愛という名の暴力 情という名の束縛 2
映画製作においてスタッフが大量に必要な事は、映画作りを知らない人間でもなんとなく知っている事だ。
だが、意外に監督といっても、映画監督の他にも撮影監督、音楽監督などが別にいるのはあまり知られていない。大きな映画賞ともなれば各部門に賞が設置されているので省くとして、一般的に映画作りで常にスポットライトを浴びるのは総指揮をとる監督と、プロデューサーそして役者くらいだ。他の多くは地味な裏方で、カメラの前どころかエンドロール以外に名前が挙がる事はあまりない。
今回のロケハンの中心になっている撮影監督の烏丸もそんな人間の一人だった。
「お疲れ〜」
その烏丸の声に、神崎川は応えるように頭を下げる。
神崎川は今回の映画では彼の下についていた。まだこの世界に入って二年目。何社からかのバックアップがあるとはいえ、自由度を優先してあえてどこの正社員にもならずに契約という形をとっている今、下積みや付き合いも重要なものであると心得ていた。しかも、自分は専門学校出身でも美術大学出身でもない。大学の頃から現場の仕事をかじっていたとはいえ、そういった学校を通過してきている人間との差は否めなかった。
そういう事情があって、自分を気に入ってくれている映画会社を通じ、このロケハンが来る半年前にアメリカンに入りこちらで映像専門の学校に入り勉強のし直しをしていた。留学の申し出は向こうからあったし、費用も学費は出してくれるという話に乗らない手はなく、ロケハンのスタッフが来てからは、現場と学校の往復という忙しい日々だった。
「どう? 疲れてない?」
気さくな烏丸は、日に焼けた顔で自分より背の高い神崎川を制作ノートで軽く叩いた。
神崎川は「いえ」と短く答え「正直、学校よりはここの方が居心地はいいですよ」と冗談半分で答えた。
烏丸は眼鏡の奥の目を細めると
「今日は時間ある? よかったら一杯どうかな?」
「いただきます」
神崎川の返事に気をさらに良くした烏丸は、その年齢の割に派手なシャツから煙草を取り出して
「いい店しってるんだ」
と先導するように先を歩いた。
烏丸が連れて来たのは意外にも日本料理の店だった。顔なじみらしく、外国人のウェイターになれた様子で注文していく。
「本物じゃないけどさ。俺はこういったまがい物の方が好きだから」
そういう烏丸は『映画は人類が作った最高傑作の偽物』というのが持論の変わった所があり、神崎川はそう言うところは好きだった。
グラスを合わせ、ビールを飲み干す。
「明日からちょっと遠征だけど、その学校の方は大丈夫なのか?」
「ええ。問題ありませんよ。なんか……半分素人みたいなやつを使ってくださって、逆に申し訳ないくらいです」
「いや、実のところ、うちが君を欲しがっている理由は知識より君の感性だからね。上が学校にやるのは、俺は無意味というか、その時間が勿体ない気すらしてるよ」
烏丸はそう言うと、あっという間に空いたグラスのお代りを注文した。神崎川は彼の言葉がお世辞でも褒め言葉でもないのを分かっているから、敢えて謙遜はしないで、ただ黙って微笑む。
「ま、俺も初め、王子さんから君を頼まれた時はカチンときたのは来たけどね。だって、君、国立大の商学部だろ? 関係ないじゃんってね」
「確かに」
「でも君の作品を何点か見た後に、会社の連中が噂していたのに納得したよ。だから、今回一緒に仕事で来て嬉しいくらいさ」
「恐縮します」
烏丸の言葉に苦笑いし、神崎川は自分のグラスを傾けた。
実際、まだまだ自分の力不足は感じている。こんな言葉を何年もプロの現場でやって来た人間から言われるほどでもないのも知っている。過小評価も過大評価も自分にしないのが、足元を救われない予防策の一つと身にしみているから、神崎川はこういった讃辞には言葉少なに交わすことを常としていた。
