静かの海 6
自分がどうなってしまったのか把握するまでに時間を要した。どこかに向かって歩いている。歩いているがどこを歩き、また目的地はどこなのかはよく分からない。頭の芯がしびれて、思考という動きを停止させている。ひとたび動き出せばどうしようもない何かが襲ってくるのを恐れ、脳がそれを懸命に拒んでいるらしい。
風景が反転する。
蒼汰は自分が喫茶店の窓際の席に座っているのに気がついた。
駅ビルの二階にあるこの珈琲専門店にくるのは二回目だ。そう、初めて来た日は、雪が降っていて、ここから見下ろす人々は足早にそして幸せそうに行き交っていた。
顔を上げる。そこにあった笑顔はもうここにはいない。これからも、ここには来ない。迫りくる感情をどうすればいいのだろう? 時に何の意味があるのだろう? 夢は醒めた時に何を与えてくれるのだろう?
ここには彼女はいない
ここには彼女はもう、いない。
蒼汰は自分の手の甲に落ちた涙を、まるでそれ自体が罪であるかのように睨みつけた。冷めたなんの香りも運ばない苦いだけの珈琲を唇の当てようとしても、心と離れ離れになった体はうまく機能しようとしない。震える指先が無機質な陶器を掠めるだけだ。
何も掴めない苛立ちに手を握りしめると、蒼汰は目を固く瞑った。
「なんでや」
最後の横顔が瞳に焼き付いていて離れない。
自分は、ただその細い肩を支えたかった。ただ、あの日握り返した小さな手を守りたかった。なのに……。
目的地のない宇宙はただの漆黒の闇だ。どんなに飛びあがっても、どこにも行く宛てもない。果ては闇を彷徨うか、地に墜ちるかのどちらかしかない。
月を失った今、自分はどこを目的地にすればいいのだろう。
「何にもあらへん」
呟いた自分の声にドキリとする。彼女がいないと何にも出来ない。そんな自分に今、気が付く。そして、それは……。
「は、ははっ」
蒼汰の口元に力な自嘲が浮かんだ。
支えたい? アホだ。支えられていたのは、自分の方だったんじゃないか。
彼女がいたから、走っていられた。
彼女がいたから、ここまでこれた。
彼女がいたから……自分がこんなに人を想えるって知った。
そう、自分は支えていたんじゃない、彼女に支え守られていたんだ。
「そんな事も、知らんで」
彼女を支えるなんて…。
真っ黒な苦い液体を体内に流し込んだ。広がるのは苦々しいまでの無知の罪。紅が最後に言っていたのはこの事だったのだ。自分達はもう必要ない。蒼汰は、紅は自分の未熟さを見抜き、最後まで見守り付き合ってくれたのだと、ようやく悟った。
途端に、頭が急速に冷えて行くのを感じた。秒針が動き出し、世界が音を取り戻し始める。
彼女は紅は、もともと神崎川の元に好きでいたんだ。束縛されていたわけでも脅迫されていたわけでもない。彼女が望んで奴の傍におり、彼女が望んで子を産んだ。神崎川も彼女を必要としていて、二人は一緒になった。初めから、自分が入り込む余地などどこにもなかったのだ。たまたま彼女が弱っている所に自分が入り込み、ヒーロー気分で有頂天になった。
そして一人で大騒ぎして、空回りしていた。それだけの事なのだ。事実、彼女は自分に別れを告げて、神崎川の元へと戻ったじゃないか。
それが全てであり、それ以上もそれ以下でもない。
もう一度目を上げる。陽の落ちた窓には、独り座る自分の影が情けない顔をしてこちらを見ていた。
これが、結末か。
どれくらいの時間、ここにいたのかわからない。現実が輪郭を取り戻し始めた時に、蒼汰は深く息をついた。何もかもを放り出してきてしまった事に、苦笑して前髪をかき回す。
これが結末なら、せめて幕引きはちゃんとしよう。
「明日、皆に謝らないとな」
妙な清々しさに小さく微笑む。
失恋の痛みは、きっと時間が経てば経つほどに迫ってくるだろうけど、幸い、自分には明日がある。
明日ぐらいは、笑おう。自分にとって、かけがえのないもう一つの存在のために。
翌日、蒼汰は早朝に大学へと足を向けた。
学園祭当日にサークルをほっぽり出してしまうなんて、つくづく自分は情けない部長なんだと思う。
まだ、誰の気配もない校舎。その静寂の中、白いスクリーンを見上げ一人佇む青の後姿を見た時、蒼汰は心の底から彼の存在に救われたと感じた。
彼は、待っていてくれたのだ、この真っ白な世界に自分たちの世界を一緒に刻み、一緒に幕を引くために。
「お、早いな」
蒼汰の声に
「お前が遅いんだよ」
そう、青が苦笑して振り返り胸を軽く小突いた。
目的地には辿りつけなかった。でも、ここまで来たのは決して無意味なんかじゃなかったのだ。蒼汰はそんな想いを握りしめるように、顔をくしゃくしゃにし微笑んだ。
最後の学園祭はこちらが名残を惜しむほどに早い流れで過ぎゆき、自分たちを現実から遠ざけるお祭り騒ぎの幕はあっけなく下ろされた。
打ち上げも、何もかもがまるで夢の中の出来事のようで、最後のその時を、蒼汰はめいいっぱい笑って、楽しんで、そして……それを見送った。
