愛という名の暴力 情という名の束縛 1
痛みを認識するには幾つかの手続きが必要だと経験で覚えたのはいつからだろう? その手続きが一つでも欠ければ、実は痛みは軽減し時には感じなくもできる。紅は痛みへの最終的な対処方法として、痛みを認識しない。そういう方法をとっていた。つまり頭で感じないのだ。
静かな夜。今生まれたばかりの腕の傷は、ただの痣であり、ただの出血だ。自分の体の表面を構成している細胞が傷つけられたにすぎない。
「出かけてくる。今日は帰らない」
耳に届いた声は穏やかだった。
紅は夫のその安らいだ顔を見上げると黙って頷いた。彼の向こうにある時計はとっくに夜中を指している。今から出かける場所なんて彼女の部屋くらいしかない。
紅はそれがわかるからといって、それを問いただすこともしないし、ましてやなじることなどしない。むしろ、肌を刺すような緊張感から解放されることに安堵する。
「いってらっしゃい」
「あぁ」
煙草をくわえて出て行く後ろ姿。それは安らぎが十分になった証拠だ。抱えきれないものをこうやって消化できれば、彼はまた刺激を求めに出て行く。その刺激が、彼の感性を磨くのに必要なものだってことも理解しているし、感性こそが彼のアイデンティティの基盤なのを知っている。だから彼がどこで何をしようと、自分は黙って見送り、また帰ってっきた彼を黙って受け入れる。
玄関が閉まる音を聞いて、ようやく立ち上がり傷の手当てをしに洗面所に行く。
鏡に映る自分の姿。乱れた髪に腫れた唇。青紫の瞼。乾ききった瞳。惨め?
「いいえ」
彼女に投げつけられた言葉を思い出し、紅は口元に笑みを浮かべた。
惨めとは思わない。これが自分の選んだ道なのだから。
ふと耳元で何かが光り、紅は薄暗いこの世界に唯一自分を照らしてくれるその、微かな光に手を伸ばした。
小さな小さなシンプルなデザインのピアス。いつか誰かに言われた言葉を思い出す。
「……」
このピアスを自分につけさせる人が自分を幸せにしてくれる。本当にそうだ。ここにはいない彼を想う時、少しだけ心が救われる。そしてまだ笑顔になれるのだ。
背中で機械のアラーム音がして紅は振り返った。慌てて洗面所を離れる。アラームは彩の、声を上げることのできない息子の呼ぶ声だ。
暗い子ども部屋に横たわる、小さな体に駆け寄るとアラームを切る。ベッドサイドに用意された道具を手に取り。慣れた手つきでその喉元に開いた管に吸引の細いチューブを通した。痰が引かれ、息子の呼吸が静まる。
僅かに苦しそうにしかめられていた子どもの顔に安らぎが戻り、紅はその寝顔をそっと撫でた。柔らかな温かさが掌に伝わる。
声一つ上げられない、この先手をつないで一緒に歩くことも、この子が元気に走り回る姿も見る事は永遠にない。それでも……
「彩」
紅はこみ上げる愛おしさをその名に乗せると、その存在を抱きしめるように手を握りしめた。
昔からそうだ、自分の興味がわく男には大抵彼女や奥さんがいる。出会うタイミングが悪いのだ、もっと早くに出会っていれば……そう嘆くような可愛い時期もあった。
でも、ある時に気がついた。
そうじゃない。自分は人のモノを奪い取るのが好きなのだ。そうすることで、奪われた側の人間より自分は優れている。そういった優越感を感じるのがたまらないのだ。それに、人のモノは単純に良質のものに見えるという理由もあった。加えて、才能にあふれていたり地位や金を手に入れている男は、一人の女にしがみつかない事が多く、取り入りやすい。簡単なのだ。
しがみつかない。つまり自分に自信があるって事。そんな男どもを夢中にさせ、彼らの人生を狂わせた挙句に切り捨てる。その快感もまた、一度味わえば病みつきになる麻薬だった。
だから今、隣で煙草を吸う男も、そういったゲームの一貫だと思っていた。
今津緋奈はこれまでに感じたことのない苛立ちを感じながら、その男、神崎川の肩に甘えるようにもたれかかった。
「ね、ここに来るの、奥さんには?」
神崎川はそんな緋奈に一瞥もくれず、まるで彼女と話すより虚空に灰色の煙を散らすことの方が重要だとでもいうような様子で、面倒気に答える。
