2、独りぼっちの朝が怖い・・・
小さい頃のトラウマでしょうか。今でも時々、朝起きた瞬間、不安な日があります。どうしてか急に不安になり、しばらくは引き籠ったりすることもあります。 そういう時は、気持ちが重くなるので、何も出来ない日が続いたりします。何も食べられなくなることもあります。
私は、自分は小さい頃から食べないことに慣れているんだと思っていました。だから食べることに体が追い付いていけないんだと思っていました。
でも、それは違うんですよね。
息子達とわいわい言いながら一緒に食べた夕飯は、とても美味しかったんです。別に特別なものでなくてもいいから、大好きな誰かと一緒に笑顔で食べるご飯は何よりも美味しいんです。子供が出来て、私は初めてそんなことを知りました。
それが子供の心の栄養にどれだけなっているのか? ということを私たち大人がもっと真剣に受け止めるべきではないでしょうか。
「ただいまー」と言えば「おかえりー」と言ってくれる人がいる。それだけでも子供は安心して家に帰ることができるんです。
【帰りたい家がある】それは、凄く大切で幸せなことだと私は思います。
小さい頃の私は、誰もいない真っ暗な部屋で独り朝を迎える毎日でした。
母は入院していると聞かされていて、いつのまにか姉も居なくなり、気づいたら伯母と二人だけの暮らをしていました。
当時の家は、古い日本家屋を象徴したような建物でした。私のおじいちゃん(明治20年生まれ)の頃からすんでいたそうで、戦前は祖父が人力車を営んでいたそうです。
私が寝ていた二階の部屋の窓は障子戸でした。鍵などついていないのでいつも雨戸が閉められていました。木製の雨戸の内側に、角材を斜めにして施錠するのです。時代劇で見るような光景です。
全く陽の光があたらないので、とくかく部屋は真っ暗でした。それもあってか、いつも朝がくるのが怖かった。得体の知れない不安ともに飛び起きていました。
「このまま誰も居なくなってしまうんじゃないか・・・」そんな気がして小さな胸がいつも締めつけられました。
毎日、同じ時間に飛び起きては家中を見回るのですが誰も居ません。居てもたってもいられなくて、そのまま伯母を探しに家を飛び出します。
知り合いは10軒も行かない程の所にあるパン屋のおばさんだけでした。
道すがら誰にも気づかれてはいけない気がして下を向いて歩きました。(おばさんがいない・・・どうしよう・・・)誰にも聞かれないように、誰にも気づかれないように、そっと小さな声でひとりぶつぶつ言いながら歩いていました。
いつも最後にたどり着くのは、そのパン屋さんでした。唯一、伯母や姉に連れられて何度か行った事がある場所だったからです。
大人の足ならさほど時間もかからない距離なのに、当時の私にはとても遠かったです。
毎日、毎日、小さな子供が一人でふらふらしていても、道行く人も誰も変だとも思わなかった時代ですから、通報なんて言葉もありません。
店に着くと、遠慮しながら半分開いたシャッターをくぐり、入り口付近まで足を踏み入れます。そして、震えるような小さな声で「伯母さん来てますか?」と、一言だけ言うんです。
パン屋のおばさんは、忙しそうに朝の準備をしながら笑顔でこう言います。
「ああ、すずちゃん。今日はまだ伯母さん来てないよ。お利口さんにお家で待ってたら直ぐに帰って来るよ。早くお家に帰りな。おばさんが帰ってくるかもしれないから急いで!」と言って、私を追い払うんです。
いつも答えは同じなのに、それでも毎朝 私はパン屋のおばさんに同じことを聞きに行きました。パン屋のおばさんしか知っている人が居ませんでしたし、子供の私に出来ることはそれぐらいしかなかったからです。
何処を探しても見つからないので、諦めて家に帰るのですが、それでも、まだ伯母は一向に帰って来ませんでした。
薄暗い部屋の隅で小さくなって、不安な気持ちを押し殺すように膝を抱えて座っていました。小さかった私には、こうするしか出来なかったから、ただただ、膝を抱えて伯母の帰りを待っていました。
自分でも、泣きたいのか泣きたくないのかもわからずに、ただただ静かに身を潜めて待っているだけでした。いつか伯母が帰って来ると信じて、ただひたすら待つ毎日でした。
こうして、パン屋に伯母を探しに行くことだけが、私の唯一の日課でした。
伯母は仕事もしていなくて、どうやって生計を立てていたのか? 私にはわかりません。ただ、朝早くから出かけて家には居なかったことだけは覚えています。
暗くなって帰って来た伯母に、私はしがみついては懇願するのです。
「おばさん、どこに行ってたの? どうして置いて行っちゃうの? ひとりにしないで」とーー
伯母は、うすら笑みを浮かべながらこう言うんです。
「何を言っとんのー、どこにも行けへんがねー。ここは私の家だよ。お前は私のお陰でここに置いて貰っとるんだから、私が居らんかったらお前は生きて来れんかったんだでな。いいか、一生をかけて母親の分まで私に恩返しするんだぞ」と、諭すふりをしては、私を膝に入れました。
幼い私はこうして、どんどん洗脳されていったんだと思います。
家の中は酷いゴミ屋敷でした・・・
伯母の言い分ではーー
「だって、お姉ちゃんが働かんでも良いわーって言ったんだー。一回、私が倒れた時、そういったんだ。だで、働かんでも良いんだわー」と、言っていましたが、私は全く納得していません。伯母はずっと何ともなく元気で遊び回っていましたし、自分だけバクバクと食べていましたから。
