【加筆】始まりの話、奴隷は連鎖する!?絶やす女と堪える女、母が奴隷だと聞かされた日のこと・・・ 【東京のオジサンの話】
2002年7月下旬、私は37歳、息子たちはまだ13歳と5歳でした。
夫の暴力から逃げてやっと三年、幼い頃からあえつぐ不幸にばかり見舞われてきた私は、心身ともにボロボロでした。
そんなおり、私の体験が複数のメディアの目に留まり、急遽とあるテレビ番組に出演するために、一泊で東京に行くことになりました。
その帰りに、東京のオジサンという人の家を訪ねた時のことです。
元々、私の家には先祖の遺影も仏壇も家紋もお墓もありません。
母がなくなった時も学会の本山という静岡のお寺に全てを持って行かれてしまって何も残りませんでした。
その後、学会はその本山とトラブルを起こし契約を解除されました。
それ以来、実質的なお寺の存在はなくなり、母の遺骨は二度と帰らぬものとなってしまったのです。
母は何も語らず逝ってしまいました。
突然、母を喪った私には、誰も頼れる人がいなくて、家系や家柄、親戚などの血縁関係の所在もわからず、祖父母の顔も名前も知らないまま私は大人になりました。
幼い私を洗脳するために伯母がいつも言っていた、訳の解らない言葉だけが今も耳鳴りのように響きます。
「うちの家は禅宗なんかに入ったから滅びたんだー 男が育たんのも、お前の母親が病気になったのもみんな禅宗のせいだ、そう学会の人が教えてくれた。
禅宗は人を土に埋める極悪非道な宗教だで、うちの家は途絶えたんだー 学会だけが本物の宗教だ!
だから正しいという字が付いて「日蓮正宗」と言うんだ。
学会が禅宗の物を一切合切焼き払って、私を助けてくれたんだ 」とーー。
東京のオジサンと言っても、私はその人のことを何も知りません。
ただ、私が大人の階段を上りかけた頃、突然現れて、名古屋駅に呼び出され、駅前のデパートでなぜか?高級中華をご馳走してくれました。
その後、私が従姉の勤めていたデパートに強引に就職させられた時も、なぜか?オジサンはそのことを知っていて、
「スズが名駅で働いているならちょうどいいなー、駅で待ち合わせて夕飯を一緒に食べよう」と、また同じ中華レストランに連れて行ってくれました。
この時、ちらりと見えた【コースで三万円】という伝票の文字に驚きを隠せない私がいました。
それからも、二度ほど地元のお寺で法事をしたときに呼ばれて、そんなことが数回あった程度だったのです。
だから、どうしてオジサンが私の職場のことを知っていたのか?疑問でしたが、なにも聞けませんでした。
なんでも、オジサンは東京に住んでいて、会社の出張で名古屋に来たのだとか。当時、世間を震撼させたバスジャック事件の保険担当者で、あちこちを飛び回る忙しい日々を送っているとのことでした。
普通の家の人にとっては、オジサンのような会社員が当たり前で、私にはとてつもない金額に思えた食事代も、それほど珍しいものではないと言われました。
オジサンの妹の娘さんは、有名なディスクジョッキーの【土居まさるさん】と大学の頃から交際していて結婚したと、オジサンはとても誇らしげに話していました。
そのことは親戚の中ではとても有名で、何も知らないのは私くらいのものでした。
本当は私にも色んなチャンスはたくさんあったけど、その全てを諦めて生きるしかなかったから、羨ましいとは思いませんでした。
ただ、【私とは違う世界に生きている人達はみんな、やりたいことが出来て凄いなー】と思いました。
あの日、私がオジサンの家に着くと、私の顔を見るなりオジサンが不思議なことを言いました。
「ああー、お前! よく今日まで生きていてくれたなー、良かったよー」と、胸を撫で下ろしたのです。
私は何を言われているのか、わからず困惑しました。
(この人はいったい私の何を知っているの? 私に何があったというの?・・・)
聞くところによると、オジサンは私の祖父のきょうだいの息子さんなんだそうです。
