10.兄様は暴走特急
その男は、風のように現れた。 いや、正確には「台風」のように。
私がポチの背中で二度寝を決め込もうとしていた時だ。 屋敷の門を破壊する勢いで、一台の馬車が飛び込んできた。馬車が完全に停止するよりも早く、扉が蹴り開けられ、一人の少年が転がり出てくる。
「リアッ!! リアはどこだ!!」
悲鳴のような絶叫が庭園に響き渡った。 ポチが不快そうに耳を伏せ、とりさんが驚いて羽をバタつかせる。
現れたのは、銀髪に碧眼の美少年だった。年齢は十歳くらいだろうか。 知的な眼鏡をかけ、本来なら「学園の秀才」といった冷静な雰囲気を纏っていそうな美貌だ。 だが、今の彼は違った。 髪は乱れ、制服のタイは曲がり、血走った目で周囲を見回している。その姿は、獲物を探す狂戦士そのものだ。
彼こそが、我がアルガルド公爵家の長男であり、私の兄――カイン・ド・アルガルドだ。
「兄上、落ち着け! リアは無事だ!」
パパが慌てて止めに入ろうとするが、カイン兄様は止まらない。 その視線が、私とポチを捉えた瞬間、彼の顔色が凍りついた。
「……あ……ああ……ッ!!」
兄様が膝から崩れ落ちる。
「なんてことだ……! 噂は本当だったのか! 愛しのリアが、あんな凶悪な魔獣の下敷きにされているなんて!!」
違う。これは下敷きではない。高級マットレスだ。 しかし、兄様の目には「魔獣に捕食される寸前の可哀想な妹」というフィルターがかかっているらしい。
「許さん……! 僕の天使を汚す害獣どもめ、塵一つ残さず消し去ってやる!」
兄様が立ち上がり、眼鏡を指で押し上げた。 その瞬間、周囲のマナ(魔力)が急速に彼の手元へ収束していく。
「――『炎よ、煉獄の顎となりて敵を喰らえ』」
詠唱!? しかも、その規模はおかしい。庭先で放っていい魔法ではない。上級攻撃魔法だ。
「待てカイン! それを放つと屋敷が吹き飛ぶ!」
パパが真っ青になって叫ぶ。 しかし、兄様の耳には届いていない。彼の手のひらに、巨大な火球が出現した。
「死ねェェェ!!」
兄様が腕を振り上げる。 ポチが「やれやれ」といった顔で口を開け、迎撃のブレスを吐こうとした、その時。
「うるさい」
私の不機嫌な声が響いた。 眠いのだ。さっきまで最高に気持ちよくウトウトしていたのに、騒音と熱気で台無しだ。
私はポチの背中から身を乗り出し、兄様に向かって小さな手を突き出した。
「お兄様、めっ」
その一言の効果は、絶大だった。
シュゥゥゥ……。
兄様の手のひらで燃え盛っていた巨大な火球が、線香花火のように儚く消え失せた。 兄様は彫像のように硬直し、口をパクパクさせている。
「……り、リア?」
「うるさいと、きらい」
私が追撃の一言を放つと、兄様は胸を押さえて「ぐふっ」と吐血せんばかりのダメージを受けた。
「き、嫌い……!? リアに……嫌われた……!?」
兄様はその場に四つん這いになり、絶望のあまり地面を拳で殴りつけた。
「嫌だ! 嫌だ嫌だ! 僕はただ、リアを助けようと……! くそっ、学園なんて行くんじゃなかった! 僕がいない間に、リアがこんな悪い虫(魔獣)にたぶらかされて……!」
号泣し始めた。 情緒が不安定すぎる。パパも大概だが、この兄も相当だ。 ポチがドン引きした顔で私を見ている。『お前の家族、ヤバくないか?』という視線が痛い。
「……カイン、落ち着け」
パパが疲れ切った顔で、カイン兄様の肩に手を置く。
「その魔獣たちは、リアのペットだ。リアが自分で手懐けたんだ」
「ペット……?」
兄様が涙で濡れた顔を上げ、再び私を見る。 私は証明するために、ポチの耳をむにむにと揉んでみせた。ポチは気持ちよさそうに目を細める。
「……信じられない」
兄様がよろよろと立ち上がり、近づいてくる。 ポチが警戒して唸るが、私は「待て」と合図をする。
兄様は私の目の前まで来ると、地面に膝をつき、熱っぽい瞳で私を見つめた。
「ああ、リア……。近くで見ると、さらに神々しい……。まさかフェンリルを従えるなんて、君は女神の生まれ変わりだったんだね」
「……ちがう」
「謙遜しなくていいよ。ああ、尊い。そのフリル付きのドレスも最高に似合っている。この瞬間を魔道具で録画しておかなかった自分を呪いたい」
兄様が早口で捲し立てる。 この人、パパとは別ベクトルの変態だ。
「兄様、おみやげは?」
私が話題を変えようと手を出すと、兄様の表情がパァッと輝いた。
「もちろんあるよ! リアのために、東の国から取り寄せた最高級の絹織物と、魔力を帯びた宝石と、それから……」
兄様は懐から次々と高価そうな品物を取り出し、最後に一冊の本を取り出した。
「これだ。『はじめての古代魔法』。リアなら三歳でも読めると思ってね」
いらない。 私は即座に本をポチの足元にポイと捨て、絹織物だけを受け取った。
「これ、ふかふか。すき」
「!!」
兄様が感涙にむせび泣く。
「よかった……! リアが喜んでくれた! もう僕は一生、この屋敷から出ない! リアの成長をこの目で見守り続けるんだ!」
「それは困る」
パパが真顔でツッコミを入れたが、兄様には聞こえていないようだ。
こうして、我が家に「暴走特急」ことシスコン兄様が帰還した。 パパ(親バカ騎士)、ママ(最恐聖女)、兄様(暴走魔導師)、そして二匹の魔獣。 私の周囲の「過保護包囲網」は、ますます分厚く、そして脱出不可能なものになっていくのだった。
――私はただ、静かに昼寝がしたいだけなのに。




