廻る季節〜桃〜
三宮教授に紹介されたバイトは翻訳家の書庫整理だった。
きけば青も頼まれていたらしく、あの日、三宮が彼の携帯で電話してきた理由がわかった気がした。
指定された場所は隣町。そこには見上げるほどの古い洋風の屋敷が堂々とした構えで佇んでいた。
でも、桃にとってそれより印象が強かったのは、その館の主の方だ。
翻訳家の岡本瑠璃。彼女を始め見た時、桃はその大人の女性の魅力に一瞬釘づけになった。
決して着飾っているわけではない。むしろ化粧はしていないし、服装もタンクトップに短パンのラフな格好だ。それでも全く崩れていない体のラインはモデルの様だったし、唯一その年齢を感じさせる口元も笑えばかえって色気があった。
バイトそのものは真夏の屋根裏から大量の本を庭に運び出し、虫干しに並べ、掃除し、再び整理して納めるといったかなりの重労働だったが、桃はいつしかいつも笑顔の彼女に会うのが楽しみになっていて、体の疲れほどの苦痛は感じていなかった。
「ねぇ、桃ちゃん」
作業はいつも午前中。終わると瑠璃が用意してくれる昼食を食べて帰るのだが、その日食べ終わってから桃は縁側に足を放り出してぼんやりしていた。
背中からかけられた声に桃は振り返る。
「胡桃ちゃん」
その声の主はまだ小学生の瑠璃の娘だ。初めはちょっととっつきにくかったが、作業を手伝ってもらううちに色々話すようになり、五日経った今ではすっかりなついてくれていた。
「青は?」
「ん、瑠璃さんがいらない本を処分したいからって、古本屋に車出してるよ」
「そっか」
そういうと心なしかホッとした表情で隣に座った。
彼女が手にするグラスの氷が昼下がりの日差しを反射して、きらきらと眩く綺麗だ。風鈴が風を歌い、通り過ぎる心地良さに二人で火照った体を冷ます。
「ね、桃ちゃんって青の彼女なんでしょ?」
そんな沈黙を、まるで秘密話をするような胡桃の小さな声が揺らした。
「ん、まぁ」
桃は照れ半分、気まずさ半分で答える。胡桃はそんな様子に気が付いていない様子で、手元のグラスを弄びながら
「いいなぁ。青ってカッコいいもん」
とまるで芸能人の話でもするような口調で言った。
桃は苦笑しながら
「確かにね」
と頷くと
「のろけは止めてよね」
胡桃は話を振ったくせに生意気な顔で口を尖らせた。
「で、実際どんなの? 男の子と付き合うって。楽しい?」
興味ある年頃らしい。桃は返答に困る。楽しい……正直、付き合ってからあんまり感じた事がない。幸せだとか嬉しいとかはある。でも、同じくらい不安とか寂しさも確かにあって……。
「胡桃ちゃんのパパとママは?」
結局返答をはぐらかしてしまった。胡桃は困ったような顔をして
「あの人達変なのよ。すっごく仲いいの。もう、娘の私も見てらんないくらいね。でも離婚しちゃった」
と肩をすくめる。少女が口にした『離婚』のその言葉が、あまりにもいままで抱いていたイメージとかけ離れた軽さと明るさを持っている事に、桃は戸惑いを覚えた。
「胡桃ちゃんは、嫌じゃなかったの? その……」
「離婚? 全然」
あっけらかんとして答えると、胡桃はグラスの氷をカラカラと鳴らした。
「毎日喧嘩してる時の方が嫌だった。二人ともイライラカリカリしちゃってね。こっちにしたら、離婚してくれてせいせいしたくらいよ」
胡桃は当時の事を思い出したらしく、頬を膨らませる。
「で、離婚した途端にすっごくラブラブになっちゃって。ね? 変な人達でしょ?」
まるで首肯しなければ噛みつかんばかりの顔で尋ねる胡桃に、桃はやや気圧されながら頷いた。でも、胡桃の言う通りだ。そんなに仲がいいのなら、どうして?
自分と青に重ねてみる。確かに付き合う前の方が、楽だった。その時はまだ本心で向き合えていたような気がする。それが付き合い始めて、その関係を壊すのが怖くて言いたいことが言えなくなった。一緒に住み始めたり、指輪をしたり形が出来上がっていくほどに、失う怖さに怯えるようになった。青に嫌われないように、青の邪魔にならないように。彼女ならそうしないといけないと思ったし、もしできなければすぐにでもようやく手に入れたこの関係が崩壊してしまう気がして……。
この間の朝の事を思い出す。青に抱かれている間、本当に自分は幸せだったのか? それで良かったのか?
「結局ね、幸せなんて形じゃないのかなってパパとママを見てたら思っちゃう」
胡桃はそんな事をいってグラスの中の麦茶を飲みほした。そして
「あ〜でも、彼氏ほしいよ〜」
と無邪気な事を叫ぶ。桃はこんな胡桃を羨ましく思った。
自分だって、ついこの間までは彼女と同じような感じだったのに、いつの間に変わってしまったのだろう。
「幸せの形か」
ふと、視線を庭にやると綺麗に整列した絵本達が日陰からこちらを見ていた。
可愛く綺麗な絵柄のフェアリーテイル。でも、その本全てのエンディングがハッピーエンドとは限らない。
自分の絵本はどうだろう?
桃は勢いをつけ庭に飛び降りると、その陰干し様の影に入った。
古い本の香りと夏のカラッとした空気が図書館の書庫を思い出させた。表紙はみんな英語で絵柄だけ見ても、その内容は分からない。
「桃ちゃん?」
不思議そうな胡桃の声を背に、桃は一冊の絵本に手を伸ばした。
この本の結末が、自分のこの先を占う。そんな気がして。
桃はその手の中の表紙を見つめると、そこに描かれている小さな女の子の目をじっと見つめたのだった。