体の弱い母も私も、ほとんど食べていないのに。私も母と同じで、小さい頃から喘息の発作が出て苦しんでいましたが、伯母はいつも仏壇の前に座り「拝んだら治るわ」と言って、病院にも連れて行ってくれませんでした。
【余談ですが、伯母は70歳を過ぎても80近くになっても、歯もないのに歯茎で固いせんべいをバリバリ食べたり、脂っこい物でも何でもバクバク食べるようなバケモノでした。病気なんて一度もしていません。根っこから折れた真っ黒な前歯を見た私が「痛くないの?」と聞くと、「ぜんぜん痛くも痒くもないわー、更年期だって私にはないわー」と言っていました。けど、こういう人間に限って辛抱が出来ないんです。私や母に酷い事を平気でする癖に、自分はちょっと指先を切っただけで『血が出てるー、死ぬーーー 早く病院に連れて行ってくれー』と、大騒ぎした事があります。非常に腹ただしいです】
伯母は家事の一切もしませんでした。洗濯はといえば、溜まれば嫌々する程度で、取り込んだ洗濯物の山が部屋のあちこちに積み上げられていました。
毎日スーパーの買い物袋を下げて帰ってくるのですが、自分だけ食べて私には何もくれません。暇さえあれば座椅子に座り、テレビを見ながら食べていました。
伯母の機嫌の良い日だけは、私も少しだけ食べ物を与えられましたが、とても食べられるものではありませんでした。大鍋になんでもかんでもぶち込んで、ドロドロになるまで煮込んだ【伯母いわく、みそ汁】という物ですが、思い出すだけで吐き気がします。
ちゃぶ台の上に、その大鍋をドン!と置いて「ほれ、食え」と言うんです。鍋と箸だけが出て来ます。鍋からつついて食えと言うことです。洗い物をしたくないからです。
あれは人間の食べるものではありません。
いつも伯母が私に出す【通称、みそ汁】は、まるで魔女がぐつぐつと毒リンゴを煮込んだ後の捨てる汁のような物でした。まるでヘドロかコールタールみたいで・・・口に入れただけで吐き気がしてました。 嫌がらせか腹いせで、わざと失敗したものを私に与えていたんじゃないかと思ってしまいます。
それでも伯母は、「人がせっかく作ったったのに、食わんのかー」と、怒ります。言う通りにしないとまた殴られるので、仕方なく少しだけでも食べていました。
たまに忘れた頃に、姉が帰ってきた時だけは、まともな食べ物が貰えました。姉の前では、伯母は絶対に私を怒らないし、殴りませんでした。
姉が帰ってきた時だけは、お菓子を買ってくれたり、お土産をくれたりするので、私の中でのささやかな楽しみになっていました。
その時だけは、伯母も何も言わず、姉と一緒に外に行かせてくれたこともあります。そういっても、いつものパン屋さんですが。
幼かったあの頃の私にとって、姉との関わりは、私自身の命を繋ぐ大切な時間でした。
いつも、「このまま、ずっと一緒にいてくれたらいいな」と、心の中で思っていました。
殆ど家から出た事のない私は、近所の人の顔も知りませんでした。遊ぶ友達もいませんでした。町内会や子供会には入っていましたが、私は行事ごとには一切、行かせて貰えませんでした。「町内会でどうの・・・子も会がどうの・・・」と、伯母が言うのを聞いていただけでした。
時々、伯母に手を引かれて何処かの家に行くんです、その家のおばさんがお菓子をくれるのですが、どうしてなのか・・・私は、伯母のお尻に隠れてお菓子を貰う事が出来ませんでした。
行く先々のおばさんたちは皆、口を揃えて私の事を「ほんと! 可愛くない子だねー」と言いました。
「あんたは偉いなー、妹さんの子供を引き取って、自分から苦労を背負うなんて誰にでもできることじゃないよ! こんな可愛げのない子をよく面倒みとるねー」と、伯母の事をべた褒めするのです。
「それにしても、可愛くない子だね。人が菓子をやると差し出したんだから素直に『ありがとう』くらい言えんのかねー 」と、私の顔を覗きこんでしかめ面で言うんです。
伯母は満悦な顔でいつも、「ごめんね、人見知りが強い子だでさー、後でちゃんと言って聞かせるで」と言うんですが、ちゃんと言い聞かせるなんてあり得ません。いつも家に帰ると殴られます。「どうして私に恥をかかせるんだー」と言いながら。
一人で道を歩いている時も、いきなり知らない人から「あんたは、おばさんのお蔭でここに居れるんだからね、伯母さんのお陰で大きくなったんだから感謝しな、罰が当たるよ」と、何度も言われました。
それほどに伯母は嘘つきだったのです。
専門家はよく、こんなことをいいます。
【人の気持ちは川の流れのようにさらさらと流れるものだ】と。
けど、世の中にはその流れをせき止める悪い人間もたくさんいます。私のように深く傷ついた心は、そんなに簡単には戻せません。いくら自分で心に蓋をして記憶を失くしても、心の奥底に刺さったままの傷は決して消えることはありません。
本来、透明だったはずの川の水は【濁流】となり、よどんだ水はやがて【へどろ】になり、川の流れを完全に止めてしまいます。そうしないと心が耐えられないからです。それでも蓋も出来ずに溢れ出してしまうこともあって、もうそれ以上苦しまないようにと、脳が記憶を消すんだそうです。そうしないと死んでしまうから・・・