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Apollo  作者: ゆいまる
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片想い 4

 実家に着いたのは3時を少し回った頃だった。

 母親はその日は日勤で、できるだけ早く帰ると言っていたから、まだ家には誰もいない。

 半年といわず、たった数か月前まで生まれてからずっと住んでいた場所なのに、妙に懐かしく感じて、疲れていたのもあり、蒼汰は居間に着くなり荷物を放り出してソファに倒れ込んだ。

 机の上のリモコンでエアコンをつけると、古いその家電は軋む音を立てながら、やや黴臭い冷風で長旅の労をねぎらった。

 体中の力を抜くように大きく息をつくと、ごろりと仰向けになる。

 いきなり濃いキャラに会ってもうたな、と心の中で呟くと目を閉じた。

 あの彼女が退学後、一度だけ出くわした時に彼女の隣にいた男の顔を思い出す。チャラチャラした感じの悪い男だった。

 自分の事を知っていたようで「これが茜の言う映画オタク?」と胸くその悪い事を言われたのを覚えている。

 その時は、相手をするのも面倒だったので適当にあしらったが、その男が元とはいえ、自分の好きだった女性に子どもを産ませた癖にを捨てたというのは、もっと胸くそ悪かった。

 かといって……。

 茜のすがるような目を今度は思い出す。

 今の自分には彼女に何にもしてやれない。彼女の事を嫌いではないが、気持ちもない。 純粋に応援したりは出来はするだろうけど、あのすがる目が期待するような事は何にもしてやれないのは明白だった。

 だから、連絡は来てほしくなかった。

 他のツレとの約束や教習所、バイトの予定を先に詰めてしまおう。そう思いたって携帯に手を伸ばした時だった。

 メールの受信を知らせる音が掌の中で鳴る。

 俄かに顔が強張り、その着信を示す光の点滅を睨むと、覚悟を決めるように息を強く吐き開いた。

 その新着メールに蒼汰は胸をなで下ろす。

「なんや」

 メールは藍からだった。

 夏休みに入ってすぐに実家に戻った彼女からは、たびたびメールが来る。 友達とプールに行ったとか、地元の高校が高校野球で勝ったとか、たいていたわいもない事だ。このメールも、今日は友人とカラオケに行って来るというものだった。

