3、都合のいい着せ替え人形①ー伯母編『贅沢はユキエちゃんの家で?』、『チンチン電車と宗教活動』
『贅沢はユキエちゃんの家で?』
ずっとしまい込んでいた古い箱の中から、私がまだ二歳くらいの頃の写真を見つけました。
【たぶん、父が居なくなって直ぐの頃の写真だと思います。仕立ての良さそうな服を着せられていて、父がいた時に撮ってくれた写真と大差のない写真です。】
何も知らない幼い私は、写真の中で幸せそうに笑っています。余所行きの服を着せられて、ユキエちゃんの家の応接間で嬉しそうに笑っています。仕立ての良さそうな淡いブルーのアンサンブル。ワンピースとボレロのセットを着て、それはそれは嬉しそうに笑っているのです。知らない人が見れば、きっとこんな風に思うに違いありません。
「ああ、この子は大事に育てられたんだなぁ。こんなに幸せそうに笑っているんだから、きっと両親に可愛がられた子なんだろうな」と、 自分が見てもそう思えます。
隣の町内に親戚だという家がありました。後に聞いたら本当は親戚でも何でもなかったのですが・・・
とにかく、姉さんがまだ中学生の頃から、何かというと頻繁に押しかけて行っていた家です。
特にクリスマスとかお正月は、ユキエちゃんの家でケーキやおせちを食べて、お年玉をもらっていました。
伯母はいつも、おじさんの部屋に入るなり、こう言うんです。
「ごめんなー、ヒロちゃん。この子がどうしてもケーキが食べたいと言って聞かんもんだから・・・」と。
おじさんは、いつも「そうか、そうか。良いよ、すずちゃん。遠慮しんと、たんと食べなよー」と言ってくれました。
でも、私は小さい頃から甘い物が苦手で、特におじさんが買ってくれた大きなホールのケーキはバタークリームというらしく、チョコレートと混ざった凄く甘くてベタベタしたケーキだったので、ひと口食べて残していました。
表向きは真面目な姉さんが口煩くて、いつも後ろからこっつくので、幼いながらにも食べないことは失礼だと理解していたように思います。
たぶん、私ではなく姉が食べたかったんだと思います。姉はいつも、私の分も伯母の分もぜんぶ嬉しそうに平らげていましたし、姉が自分でホールのケーキを買ってくるようになった頃も、私はひと口しか食べず、姉がホールごと平らげていましたから。
私は幼くて何も知らないから、都合の好い理由にされていたんだと思います。
おじさんは大工さんで、私の家とは比べものにならない程のお金持ちの家だと思っていました。おじさんの家は、玄関を入ると直ぐに応接間があり、その奥におじさんの部屋がありました。
中庭には大きな温室があって、いつも花がたくさん咲いていました。その中庭を通って奥に行くと母屋があり、そこには、カズ子さんが住んでいました。
カズ子さんは、おじさんのお母さんで、伯母とは若い頃からの付き合いらしいです。
おじさん家の応接間には、見た事もない大きなカラーテレビがありました。その前で、幼い私が嬉しそうに笑っているのです。
おじさんは、いつも優しくしてくれて、見たこともないテレビやゲーム(人生ゲームやトランプ等)や絵本なども見せてくれました。
時には車に乗せて貰って出かけたこともありました。この時の写真を撮ってくれたのも、おじさんです。
それからも伯母は、「ユキエちゃんの家にお風呂を借りに行くよ」などと言っては、私を強引に連れ行きました。
でもいつも着くと必ず「ごめんなー、カズ子さん・・・この子がどうしても風呂屋に行きたくないというからさー」と、何でも私のせいにしました。その上、図々しく夕飯まで食べて帰るのですから、私の方が気まずかったです。
こういうことは、私が小学校を卒業する頃まで続いていました。
子どもながらに、あまりのも図々しい伯母に呆れて、聞いたことがあります。
「どうして、いつもユキエちゃんの家に行くの? 迷惑じゃないの?」と。
すると伯母は、こう言いました。
「なかなか嫁の来てがないヒロちゃんに親戚のとしちゃんを世話したのが私だから、遠慮しんでもいいんだわ。あそこの家は、私に恩があるから文句なんか言えんわ」と。
結婚も子供も遅かったおじさんは、私のことを自分の子供のように可愛がってくれて、クリスマスケーキもいつも特大のホールを用意してくれました。
カズ子さんも「スズちゃん、ご飯食べた?お腹すいてるだろう? 食べてきゃあ、残りもんしかないけど」と、いつもそう言ってくれたけど、「私が頼んだ訳でもないのに・・・」と、逆に引け目を感じていました。
むしろ、自分の家は、目と鼻の先に銭湯があったのに、銭湯にはあまり行かせて貰えませんでした。世間体を構うような出来事があるときだけ銭湯に行かせて貰えた程度です。
思えば、こうやって姉も伯母も他人に平気で【たかる生きもの】だったのです。
