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Apollo  作者: ゆいまる
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愛という名の暴力 情という名の束縛 3

 彼女と出会った時の事は覚えていない。ただ、付き合うきっかけになった時の事は覚えている。

 大学一年の頃、ある日サークルの集まりで少し離れた街のミニシアター系の映画館に同学年の皆で行くことになった。しかし、その日は雨で、さほど熱心でない連中は次々にキャンセル。そんな中、唯一、待ち合わせに来たのが彼女だった。

 名前しか知らないサークルが同じだけのその彼女の顔をちゃんと見たのは、その時が初めてだった。

 濡れた傘を手に、途方に暮れた様子で空を見上げていたその美しさに息を飲んだのを覚えている。自分を見つけ、まるでその霧雨にぬれる紫陽花の様な笑顔を咲かせた彼女を見て、言いようもない感覚に心が動きだした。

 それまで映画にしか興味なかった自分が、今でもその日見た映画の事を思い出せないほど、その時は彼女とい二人でいるのに緊張した。


雨の音

彼女の香り

映画館の中の仄暗さ

触れ合いそうになる指

画面の光に浮かぶ横顔

帰りにつないだ手


 あぁ、忘れていた。惚れたのは自分の方が先だったんだ。彼女に会いたくて、彼女を知りたくて、あの時は5分の短編だったが、彼女主演の映画まで作ったんだった。

 付き合い初めてDVDを二人で見直した時に、ようやくまともに見れたその時、やけに月の映像が印象的で、彼女の様だと思ったのを鮮明に覚えている。その時、それを彼女に伝えたのかどうかは定かではないが。

 神崎川は雨の音にぼんやりそんな事を考えながら天井を見つめた。

 起きたばかりの体は、中毒の様にすぐに煙草を欲するのに、今見た夢のせいで、動ける気がまったくしない。

 家を飛び出し、そのままロケハンの移動に参加した。あの夜から二週間がたつが、当たり前のように紅からの連絡は何もなかった。

 思わず深い溜息をつき、泥の様に重い体をベッドから引きはがす。

 今は、何時ぐらいだろうか? ブラインドゥの向こうの空は暗く、強い雨が窓を打っている。この時期この土地ではスコールがよくあるというから、空の暗さの割にはまだ早い時間なのかもしれない。

 煙草を探してベッドサイドに腕を伸ばした時に、隣に寝ていた女が髪をかき上げながらまだ寝むそうな顔を上げた。

「どうしたの?」

 まるでここに裸でいる事が当たり前の様な馴染んだ女の声が不快だった。神崎川は「いや…」と短く答えると煙草を口にくわえる。

 女はそんな神崎川を見ながら頬杖をつき、彼女特有の甘えた目で彼を上目づかいに見上げた。猫の様なその表情は、それなりに男をそそるのだろうが、見慣れてしまえばつまらないものだ。

「奥さんの夢でも見た?」

 紅に会いに行ってから、彼女は事あるごとにその単語を口にした。張り合っているつもりなのか、それともこちらの動揺を誘いたいのか、どちらにしろ自分を不快にさせる意味合い以外に何もなく、神崎川は黙り込む。

 緋奈はそれをどうやら困っている、程度にしか受け取っていないようで、自分は優位にたったと勘違いしている勝ち誇った笑みを口元に湛え、その指を胸に這わせた。

「ねぇ、オフは明日まででしょ? どっか連れてってよ」

 長いロケハンの遠征。二か月スケジュールの中で、今回は珍しく二日間のオフだった。その間も仕事を進める者もいれば、観光に興じる者もいる。

 神崎川はそのどちらする気になれず、ホテルでぼんやりしていたところを彼女につかまり今に至るわけだ。

 それにしてもいい加減、彼女の存在に飽きてきた。

 もともと紅が来るまでの暇つぶしの様なものだったので、今やこうやって付きまとわれるのは面倒になっていた。

「うるさい。少しは黙ってられないのか?」

 吐き捨てると、サッとこのプライドだけの女の顔色が変わる。それで怒ってさっさと出て行ってくれたら御の字だ。もう『用』は済んだ。

 しかし、緋奈の反応は神崎川の希望のものではなかった。彼女は一度変えた顔色に、ややひきつった笑みを自分のプライドを終結させて造り出すと、ぎこちない手つきで自分の煙草を取り出す。

「何よ。何? 焦ってるの?」

「?」

 焦り? その言葉が妙に心に引っ掛かり、煙草に火を点けかけていた手を止め、彼女を振り返った。

 緋奈はその顔に満足そうに微笑むと、自身は煙草に火をつけて、うまそうに煙をくゆらす。

「奥さん、貴方に何にも求めてないものね」

 神崎川の口元が引きつった。

 まるで、何もかも知っているような口調から放たれたその言葉はまさに、あの夜から持ち続けた恐怖の正体ではないのか?