 桃にしろ、同じようなメールをしてくる。桃は兵庫でここと割に近いから、この帰省中に時間が合えば大阪あたりで一度会う予定だ。

 女子はメール好きだなと返信を打ちながら、対照的に一向にメールを送って来ない青を思い出して苦笑した。

 送信し終わり、ふとアドレスボタンに目をやる。

 そしてあの線の細い肩が脳裏に浮かんだ。

 サークルのメンバーのアドレスは全部入れてあるので、当然副部長の中津紅のも入ってはいる。メールをしようとおもえば、いや声を聞こうと思えばすぐにだってできるのだ。

 彼女は残って、神崎川の手伝いをすると言っていた。

 今もあの町にいるのだろう。神崎川と一緒に……。

 サークルではもちろん、それ以外でも常に神崎川の影のように寄り添う彼女の姿は、思い出しただけで蒼汰の心の真ん中を抉った。

 見ているだけでも幸せだろう? あんなに彼女自身が神崎川の傍に好きでいるのだから、その幸せを見ているだけで満足しないといけないんだ。

 彼女のアドレスを出したがる手を睨み、蒼汰は自身にそれを言い聞かせると携帯をパタンと閉じた。



「こらっ! 起きなさい!」

 顔面に何かが当たる感覚がし、誰かにたたき起こされた。

 まだ半分夢の中の頭を無理やりに現実へと引っ張り出す、その声に、蒼汰が仲間といる時よりやや子どもの様な顔になって気だるそうに身を起こした。

「なんや。長旅で疲れてる息子に何すんねんや」

「アホか。子どものくせになにが『疲れてる』や。そんな言葉は立派にお勤めできるようになってから言いぃ」

 そう、一つ言えば倍返ってくる小気味よい母親の声に、蒼汰は浮かべる表情とは裏腹に実家に帰って来たのだな、と内心ホッとした。

 眠い目をこじ開けて時計を見上げる。もう7時だ。4時間近くも眠っていたのか。

「こんなところで寝たら風邪ひくやろ? 戻って来てわざわざ風邪ひかれても、母さん、看病せぇへんからね」

「それが看護師の言うことか」

 蒼汰はまるで若い娘の様に舌を出して台所にひっこむ母親に軽口を叩きながら小さく笑った。

 そう言えば、入学式のときに一本電話をして以来、今日帰るという連絡をするまでは全く音信不通にしてしまっていた。

 ぐるりと部屋を見回す。

 子どもの頃から住んでいるこのマンションも、もう随分年季が入ってきている。

 決して大きくはないが、母親一人だと、何かと寂しかったのではないか? 自分は自分の新生活に夢中だったが、一人にした母親に不義理だったのではないだろうか?

 そう言う気持ちが少し咎めて、蒼汰は追いかけるように台所に向かった。

「なによ? お土産でもあんの?」

「あ? あぁ。蕎麦、買ぅてきた」

「せやったら、明日の昼はそれでええな」

 何気なく夕食の準備をする母親の背中を眺める。

 ……こんなに小さかっただろうか。

 蒼汰はその様子を眺めながら、ひそかな驚きに次の言葉に詰まった。

 物心ついた時から、蒼汰には父親というものがいなかった。

 母親からは死んだと聞かされていたし、親戚もみんなそう言っていたので、特に疑いもしなかった。

 死因を知ろうとは思わなかったし、どんな男だったのかを知りたいとも特に思わなかった。

 度々友達には「変わっている、気にならないのか?」と言われたが、子どもながらに訊くべきことじゃないのだろうとどこか察していたし、知った所で何にも変わらない。むしろ、その質問で母親の顔を曇らせてしまうんじゃないか、そんな懸念の方が強くて、そこを押してまでの興味はなかった。

 それ以上に……。

 食卓の椅子に座ると、だまって母親が冷たい麦茶を冷蔵庫から出してグラスと一緒に自分の前に置いた。

「ありがとう」

 条件反射のように呟いて自分でそれをグラスに流し込む。

 母親は「それくらい自分でやりなさい。しょうのない子」とでも言わんばかりの顔をして、再び背を向けた。

 そう、父親の不在が気にならなかったのは、この弱音を決して吐かない、いつも明るく笑っている母親に、支えられていたのかもしれないな。蒼汰は家を出てそれに初めて気が付いた。

 母子二人の生活に寂しさを感じた事も、不自由を感じた事もない。

 小学校の高学年になる頃には夜勤も始めたから、一人の夜もあったが、その夜は蒼汰にとっては特別な時間だった。

 どうしてその方法を選んだのか理由は分からないが、母は夜勤の度に色々な映画をレンタルショップから借りて来て置いておいてくれた。衛星放送が始まった時は、周囲の誰より早くそれを導入した。