私は、こういうクズみたいな大人が大嫌いで「絶対に、こんな大人には、ならないぞ!」と、8歳の私は心に誓いました。
【後にユキエちゃんという6歳下の女の子が生まれます。私があの家を引っ越す20歳を過ぎた頃までユキエちゃんの家族には色々とお世話になっていました。】
カズ子さんはとても厳しい人で、間違ったことが大嫌いです。後におじさんのお嫁さんになった【としちゃん】は、少し不器用だったので、何でもそつなくこなすカズ子さんはイライラした様子でした。
私が行くと「としちゃん、お茶は?お風呂から出たら食べるように用意したってー」と言ってくれるのですが、どうにも見ていられないようで・・・
「あんたは本当に・・・ みっともないで引っ込んで! まぁ良いわ、私がやるで」と、としちゃんはいつも叱られるので、余計に申し訳ない気持ちになりました。
でも、そういう厳しいカズ子を私は信頼していました。
実は・・・
後に伯母が金銭面で迷惑をかけるのですが、カズ子さんもおじさんも、誰にも言わずに墓場まで持って行ってくれたみたいです。
どうやら伯母は、そんなカズ子さんには頭が上がらなかったようです。いつもペコペコしていて、子供ながらに、いつもになく、しおらしい伯母を見て不思議な気持ちでした。伯母が金銭面で迷惑をかけた事で、私は人並みならぬ苦労を背負わされることになるのですが・・・
『チンチン電車と宗教活動』
同じ頃から、綺麗な服に着替えさせられて、よく電車で知らない人の家に連れていかれました。まだ幼かった私は、「チンチン電車に乗ってお出かけするんだ」と、胸を躍らせていました。
ある時期になると、一日に何件もの家に行きました。それが何日も続きました。
伯母はいつも、あつかましく推しかけては、ずかずかと物を言いました。
よっちゃんという魚釣りの好きなおじさんは、よく釣った魚を持ってきてくれました。どういう人なのか?は知りませんが、「おばさん、おばさん」と、伯母を慕っているように見えました。でも、伯母が押しかけていくようになってからはもう、よっちゃんが家に来ることはありませんでした。
私が「豊橋のお兄ちゃん」と呼んでいた、優しくて爽やかイケメンのお兄さんは、姉のボーイフレンドだと思います。
姉が最初に勤めていた会社の人で、バスに乗せられて、一緒にミカン狩りに行った記憶がおぼろげにあります。
二回ほど、伯母がお兄ちゃんのアパートにまで押しかけて行き、気づいたらもう二度と会えなくなってしまいました。
必ず伯母は、行く先々で「選挙は●●党に入れてよ、ひと月でいいから新聞もとってよ!」と、行って回っていました。
伯母が、こういう時だけ私を連れて行く理由はわかりませんでしたが、帰りの伯母は機嫌がよくて、駅から家までの帰り道にある食堂で中華そばを食べさせてくれた事がありました。おそらく私の経験から思うには、私を連れて行くと同情を買えるため、交渉が上手くいったんでしょうね。
姉がこの会社を辞めたのは、ここに原因があると思います。
伯母はいつもこんなことをいっていましたから、きっと伯母が姉の交際を阻んだに違いないです。
「交際相手や結婚相手は全て学会に入信させろ。その家族も、知人友人も全てだ。お前たちが関わる人間は全て学会に入らないといけない。それが学会の掟だ!」と。
姉は、伯母の宗教をもの凄く嫌っていました。姉だけは一切、宗教には関わらず、なぜだか?伯母も姉には宗教のことは言いませんでしたので、相当のことがあったんじゃないかと思います。【そのしわ寄せが全部、私に来たことは言うまでもありませんが・・・】
この頃までは、伯母の知り合いであろう人がたくさん家に来ていましたが、気づいたら誰も来なくなっていました。それからは、伯母みたいにあつかましく押しかけて来ては上がり込むようなおばさん達が次々に来るようになりました。
そして、夜になると、大勢の人が集まる家に強引に連れていかれました。
そこには、大人がギューギュー詰めになるほど座っていて、みんなで揃ってお経をあげていました。
それが終わると、みんなが競い合うように手を上げて発言するのです。
ある人は、「私は今年100万円寄付することが出来ました」
ある人は、「新聞●●部、取れました」
また、ある人は「私はまだ●円しか寄付できませんでしたが、いつか○○さんのように、たくさんできるようになりたいです」
大人たちは揃って、発言者に盛大な拍手を送ります。
私は、大人たちが何をしているのか解りませんでしたが、気色の悪い異様な光景だと思っていました。
けど、逆らえば後が怖いので、ただ眠いのを我慢して、黙って大人しく座って時間が過ぎるのを待っているしかありませんでした。集会が終わると10時を過ぎていて、小さな子供がフラフラと出歩く時間ではありません。