 まだなにも認めようとしない脳はYESと言わないが、心臓はあの時の様な奇妙な音を立てていた。

 緋奈はそんな彼にわざと一瞥もくれずに、まるで男を追い詰める、そのこと自体が楽しい享楽であるかのような口調で続ける。

「きっと大切なのは、あの気味の悪い子どもだけなのよ。だから、貴方を野放しにしている。違う?」

 胸に重く暗いものがのしかかる。確かに、紅はあの生き物のためにすぐには渡米しなかった。それに、アレを守ろうとする時だけは自分のどんな暴力にも屈さない。なにより、こうやって自分がどんなに愛人を作ろうと、仕事でどんな成果を収めようと、どんな暴力を振るおうと何にも言わない。求めない。

 母親と同じ、そう同じなんだ。自分に何にも求めてなんかいない。

「ね、私は違う。私、貴方にハマってるの。貴方だったら、一緒になってあげても……」

「出て行け」

 これ以上の雑音は耳障りだった。

「え?」

「出て行けって言ってるんだ!」

 自分の中にある昏い闇。それが今、またぽっかりと穴をあけてその奥から何かが自分を引きずり込もうと粘りつくような視線で見つめている。

 全身が泡立つような感覚。意識が滅茶苦茶に嬲られるような不快感。神崎川はそれらの象徴がまるで緋奈であるかのように乱暴に彼女を振り払うと、彼女の服を投げつけた。

「何よ! 偉そうに! そうやって怒鳴れば女は言う事聞くとでも思ってるの? お生憎様! それともどう? 奥さんみたいに私に手を挙げてみる?」

 緋奈のヒステリックな声が部屋にこだました。

 それは、あの夢から程遠い現実を言葉にして神崎川の頬を殴った。

「……」

 そうだ自分は彼女に、そんな事しかしていない。

 でも、暴力という名の心の安らぎは彼女でしか得られなくて……。

「お前にはそんな価値もない」

 呟くように言い捨てた言葉が、窓に伝う雨筋の影が這う床にこぼれ落ちた。

「……なっ」

 言葉を無くし立ちつくす女に、神崎川は立ち上るとその背中を強引に押した。

「出て行け。今すぐに。今後関わるな」

「ちょっ。ちょっと!」

 緋奈は屈辱に顔を歪め、彼を睨みあげるが、彼女よりずっと逞しい体の彼に抵抗できるはずもなく、あられもない姿のまま、廊下に放り出された。

 神崎川は無表情でドアをすぐに閉じ鍵をかける。もう、誰もここには入ってこないように。

「私は嫌だからね!」

 ドアを一度だけ蹴り上げる音がして、部屋は雨音に満たされた。

 薄暗い静寂に、神崎川は蹲る。

『波』が、ない。恐ろしいくらいに静かだ。朝のこない夜の海に放り出された自分は、涙も出ないくらいに脆弱で、救いようのないくらいに無力だった。


 ホテルの電話が鳴ったのはそれから程なくしてからだった。

 電話に出るのも正直億劫だったが、仕事関係でもいけないと思いなおし、気だるく鬱という重い泥沼に囚われた体を引きずり、受話器を取った。

「はい?」

「あぁ。烏丸だけど、明日予定はあるか?」

 出るなり唐突な切り口の相手に、神崎川は多少訝しながら答える。

「いえ、別に」

 受話器の向こうで、安堵の笑みが零れるのが聞こえた。

「あす、グランドキャニオンの観光を予約してたんだけどさ。うちの嫁さんが体調崩して、キャンセルするのももったいないからさ、一緒に行かないか?」

 グランドキャニオン。今いる場所から確かにそう遠くない。興味なくもなかったが……。

「俺が、ですか?」

「お前に電話してるんだけど?」

 打てば弾き返すような軽妙な返答。まぁ、ここにいて緋奈に押し掛けられても面倒だ。上司の申し出に理由もなしに断るのは馬鹿だ。

「わかりました。お付き合いしますよ」

 自分を包む雨音の世界をもう一度振り返り神崎川は、半ば投げやりな気持ちでそう返事したのだった。

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