【第1章】桜木町の喫茶店 第3話
「えっと、コーヒーを……ホットでお願いできますか?」
「アメリカンで」
窓側のテーブル席に腰を下ろし、メニューを見る事無く、男性に注文した。
「承知いたしました。他にご一緒に注文されるものは、ございますか」
ピンと背筋を伸ばした男性。自然な感じで、私に聞いてくれる。
「……いえ、大丈夫です」
「承知いたしました。それではしばらくお待ちください」
そう言うと、軽く頭を下げて男性はゆっくりとカウンターの奥へと向かった。
(……はぁ)
窓の外に目を向けると、雨脚は段々と強くなり、道を歩いている人達はハンカチやハンドタオルを傘代わりに、頭にかけている。
(雨か)
この飲食街を過ぎれば、地下鉄の駅まではすぐ。「このお店で、ちょっと時間潰そうかな」と私は思っていた。
外はザァー……っと、雨の音。店内では男性がサイフォンの準備を始めている。
(……サイフォンで作るんだ)
珍しいなと思い、ちらちら視線を送る私に、男性が穏やかに話かけてくれた。
「珍しい、ですか?」
「あっ……そうなんですよ。久し振りに見たなって」
「ははっ……そうでしょうね。最近だとこういう喫茶店。減りましたからね」
沸騰したお湯をフラスコに入れて、サイフォンコーヒーを手慣れた様子で作る男性。
「すいません」
コーヒーを攪拌しながら、男性が静かに尋ねた。
「あっ、はい」
「お声掛けするの、悩んだのですが……」
「何でしょう?」
男性はしばらく無言で、攪拌を続けた。コーヒー豆の奥行きある香りが、店内に漂ってくる。
「……淋しそうな、顔をされていたので」
私は心臓が一瞬止まりそうになった。
「あっ、何で? ですか……?」
「いえ、外を歩いている時に、そう感じたものですから」
私は窓を振り返った。そうか、今歩いている人と同じで……私もこの窓に映っていたんだ。一体、どんな姿勢で歩いていたんだろう。
「……そうなんですよ。お恥ずかし話」
「お仕事、ですか」
今度は私がしゃべれなくなってしまった。誰かに相談するつもりは無かったから……自分の中で気持ちの整理がついていない。
「そうですね。もう、辞めようかなって思ってるんですよ。最近」
「……そうでしたか」
「福岡から上京して来たんですけどね。……上手く行かなくて。もう帰ろうかなって」
「……」
男性はほんのり湯気が出ているコーヒーカップに、フラスコを傾けてゆっくりと注いでいく。心なしか、店内が少し熱くなったような気がした。
きっと、温かいコーヒーのお陰だと思う。
「大変、お待たせいたしました」
黒いトレーに乗せて、男性はテーブルにソーサーとコーヒーカップを静かに置いてくれた。
「……ありがとう、ございます。良い香りですね」
ふわっと漂う、コーヒーの香り。冷たくなった私の心と体を、一瞬にして温めてくれるような気がした。
「もし、よろしければですが」
静かに男性が言う。
「こちらの本、いかがですか」
「……本?」
「はい」
男性はカウンターの横に立ててある本を、1冊取り出し……私の前に静かに置いた。タイトルは無い。それどころか……日記のようなカバーをしていて、かなり分厚い。
「これは?」
「猫のお話です」
「……猫?」
「はい。うちのお店は……お客様のように、ちょっとお疲れの方や、お悩みをお持ちの方が多くいらっしゃいます」
私は男性の顔を見て、じっと話を聞く。目は穏やか。でも……真剣そのもの。
「そのようなお方に、こちら……おすすめしております」
「猫の……小説って事?」
「はい」
まさか、喫茶店でマスターの人に猫の小説を勧められるなんて……思わず笑ってしまった。
「面白いですね。ちょっと、読ませて頂こうかな……雨が、止むまで」
「ええ。是非。小説の中に入り込んで頂いて……心温まる旅を、されてみてください」
にこりと男性は微笑み、頭を下げてカウンターの奥へと消えて行った。
(猫の、小説……)
(「入り込んで」って、言ってたよね)
私は入れてもらったコーヒーを口元に持って行った。
(うわ……美味しいな)
そして、ゆっくりとページを開いた――