烏丸はそんな神崎川に「お前、老けてるよな〜」とこぼすと、彼の好きなまがい物の日本料理に手を伸ばした。
日本ではまずお目にかかれないようなエキセントリックな寿司だ。
「でもさ、お前の勘、先月から急にさらに冴えだしたな。やっぱ、奥さんのおかげか?」
烏丸の言葉に神崎川は照れ笑いの仮面をつける。そう、紅がアメリカに来たのはつい先月の事だ。あの生きているのか、生かされているのか、よくわからない生き物のために渡米が遅れたのだ。
一緒に渡米できなかったのは自身にとっては不本意で、紅にはそれをどこかに預けられないのか迫ったが、どんな手段で訴えてもそこから離れる事は頑として拒んだ。だから、渡米後は新しい生活や世界に溶け込むのがどんなに順調でも、なんとなく波に乗れないでいた。
ストレスは人知れずたまる一方で、映画会社のスタッフとして出会った通訳の今津と関係をもつようになってから若干の息抜きにはなったが、それは煙草以下の効果しかなく、紅が来てようやく調子を取り戻したという感じだ。
「まぁ、それは否定しませんよ」
そう、やっぱり自分には彼女が必要なのだ。どんな酒でも、どんな煙草でも、どんな女でも、彼女ほど自分の『波』を鎮めてくれる存在はない。あの、忌まわしい生き物さえ処分できれば、どんなにいいだろうか? 正直、蒼汰が思いのほか早くに紅を諦めた今、産ませたことを後悔していた。
「でも、意外だったな」
烏丸の言葉に顔を上げる。
彼は悪意を見せないその顔で、神崎川を見抜くように見つめて、まるで罪を見抜いた超能力者の様な口調でこう言った。
「君みたいな人間嫌いが結婚しているなんてね」
思わずハタと止めてしまった手に、しまったと心の中で舌打ちをした時はもう遅かった。
烏丸は嬉しそうに目を細め、そんな神崎川の反応を楽しんでいるようだ。
「当たりなんだね」
確認する声は答えを求めてはいない。塚口をさらに手強くしたような相手だったのか、と今更気が付く自分に、神崎川は自嘲の笑みを零し、肯定も否定もしはしなかった。
「君の映像を初めて見た時、まがい物の中にリアルが紛れ込んでいるような異物感がしたんだ。それが、君の最大の魅力だって言うのもすぐわかった。だけど……なんていうかな」
烏丸はしっくりとくる言葉を探せないもどかしさに、唸ると
「そう。人間好きなら目を背けたくなるようなものまで映しこんでいる。そんな感じかな。皆、結局は人が好きだからね、知らず知らずのうちに、汚い部分を避けてしまうんだ。でなけりゃ、そこばかりを強調したものを撮るか。でも、君はちがった。そこら辺が良くも悪くも、冷酷なくらいにリアルなんだ」
そう、独り言のように早口でまくし立てる。
神崎川は今まで評価はいくつも受けてきたが、こういった批評は初めて耳にするものだったので、本質を突かれる苦々しさはあったが、それ以上にゾクゾクする好奇心に先を聞き続ける事を選ばされていた。
「で、人間嫌いですか」
「そう。君は人間が嫌いなはずだ。人間を撮る映画人には珍しくね」
烏丸はそう断言すると、三杯目のジョッキに手をかける。
「でも興味あるなぁ。君の奥さん。こんなに人間が嫌いな奴が、結婚なんてね」
随分失礼な言い方のなのは、きっと酔いのせいではなく本心だ。
神崎川は肩をすくめて
「学生からの付き合いですよ」
とだけ答えた。
烏丸は眼鏡をずり上げそんな彼を覗き込む。
「君の奥さんは、君のどこに惹かれたんだろうね? 女性を大切にするタイプにも見えないが」
「毒吐きますね。もしかして、俺の事嫌いなんですか?」