私の祖父は長男の跡取りで、もともとは、私の家の近所にみんな住んでいて、お墓もみんな私の近所の同じお寺にあるのだそうです。
子供の頃に私がいつも居た近所のお宮さんの、その奥にお寺があるというのですから、とても驚きました。
『おじいちゃん達のお墓のことで聞きたいんですが・・・』と言いかけた私に、
いつもは穏やかなオジサンが、時々怒りを覗かせて、口早に当時のことを話してくれました。
「あの女がお前の爺さん婆さんの遺骨も墓も仏壇も、神社のお札も何もかも焼き払って壊したんだ! あの女がお前の家を潰したんだーー
あんな学会になんぞ狂いやがって!! 学会につぎ込んで身上を食いつぶしたのも、あの女なんだ!!」
「元はわしらと同じお寺に墓があったんだが、あの女が壊して遺骨もどうにかしちまったもんだから・・・
もしかしたら、阿部が自分の家の墓に入れたかも知れんという話はあるが定かではないんだ・・・ 一度、阿部の爺さんに聞いてみれば? 」とーー
阿部と言われても、私にとっては、いきなり現れてひどい目に遭わされただけの相手なので、【それならもう、どうしようもないな】と思いました。
小さい頃からへどが出る程聞かされた、伯母の自慢話からもわかるのですが、うちの家は祖父が人力車を営んでいて、とても豊かだったようです。
伯母は一人っ子が長かったせいか、蝶よ花よと育てられたお嬢様でした。
色とりどりの着物と袴を揃えてもらい、毎日、祖父の人力車で登下校していたそうです。
少し大きくなった私は、まるで「ハイカラさんが通る」の主人みたいな贅沢な暮らしぶりだなと思いました。
そんな伯母の一番の至福は、
【お前の母親は小学校もろくに通っていない読み書きもできん女だ。私はお前の母親とは違って、尋常高等小学校を卒業しているんだぞ。
みんなが私のことを羨ましがって、家の前にいつも集まって来たんだわー】と、ほくそ笑みながら、幼い私の前で病弱だった母の悪口を言う事でした。
『戦時中(第二次世界大戦)は、芋のつるしか食べるものがなかったで、よく闇市に買い物にいっとったんだぁ』と、自慢げに話していたのを覚えています。
また、私が育った当時の家は、祖父が人力車をしていた頃からの家だそうで、戦争(日露戦争)でもともと住んでいた実家が焼けてしまい、住めなくなって引っ越した借家だったそうです。
当時から家賃は変わらず、ずっと3千円だったそうです。
明治から大正、昭和初期の3千円がどれほどの物だったのか?は、私には見当もつきませんが、相当の金額ですよね。
きっと、それほどに私の祖父は頑張って、財を残していったのでしょうね。
そしてオジサンは、祖父母が亡くなった時のことも少しだけ話してくれました。
「お前のおじいさんは真面目で働き者でな、とても起用で何でも自分で作る人だった。人力車を始める時も自分で作ってなぁ、コツコツと働いて身上を築いていったんだ。 みんなからの信頼も厚く、昔はお前の爺さんを頼って兄弟が集まったものよ。
徴兵から無事に戻り、戦後は小学校の用務員をしていてなぁ・・・
台風の日の晩、『学校が心配だから様子を見に行ってくる』と、出かけたきり帰らぬ人になってしまったんだ。
学校とは反対の神社の池に浮いていてなぁ・・・
お前の婆さんも突然、亡くなって死因もわからんままだ、あの女が戻って来てからというもの、お前の家ではおかしな事ばかりが起きたんだ・・・」
「お前のお母さんは真面目で大人しい人だから、年が離れているミエコに逆らうこともできんでなー、小さい頃からずっと、あの女の奴隷にされていたんだ・・・
あの女は、自分は働きもせず、お前の母親を親戚の会社の家政婦に住み込みで働かせて、嘘ばかり並べては給料を奪いに行っておった。
お前の母親に渡る前に、自分が勝手に取りに行くんだぞ!
挙句には、お前の母親が借金を作って困っていると嘘涙でうったえて、親戚の会社から多額な金をだまし取って、お前のお母さんを強引に連れ出して行方をくらましたんだ!
