦り付けてくる。
どうやら私の動物に好かれる体質は、伝説の魔獣にも効果抜群らしい。 私はフェンリルの懐に潜り込み、あくびをした。ここなら誰にも邪魔されず、静かに眠れそうだ。
「リア……? そいつは、魔獣だよな?」
恐る恐る近づいてきたパパが、信じられないものを見る目で私たちを見下ろしている。 私はとろけそうな意識の中で、パパに告げた。
「パパ、このこ、かう」
「かう!? 飼うって、何を!?」
「このこ。ポチ」
「ポチ!? フェンリルだぞ!?」
名前なんてどうでもいい。 私は世界最強のベッドを手に入れたのだ。 温かい毛皮に包まれて、私は急速に意識を手放していった。
遠くから、駆けつけてきた騎士たちの「団長! ご無事ですか!」「ひっ、フェンリル!?」「なぜお嬢様が埋もれているのですか!?」という絶叫が聞こえた気がするが、夢の中へと旅立った私にはもう関係のないことだった。