 夜一人になる自分に気を使っての事かもしれないが、それは映画好きな自分の基盤になった事は疑いようもなく、映画という世界にひき合わせてくれた事に感謝している。

 そうして自分を育ててくれた母親に、頭があげられるはずはない。

 でも、こうやって小さく見えた背中にそれまでは気づく事のなかった疲労の影を見つけた時、何とも言えない気持ちになった。

「なぁ仕事、いつまで続けんねん。せめて夜勤止めろや。そんなおばはんなってまで、夜勤することないやろ?」

「アホ言いなさんな。ようやく、あんたがおらんようになって、思いっきり仕事が出来るんやないの」

 そういって笑い飛ばす。この母親に思い切って楽しろとまだ言ってやれない自分の不甲斐なさに苦笑しながら、麦茶に口をつけた。

「せやったら、男でも作れば?」

「はぁ?」

 母親は唐突な、とでも言わんばかりの顔で、目を見開き息子を見つめる。

「なんや。そないに変なことか? ええやん。親父が死んでめっちゃ立つんやし。彼氏くらい」

「は……あはははは」

 母親は憮然とする蒼汰に吹き出すと、フライ返しを手にしたまま腹を抱えて笑いだした。気を使ったつもりだった蒼汰は眉を寄せる。

 自分がいなくなって寂しいだろうし、これまでも自分の為に一人を貫いてきたと多少の罪悪感があったから、もういいよ、と言ってやったつもりだったのだ。

 母親はそんな息子のまだ幼い発想に涙をぬぐいながら、笑みをなんとか押し込むと

「あんたがそんなん言うようになるなんてなぁ。母さんの事は気にせんでええよ」

「何や、ほんまに男おるんか?」

 それはそれで、ちょっと意外というか、正直嫌だ。

 しかし、母親は首を横に振り

「母さんは友達もおるし、仕事もある。案外忙しいねん。それにな」

 母親は息子の部屋の方に視線を移した。

 息子が出て行ってからも、掃除を欠かしたことのないその部屋は、居なくなった時のままだ。

「あんたが元気でやっとってくれたら、それでええねん」

 そう口にしてから、気恥ずかしくなったのか黙って再び料理の手を動かし始めた。

 父親は死んだのではない。それは知っていた。

 確証があるわけじゃない。

 そう言われた事に疑問も感じてなかったわけだったので、探ったり調べたわけでもない。

 ただ一度だけ、中学の頃だったか、母親と町を歩いている時にばったりとある親子に出くわした事がある。

 その小さな女の子の手を引く男と目が合った母親の笑顔が、珍しく波を引くように消え、気づいた男も幼い子どもの手を引きながら、ぎこちなく挨拶を交わしたのを覚えている。

 その時の男が自分を見た眼の、何とも言えない悔恨と悲哀の色を忘れられない。

 直観は、その時も蒼汰に囁いた。

 そして、その勘はおそらくは外れていないだろうという事は、蒼汰自身良くわかっていた。

 母親は、本当に一人になって寂しくはないのだろうか?

「たまには電話するな」

 思わずついて出た言葉に、母親は苦笑する。

「ん」

 嬉しそうに目を細めて頷いてくれたから、蒼汰はそれ以上何かを言うのを止めた。

 しばらくして漂ってきた彼の好物の唐揚げの匂いは、優しい時間が今もここにあるのだと教えていた。



 結局、その日のうちには茜から連絡はなく、まるで暇な日を作ってはいけないかの様な気になっていた蒼汰は、友人達と約束し、バイトを決め、教習所の短期コースの申し込みの手はずまで整えた。

 眠りにつく前にはスケジュール帳にほぼ毎日何らかの予定が組まれるようになっており、僅かに胸をなで下ろす。

 さっきまで握りしめていた携帯に目をやり、たった一通の来るか来ないかわからないメールにビクついている自分に苦笑した。

 やはり、気にはなっているんだと。

 どこかの風鈴が夜風になっているのが遠くで聞える。

 寂しげで涼しげなその音は、この暑い夜に果しでどこまでの慰めになるのだろうか。

 それでも、夏になればこの頼りなげな音を聞きたくなる人の心理を、蒼汰は馬鹿にする気にはなれなかった。

 さっき、母親が置いて行った蚊取り線香の香りが、夏の記憶を鮮やかにする。

 今どき火も匂いもないものがあっても、この原始的でいて季節を告げるこの香りは残っていてほしい。きっと茜も自分に対して似たようなものなのだろうと思った。

 部屋の電気を消してから横になり、最後に桃へ大阪へはいつ一緒に行くかを尋ねるメールをしてから、ようやく訪れた心地よい眠りに風鈴と蚊取り線香の香りに包まれながら瞼を落とした。

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