だから、親戚中で皆が、お前の家とは関わるな! あんな女の娘なんか相手にするな!と激怒しているんだ。だからお前には悪いが、俺ももう、これ以上、お前に関わる訳にはいかんのだ・・・」
と、無情なまでに酷いことまで聞かされました。
私は、オジサンには言えませんでしたが、心底腹が立ちました。
「あんな女の娘だ」なんて言われる筋合いはない! 一緒にするな!!
私は、あの女の子供じゃないし、育てて貰ってもいない。
散々、苦しめられただけなのに、どうしてそんな酷い言われ方をしなければ成らないの!
何も知らない癖にーー 親戚なんか他人より酷い!! 大嫌いだーと、思いました。
それ以来、私は親戚という名の人たちに距離を置き、二度と連絡をすることもありませんでした。
向こうがどうであれ、私の中で一番嫌な事は「あの女と同じにされること!」なのです。
子供の頃からずっと「あんな女みたいな人間にはならないんだ!!」という絶対に曲げない信念をもって生きてきたからです。
オジサンがいうには、伯母は若いころから男癖が悪くて、頻繁に行方をくらましては次々に違う男の所に行って、また平気な顔で帰ってくる様な女だったそうです。
その最後にできたのが「従姉のヒロミ」で、相手は「在日朝鮮人」なのだとか。
「爺さんも婆さんも優しい人だから、『生まれてくる子供に罪はない』と言って、大きな腹を抱えて戻って来たミエコを許し、ヒロミを心から可愛がっていたんだ」と話してくれました。
だからか? 従姉の戸籍には父親がいませんでした。
でも、私はずっと伯母に、こう聞かされていました。
「私は結婚して夫の両親と同居しとったけど、酷いいじめに遭い家を追い出されたんだ。
ご飯が固いだの、やわいだのと難癖つけては私をいじめて追い出しやがった。
それからは、娘をおばあさんに預けて、私ひとりだけが寝る間も惜しんで必死に働かされて、家計を支えとったんだ! お前の母親は働きもせず、一円の金もよこさんと楽ばかりしやがって!!」と。
でも、ぜんぶ嘘だったみたい、オジサンのいう事の方が辻褄があうのです。
どうせ、何も知らない周囲の人達にも、そうやって都合のいいことだけを話していたんでしょうね。
だから私はいつも知らない人に【伯母さんに感謝せんと罰が当たるぞ】と、意味の解らないことばかりを言われていたんです。
そして、とうとう最後には、私が借金地獄へと引きずり込まれる羽目になって行ったのです。
思い起こせば・・・ 何も知らない一番、小さくて幼かった私は、【母の跡目を継ぐ奴隷】に仕立てられた、ということだったのでしょうね。
さいごに、
書きながら思ったのですが、あの時、オジサンの家に行ったとき、
長男は13歳で、きっと私たち大人の話を理解して聞いていたのだと思います。
思春期以降に、長男が豹変して私に危害を加えるようになったのは、こういう大人達の悪気のない悪意が、安易な言動の積み重ねが、子供の心に甚大な影響を及ぼしていたのだと思います。
大人になった私でさえ、オジサンの言葉に深く傷つき困惑しましたので、多感な時期の長男にとっては荷が重い話だったと思います。
だから長男は、私の人生を背負い、弟の人生までも背負おうとしました。
が、背負いきれずに攻撃的になったのでしょう。
息子たちには絶対に、私のような苦しい人生を歩ませたくなかったので、50歳になる頃、大人になった長男から離れて家を出て今に至ります。
こんな、どうしようもない大人に囲まれて育ったせいなのか? 世間の風は凄く冷たかった。私の家の事情を知っている親戚が一番、冷たかったと痛感させられた瞬間でもありました。
ただ、生まれた家が悪かっただけで何もしていないのに、家にも外にも居場所がなくて、ありとあらゆる苛めの的にされた。
何かある毎に大人からも子供からも苛められて、いつしか気づいたら、自分の存在価値も生きる意味も見えなくなってしまった。
大好きな人を守るために全てを諦めて、友達も何もかも自分から身を引き遠ざけた。そして全ての自由も夢も諦めて・・・
ただひたすらに、家族と名の付く誰かのためにだけ生きた50年でした。
もうこれ以上、私や母のような苦しい人間を生み出してはいけない、人の人生を食い物にするような奴を許してはいけない。
全ての人の人生は、その人のためにあるべきものだと思うから。