「言わなくても、あれは知っている」
「そう」
そういうのが一番ムカついた。彼は昼間に自分が彼の妻に会いに行ったのも知っている。そんな行動する事自体、自分のプライドを深く傷つけたのに、そんな捨て身の行動も、この男の眉ひとつ動かせはしなかった。それに……。
昼間のあの女、神崎川の妻、紅の顔を思い出して、こみ上げる不快感に緋奈は唇の端を噛んだ。
玄関先で細く怪我だらけの彼女を見た時に、はじめて神崎川が暴力をふるうような男なのだと知った。自分の知る彼は、どこにいても人を惹きつけ、自信に堂々とした佇まい。かといって不遜ではなく、上の者にはうまく立ち回る賢さもある。それに自分が携わる仕事においても、彼の実力と才能は、この年代に限定するならこれまで会ったどの男より抜きんでていた。
そんな男が女に暴力。結びつけるのが俄かに困難で、もしかしたら紅の傷を見るまでは本人から聞いていても信じられなかったかもしれない。
自分を見た紅は、自分が誰なのかをすぐに察したようで、すぐに部屋に通した。
印象は、良く言えば物静かな古風な日本女性。悪く言えば幽霊の様な女だ。身なりは綺麗だったが、その顔にある痣のせいかすぐには彼女の造形的な美しさには気付けなかった。でも、じっとその顔を見ていると、その傷と暗い表情を除けばかなりの美人であり、それは不覚ながらもこちらが嫉妬するほどなのがわかった。
「別れてください。彼と」
彼女が用意した珈琲の香りが漂う部屋に、緋奈の声が響いたのは彼女の細い体が向かいのソファに落ち着いた時だった。
紅はそんな自分の申し出に驚くどころか、怒りもせずにただ困惑と憐みの様な笑みを浮かべた。
「翠がそれを望んでいるんですか?」
「ええ」
嘘だ。神崎川はそんな事口にしない。むしろ、そんな事をこちらが言おうものなら、すっぱり切り捨てそうな雰囲気すらある。その嘘に、紅は子どもの悪戯を眺めるような笑みで穏やかに言った。
「それが本当なら、そうします。でも、それはないんですよ。今津さん」
自分の胸に激しい炎が一気に灯り、身を焦がさんばかりの勢いで猛り狂うのを感じた。それは怒りであり、羞恥心であった。
見透かされている。しかも余裕をもってこの女は、自分をさげずんでいるのだ。
それは今まで自分がして来たことであり、されたことのない屈辱だった。常に勝者であった自分の自尊心が声を荒げさせる。
「彼は、ほとんど毎晩私の部屋に来ているわ」
「ええ」
「彼は私なしじゃいられないのよ」
「そうですか」
「悔しくないの? そんな暴力まで振るわれて、他の女に走られて」
いつの間にか立ちあがっていた。睨み殺すことができるならそうできそうなほどの目で彼女を見るが、紅はそんな緋奈に対して一向に表情を変えようとはしなかった。
「惨めじゃないの?」
まるで、何にもない壁に向かって吠えているかのような虚しさだ。緋奈は呼吸を整えるように、何度か深い息をつくと、この彫刻の様な女の言葉を待った。沈黙。それを破ったのは聞きなれないアラーム音だった。
それまで何の表情も浮かべなかった女の顔に焦りが浮かぶ。
「ごめんなさい」
女は気もそぞろの様子で立ち上がると、部屋を出て行ってしまった。
「?」
怒りを受け流された気分に眉をしかめ、緋奈は無断でその後を追う。その先に見たものは……。
「ね…」
緋奈は胸くその悪さを感じ、誤魔化すように神崎川にすり寄り、自分の指をその肌に這わせた。今、溺れたばかりの快感を再びその体に蘇らせようと、彼の首筋に誘うように唇をあてる。
「また?」
「そう、また」
面倒くさがられるのも心外だが、あの嫌な感覚を拭い去りたい気持ちの方がずっと強い。
「ね? いいでしょ?」
気乗りしない相手の唇を強引に奪う。相手の欲望を引きずり出すうように舌をからめ、快楽を貪る事に勤勉な指が甘い誘惑を唆す。やがて応え始めた相手の体温は、すぐに優越感を満たす快感に変わった。そしてやっと薄気味の悪い敗北感を追いやったのだ。
緋奈はようやくその艶めかしい唇にいつもの笑みを湛える。これが自分なのだ。そう安心するふりをして、自分が不毛な闇に堕ちて行くのを心の隅で怯えながら。