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湯殿に入ってきた王に侍従たちはすぐさまひざまずき仕えようとしたが、幽残は片手でそれ制した。その僅かな動きに侍従たちは頭を垂れ、気配を消して退く。


幽残は黒衣を自ら脱いで湯に浸かった。

熱が肌を包む。

闇をそのまま溶かし込んだような湯は、湯殿に満ちる血のにおいを薄めていく。


あの天狐の甘い香りをふと思い出す。

幽残は舌の裏に微かな渇きを覚えた。


「……忌々しい」


誰に向けた言葉か分からぬまま、低く呟く。


飢えではない。

欲でもない。

もっと厄介な何かが、胸の奥を掻いた。


桃の香り。

くだらぬ。

天狐など、飽きれば捨てる贄にすぎぬはず。

天が贈ったという妙な言葉の真偽など、取るに足らぬ。


しかし、


感情を隠そうとしない白銀の耳や尾。

琥珀の瞳に浮かぶ、無知ゆえの色香。


——僕はどこで寝るの?

——湯浴みしてきてくれたら嬉しいんだけど

——ねえ、おなかすいた


無防備に甘えてくる声がやけに耳に残った。

幽残は湯を受け流しながら目を閉じた。


誰も王にそんな軽口を叩いたことなどない。

命を奪われる覚悟なしであれを言ったのは、あのこぎつねだけだ。


腹の底がやけに疼く。


「……余は何を欲している?」


忌々しい、だが切り捨てるには惜しい感覚だ。

幽残は短く笑った。



一方、その頃——


伊織のために整えられた湯には薄紅色の花びらが浮かんでいた。侍女たちは一言も発さず、伊織の肌を見ないように視線を伏せ、しかし恭しい手つきで伊織の髪先まで丁寧に湯を注ぐ。


湯から上がるとすぐ、香油を塗られた。

肌はもともと桃色がかっていたが、油がのばされるたび、指先が沈むほど柔らかに光りはじめる。


侍女の一人が、静かに衣を広げた。


初夜の衣。


天から堕とされた王弟を迎えるために用意されたものだ。


薄絹は夜露のように透き通り、裾と袖には白銀の糸で精緻な刺繍が施されている。

まとえば肌が淡く透け、妖しい艶だけを際立たせた。


腰帯は深い赤。

幽残の瞳と同じ色であり、幽残の飢えを呼び覚ます色でもある。


侍女たちは感情を表に出さず、無駄のない動きで伊織を飾り立てた。


結ばれた胸元の紐は薄絹が胸元をゆるく包み、解こうと思えば指一本でほどけてしまいそうなほど脆い。


最後に、侍女たちは香を焚こうとしてやめた。


伊織からは甘い桃のような香りが漂い続けている。その香りは天界の気配そのもの。

だがその奥に、天狐とは異質の妖気が微かに混じっている。


侍女たちは静かに扉を開き、闇の王の寝所へと道を示した。


伊織の細い足首には、白銀の鈴がひとつ結ばれている。

歩くたび、微かな音が鳴った。


幽残に献上される、たった一つの贄の音色として。


闇の王が待つ寝所まで、その甘やかな音は夜を柔らかく震わせながら進んでいった

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