「いや、気に入ってるから知りたいんだよ。あ、ついでだけど、緋奈ちゃん、俺も狙ってたんだぞ。そういう意味では嫌いかな」
それも知っているのか。神崎川は苦笑して
「烏丸さんにも奥さんいるでしょう」
と無意味な事を口にした。烏丸は軽く笑い、軽口を止めてまた神崎川を覗き込んだ。
「で? どこに惹かれたんだと思う?」
この話題からそれるつもりはないらしい。神崎川は腕を組み、考えるふりをする。
紅が自分についてくる理由。暴力を受けても、無下にされても、蒼汰のような男の存在があっても、自分についてくる理由。それは……。
「言葉を憚らずに言わせていただければ、彼女は俺の才能に惚れてるんだと思いますよ」
そう答えた。そうだ、彼女自身言っていた。自分の才能に惚れているんだと。自分の作品を見届けたいのだと。だから、これが正解のはずだ。そして、それは神崎川は彼女を信頼し彼女といると安心する最大の理由でもあった。
しかし、烏丸は納得いかない様子で首を傾げると、何度か瞬きした。
「じゃ、何か? 君の奥さんは、いちいち君の作品や仕事をチェックしているっていうのか?」
「え?」
「だってそうだろ? 才能に惚れるって事は、それが発揮されている成果を見たいはずだ。違うのか?」
考えたこともなかった。軽いショックを受けて神崎川の思考が止まる。
紅が自分の作品や仕事に関して興味を示した事は、そうやって言われてみれば一度もなかった。何の口出しもしないし、質問もしてこない。確かに、変だ。どういう事だ?
心臓が奇妙な音を立てていた。
紅が惚れているのは才能じゃない? 自分の才能を認めて、それを支えるためについて来ているんじゃない? じゃ、何のために?
「どうした、大丈夫か? 顔が真っ青だぞ」
烏丸の声に、神崎川は顔を上げた。
気分が悪い。気持ちが悪い。言いようもない不安が得体のしれないもののように体中に広がっていくようだ。
「すみません。俺、今日は帰ります」
「あ、あぁ。そうした方が良さそうだな」
心配げに見上げる烏丸に頭を下げると、神崎川は生まれて初めて経験するような浮遊感を感じながら店を出た。
いや、初めてではない。これは母親に背を向けられた、あの時の感覚によく似ている。
何なんだ
何なんだ
何なんだ
紅が急に全く知らない人間に変わっていく。
あれは誰だ?
あれは何者だ?
ふと人の気配を感じて顔を上げた。真っ黒なショーウィンドぅに映る自分の影だ。それはまるで、生気のない死人のようで……。
紅は自分の才能を必要としていないんじゃないか?
その疑惑の影は、この死人を捉え底の見えない闇に引きずり込もうとしていた。
気がつけば、家の玄関を壊さんばかりに乱暴に壁に叩きつけていた。
「紅!」
叫ぶ声は自分のものだ。奇妙な鼓動はうねりとなって、いつもの『波』なんかと比べ物にならないような何かに形を変えようとしていた。
「紅!」
もう一度暗闇に向かって叫び、ドアを力任せに後ろ手に閉める。奥の方から小さな足音がして、神崎川はその方向に足早に進んだ。
リビングに入った瞬間、目が捉えるよりも早く本能が彼女を捕まえる。
「翠?!」
怯えと驚きに立ちすくむその細い腕を、神崎川は感情のままに握りしめた。
「どうしてすぐに出てこない!」
「ごめんなさい。少しウトウトしていて」
「下手な言い訳するな」
腕を掴んで彼女が避けられない状態のまま、思いっきり拳を振り上げる。肉を裂くような感触がして、彼女の瞼の上が切れた。鮮血が飛び散り、神崎川の眼に真っ赤な景色が広がった。
しかし、いつもなら殴るほどに穏やかになる心は、なぜか一層ささくれ、苛立ちを増幅させていく。
この女の企みは何だ?
何を図ろうとしている?
目的は一体?