次期部長を決め、引退を口にし、自分の居場所を一つ失くした。
部員たちを乗せたタクシーを見送り、何もかもが終わる。赤いテールランプが遠ざかる。冷たい秋風は、冬の足音を運んでいた。
青が「終わったな」と呟き振り返った。
この瞬間、ここにいてくれるのが彼で良かったと思った。
「おい。飲み直すか?」
紅を連れ去った男の声がして振り返る。
あの出来事は、もう遠い遠い昔のようだ。
蒼汰は青と顔を見合わせてから素直に頷いた。
三宮が連れて行ってくれたのはメニューのないような小料理屋だった。
「ここは顔なじみだから、まぁ、ゆっくりしよう」
三宮はカウンターでかしこまるに二人に笑いかけると、適当に注文をし始めた。三宮が選んだ日本酒は、蒼汰の口に初めて広がるような、辛く深みのある味で、こんな酒がまだ似合わない自分の未熟さを蒼汰は痛感した。
「お疲れさん。よくやったな」
そういう三宮の労いに、蒼汰は慌てて頭を下げた。
「顧問のおかげです。好きにさせてくださって、ありがとうございました」
サークルの事も、紅の事も、感謝しないといけない事を並べ始めればきりがない。それは、素直な気持ちだった。三宮はそんな蒼汰の様子に照れ笑いしその髭面の頬をゆがめた。
「なに、俺も楽しんでるんだよ。教師って言うのはこうでもしなけりゃ、図書館の奥に眠る黴た古本のようになっちまう」
少しさみしげにまた酒で唇を湿らせる。
「たくさんの生徒が、やって来てまた去っていく。それを見送るだけじゃ、同じ時間を共有していても虚しいだけだろ。だから、一緒に楽しませてもらってるんだ」
ふと、蒼汰と目を合わせた。
「中津、今は神崎川か。彼女の事はわかってやってくれよ」
振りきれたと錯覚していたその痛みが蒸し返され、蒼汰はその頬に、突然訪れた別れへの怒りと悲しみと未練を浮かべ俯いた。 三宮はそんな蒼汰にまるで弁解するように言葉を続ける。
「彼女に頼まれたんだ。一目でいいから、お前の映画と、お前のやり遂げた姿をみたいと」
「結局、俺は神崎川先輩を越えられへんかったって事なんですよね」
声の震えに悔しさが滲む。
そう、結局は彼の才能の前に何にもできなかった。彼女の心を支えるどころか振り向かせることもできず、ただ面倒をかけていただけなのだ。
自分の馬鹿さ加減に涙ももう出ない。
しかし、三宮はそれに首を横に振った。
「違う。そういうことじゃない」
「?」
きっぱりと断言するその言葉に、蒼汰は首をかしげる。
三宮はなぜか苦しげに顔をしかめ、酒の浮かぶ盃に視線を泳がせた。
「彼女にとって、お前はかけがえのない存在だった。だから、苦しんでいた。自分がお前をダメにしてしまうんじゃないかって事に」
「そんな、俺はっ」
信じられない三宮の話に思わず声を上げる。どういう事か、再び蒼汰の頭の中が混乱し始めていた。
自分が彼女にとって、かけがえのない存在だった?
それが彼女を苦しめていた?
彼女が自分をダメにする?
まるで言っている意味がわからない。
「わかってる」
三宮はそんな蒼汰の動揺を鎮めるように肩を押さえた。
覗き込む瞳は深く強い。そして、ゆっくりと蒼汰にまるで真犯人を告げる刑事の様な口調で
「神崎川な、来月からアメリカに行くそうだ」
と告げた。
「え」
再びの思考停止。三宮は手を離すと、小さな溜息をついた。
「どのみち、お前には別れを告げないといけなかった。子どもの方も色々大変だろ。どこかで区切りをつけないと、弱い自分がそれこそ一生お前を引っぱりまわしてしまう。彼女はそれを恐れてたんだ」
蒼汰は押し黙り、拳を固く握って透明の液体を見つめた。
一生引っ張られても構わなかったのに。そう言う想いと同時に、そんな自分の想い自体が彼女を戸惑わせ、苦しめていたのかという事実に愕然として動けない。
「お前がやったことはこれからの彼女を一生支えて行くよ。それだけの事を、お前はやったんだ」
三宮の言葉が深く突き刺さり、蒼汰はまるで泣き出す前の子供の様な顔になって彼の顔を見上げた。
「そう、でしょうか」
「そうだとも」
しっかりと頷き返すその声と瞳には、自分なんかにはない説得力と力があり、蒼汰はその一言に、気付かないうちに後悔に変化しかけていた彼女への想いを救われた気がした。
まだ飲むという教授を残して青と店をでた。妙に清々しい夜の風を思いっきり吸い込んで吐き出す。
「ほんまに終わってんな」
自分に言い聞かせるようにそういうと、青を振り返った。
もう胸の中には焦りも後悔もない。
「これからどうするんだよ」
彼らしい質問に蒼汰は苦笑いして
「とりあえず、卒業と就活やな。ま、色気はないけど、やるしかないやろ」
そう答えた。ここに留まり、自分に浸って泣いて過ごすのは御免だ。
彼女に抱いた想いを誇りに、彼らと過ごした時間を力に、もう、歩き出さないといけない。見上げた空には月は見えなかったが、蒼汰は顔を上げると、一つの季節の終わりを告げる冷たい風の中を歩きはじめた。