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闇の城の奥。

燭台の影が長く伸びる広間に伊織(いおり)は案内された。

しなやかな狐耳が微かに動き琥珀色の瞳は好奇心も露に広間を観察している。


(なにもかも真っ黒だ。天は真っ白だったからまるで真逆だな…)


伊織が一歩踏み出すたびに背後に並ぶ白装束の狐面たちは、まるでひとりの意志に操られているかのように一糸乱れぬ動きで静かにその後に続く。


その時、闇がひときわ重たくなり、伊織の背後の狐面たちが一斉に膝を着く。


幽残(ゆうざん)が側近を2人従え、闇の奥からあらわれたのだ。血の匂いを漂わせた長身の王。氷のように白い肌、長い黒髪、冷酷な空虚を宿す紅い目。

互いに観察し合う沈黙が流れる。


「……これが、余へ捧げ物か?」

幽残の声は低く、冷たい。


天狐の王弟に対しあまりにも簡素な出迎えだ。

しかし伊織はそれを気にすることも、幽残の冷たさに怯むこともなく優雅に膝を折った。


伊織が纏うのは満月の光をそのまま衣にしたような、淡く透ける白銀の礼服。腰帯には薄金の糸で王族だけに許された紋様が刺繍されている。


白銀の狐尾が衣の裾からのぞき、長い銀髪は三日月と桃の花を模した髪飾りで彩られ背に流れ落ちていた。


花びらのような紅い唇がかすかに動く。


「天の御心により選ばれし、天狐族の末弟伊織にございます。この身は、幽残王の御許へ捧げられし供物にして祝福。どうぞ御手にて、お望みのままお扱いくださいませ。」


まだ青年になる前の中性的な声音。

王を迎える花嫁にも似た、完璧な礼であった。


沈黙。


幽残の紅い目が伊織の姿に留まる。

月光の化身のようなその姿は闇を見慣れた幽残の目にも優美だった。

しかし、


「あーお腹すいた。好きな食べ物は僕の庭でとれる桃なんだけど…ここにも桃ある?」


教えられた挨拶は済んだとばかりにさっさと立ち上がると言葉を崩す伊織。

ふわりと伊織の首筋から甘い桃のような甘い香りが漂った。伊織の唇が弧を描く。

無意識なのか故意なのか、天界の住人とは思えない退廃的な誘惑の気配。


幽残の登場にも儀礼的な反応しかしなかった狐面たちに初めて緊張が走った。伊織の気配に惑わされないため短く印を切る者もいる。


「僕お腹すいてるの」


その口調はまるで子狐だ。

だがその身から漂う妖気は天狐のものではない。


「…なるほど妖気を持つか」


幽残の目にはじめて興味が宿る。


「天がそなたを厭うたわけだ。祝福?呪いの間違いだろう」


その言葉に伊織は唇を尖らせる。

思ったことがすぐ顔に出るようだ。


捕食者になりうる色気を無造作に放つくせにまだその扱い方を知らず不貞腐れている様子はまるで子どもだ。


幽残の足音が石の床に低く響く。長衣の裾が静かに揺れ、広間の闇に微かな波紋を描く。


「……こぎつね」

幽残の低い声が広間に落ちる。


「…伊織」


小さく訂正したが無視された。

伊織のしっぽがかすかに揺れる。好奇心と警戒心が混ざり合った微妙な動きだ。幽残の目はその小さな動きまで逃さず捉える。


幽残の手が無言で伊織の頬に伸びた。触れるか触れないかのわずかな距離で、伊織の妖しい精気を感じ取る。幽残は凍りついていた飢えをひどく刺激されていることに気がついた。


「ねえ、僕おなかすいてるの」

「……」

「あなたもお腹すいてるの?」

「………」

「あなたを見たら、僕天にいる時よりお腹すいちゃって……でもあなた変な匂いする」

「は?」


伊織は腐った果実でも嗅がされたように袖で鼻をおおった。さっきまでぴょこぴょこ動いていた狐耳もしょんぼり寝てしまっている。

その様子に後宮で啜ってきた血の匂いに反応しているのかと気がつく幽残。


「そなた妖気を持ちながら血の穢れを嫌うか」

「………変な匂い、それ血の匂いなの?」

「…こぎつねよ、好きに扱えと言ったな?血が苦手でどうやって吸血鬼の相手を務めるつもりだ」

「…だから、伊織だってば」


返す声は不満げだが、甘い。

天狐が闇の王にここまで無警戒なのは異常だ。しかし伊織には恐れがない。むしろ興味のほうが勝っている。城の奥で兄王に護られ、狐たちにかしずかれ恐怖も悪意も知らず育ったのだろう。


「随分と甘やかされて育ったようだ」

「兄上が、これからはあなたに甘やかして貰えって」


兄王が聞いたらそんなことは言っていないと顔を顰めそうなことをケロリという伊織。

しかしまだ袖で鼻を覆ったままだ。


「ねえ、僕今夜はどこで寝るの?あなたと寝るの?そうなら湯浴みしてきてくれたら嬉しいんだけど…」


狐面の従者たちは感情のない人形のごとく身動ぎもしないが幽残の側近たちの視線が冷えきる。

闇の王へ向けて"湯浴みしてこい"などと言った存在は、この城の歴史上ひとりもいない。


幽残の紅い瞳がゆっくりと細められた。


「……こぎつね。そなた、誰に向かって物を言っておる」


伊織は悪びれもせず続ける。


「だって変な匂いするんだもん。僕、その匂い苦手だよ。まるで熟れすぎた柿みたい」


幽残は怒らなかった。

興味を深めた獣のように、目の奥にゆっくりとした光が灯る。


「そなた……余に命じる気か?」


「命じてないよ。お願いしてるの。……ね?」


袖の隙間から覗いた琥珀の瞳が、蕩けるような光を宿して幽残を見上げた。


その無防備な甘さは、王が長年触れてこなかった純粋そのものだった。後宮の美しい者たちがどれほど媚びようと、決して差し出せなかった種類のもの。


幽残は少しだけ息を吸い、口元にかすかな笑みを刻んだ。


「……ふむ」


その声音は低く、冷たく、しかし満たされぬ飢えが疼く音を含んでいた。


紅い瞳が伊織の耳から首筋へ、そしてしっぽの先まで、ひどくゆっくりと這う。


「ならば……湯を浴びてくるか」


伊織はぱっと顔を上げた。

狐耳がふわりと立ち上がる。


「狐たちを天へ返し、そなたも湯を浴びてこい」


幽残が命じると、伊織の背後に控えていた狐面たちが一斉に頭を垂れた。

一糸乱れぬ動き。

白い狐面が同じ角度で傾き、衣が揃って揺れる。

まるでひとつの生き物のように、静かな風となって広間から消えていく。


代わりに影のような黒衣に身を包んだ侍女たちが伊織に付き添う。


伊織は桃はあるか侍女たちに聞いているが侍女たちは答えない。幽残王のものである伊織と会話する許しを彼女たちは受けていないからだ。

お腹すいたとぼやいている伊織から視線を外して幽残は湯殿へ向かう。


天をも乱す美貌と妖気を持つため、闇に堕とされたまだ若い天狐。その甘い香りは凍てついた闇をも変えようとしていた。


闇の王幽残。

毎夜飽きるほどの美姫や美少年が贄として幽残の城には贈り届けられる。


贄たちを自ら出迎えたことなど幽残にはなかった。


しかしこの夜、幽残自ら天から堕とされた王弟を迎え入れたのは天に対するわずかばかりの礼儀か、それともなにか幽残の奥底を揺らした予感のせいか、


まだ誰にも分からなかった。

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