「翠?」
目に入る血で霞むのか、紅は顔を上げると目を細めて彼の顔を見上げた。いつもいつも、何があっても自分を責めないその眼。
「なぁお前は、どうして……」
いいかけて口を噤んだ。同じ質問は同じ答えしかきっと導かない。
神崎川はなおも自分を責め立てる焦燥感に苛立ちながら、その眼を凝視した。不可解な存在は、不安と嫌悪の対象でしかない。紅はついさっきまで、その全く対照の位置にいる存在のはずだったのに……。
本当に、彼女がここにいる理由は、自分の才能じゃないとするなら、自分は彼女をどう理解すればいい?
「紅」
何かを恐れる自分が口を開かせる。どこかで自分に背を向けた母親の影がちらつき、声を取り上げようとしている。
神崎川は一度、目を閉じると、自分の中の闇に目を凝らし、それからゆっくりともう一度紅を見た。
「もし、俺が映画をやめたら、どうする?」
「え?」
驚きに見開かれる目。一瞬、心の闇は安堵の溜息をつきかける。そうだろ? お前は俺の才能に惚れている。才能がなければ俺に意味はない。意味があるから傍にいる。愛なんて錯覚を見られる。自分にとって意味のあるものだから、得があるから、だから傍にいるんだろう? 人間なんてそんなもの。自分にとって不利益だったり無意味なものは愛せない。
「翠」
紅は静かに目を伏せると、そっとそんな神崎川の深い闇を包み込むように、優しく優しく彼を抱きしめた。
そして、彼の予想もしない言葉を、そっと神聖な誓いをするように口にした。
「私は何にも変わらないわ。翠。あなたが映画から離れても」
「え」
愕然とする。底ない穴がぽっかり足もとに空き、突き落されたような感覚だ。
神崎川は思わずその、いいようもない恐怖に彼女を突き飛ばし後ずさりした。
「お前、何言って……。俺から映画をとったら、俺の意味はないだろうが?」
生まれてきた意味はあるの?
生まれてきた価値はあるの?
誰かが闇の向こうから囁く
そう…
無いんだ
無いんだ
意味も価値もただ生まれただけじゃ
だって生まれたそれだけでは
自分は誰にも求められなかったじゃないか
そんな自分が許せなかったから
意味を作ろうとしたんじゃない
そう
利用価値のない命なんて
何の意味も価値もない
「そうだろ?」
神崎川は、その身の痛みに顔をしかめゆっくりと立ち上がる紅に、祈るような気持ちで問いかけた。
そうじゃなきゃお前は何故、ここにいる? 説明がつかないじゃないか。
理由があるから、人は人を好きになるんだろう? この道理が狂えば、狂ってしまったら……世界が崩壊してしまう!
しかし穏やかな真っ赤に染まった瞳は、哀しいほどに微塵の躊躇いも見せずにその祈りを拒絶した。
「いいえ」
紅は立ち上ると、きっぱりとそのか細い声で言い切る。
それは、まるで死を宣告する人間以外の何かに見えて、神崎川は言葉を無くした。そんな彼に、彼女は柔らかな笑みを浮かべて見せる。
「少なくとも私にとっては意味はあるわ。貴方がここにいて生きている。それだけで……」
そして、再び彼に向って両手を差し伸べた。
「人を好きになるのに、その人がその人だって言う以外の理由なんていらないのよ」
強烈な痛みが胸を貫いた。
理解したいと叫ぶ気持ちと、受け入れてはいけないと喘ぐ心がせめぎ合い、混乱を招く。
どういう事だ?
紅はそんな、理由もなしに自分を?
「翠!」
無意識に逃げ出していた。
心が変化していく痛みに、頭がおかしくなりそうだ。
闇はいつも心の底から自分を包んでいて、それは時折訪れる『波』と引き換えに、この世への揺るぎのない嫌悪で自分を守ってくれていたのに、それが、引きはがされようとしているように思えた。
握りしめたままの拳はまだ彼女の温もりと血を握りしめていて、神崎川は力が尽きて走れなくなるまで、何かから逃れようと闇夜の街を疾走した。