静かの海 5
毎年、学園祭が始まる前に部員だけで試写会を行う。
ほとんどの部員が初めて完成作品を見るわけで、今年は編集作業を最後まで付き合っていた青や春日まで、その例外ではなかった。
蒼汰は時計を見ながら、まだ姿を見せない教授にやきもきしていた。
本当は教授も揃ってサークルメンバー全員で観たかったのだが……
「部長。そろそろ始めませんか?」
学園祭の開始時間との兼ね合いもある。
蒼汰はスミレの言葉に溜息をつけると、落胆を紛らわせるように前髪をかき回して頷いたのだった。
カウントダウンの文字がスクリーンに浮かび、皆が息を飲むのが暗がりからでもわかった。
サークル全員で作った最高の作品。今はそう胸を張って言える。
蒼汰はスクリーンに流れ始めた曲を耳にしながら、紅はいつ観に来てくれるのだろうかと小さな緊張に胸を躍らせた。
完成した作品に、皆が引き込まれていくのを肌に感じる。呼吸をするのさえ躊躇っているかのような皆の横顔に、蒼汰は確かな手ごたえを確信した。
これなら、きっと紅にも恥ずかしくない。神崎川にだって堂々と見せられるはずだ。
そう、満足して壁にもたれかけた時だった。影と影の合間に、知った気配を感じる。やがてエンドロールが流れ出し、画面が一層暗くなった。
目を凝らしてもその正体をつかめず、蒼汰は気配が何かを見極めようとじっとその方向を見ていた。エンドロールが止まり溢れる拍手の中、部屋に光が射し込まれる。そして、蒼汰は息を飲んだ。
「え、あ……」
朝日に浮かび上がったその横顔は、まぎれもなく『彼女』だった。
金縛りにあったように指先一つ動かせない。彼女、紅がここにいる。ここにいて、自分の作品を観てくれていたのだ! 心臓が跳ね上がり、のどが急速に渇く。
「紅、さ……」
蒼汰はうわごとのようにようやくの思いでそう呟いた。
入口の前にひっそりと佇んでいた紅は蒼汰に気が付くと、小さく微笑みただ頷いた。朝日に溶けて行きそうなその笑顔の意味がわからない。蒼汰は言いようもない不安に駆られ立ちつくした。
そんな彼に紅の背が向けられる。
そして教授に支えられるように、何にも言わないで出て行ってしまった。
幻のような彼女の後姿が廊下の向こうに消える。
消えていく。消えてしまう。消えて……。
「待って!」
蒼汰は何かに弾かれるように顔を上げると、思いっきり手を伸ばし走り出した。
鼓動が嫌な音を立てている
勘が行くなと叫んでいる
不安が飲みこみ足を止めようとし
恐怖が目の前に立ちはだかろうとしていた
彼女が行ってしまう!
どうして?
何故?
自分の全てを、今、彼女は見てくれたんじゃないのか?
自分の想い全てを。
それなのに、なぜ?!
蒼汰は飛び出した廊下の先、曲がり角に消えそうな二人の背中に思いっきり声を上げた。
「待てっていってるやろ!!」
待って! このまま行かないでくれ! 想いは蒼汰を走らせ、悲痛な願いがその足音となって廊下を響かせた。どれだけ全力疾走しても、彼女の背中が蜃気楼のように逃げていく。
何故、なにも言ってくれない?
褒めてくれなくてもいい、認めてくれなくてもいい。せめて、なんでもいいから一言、自分の想いへの答えを聞かせて欲しかった。
廊下を突っ切り、階段を転げるように駆け降りて校舎を飛び出たその先。蒼汰が紅の腕を掴んだのは職員用の駐車場だった。
三宮の車の後部座席に身を置くその体は変わらず細く、まるで薄いガラスのような儚さだった。
胸の疼きを堪え、蒼汰は何もまだ語らない紅の瞳を見つめる。
「紅さん! どうして何も言ってくれないんです! 俺、俺……」
想いが強すぎて、うまく言葉にならない。ただ、この手を離すのが怖い。
「梅田。彼女は……」
三宮が苦しそうな顔で間に入ろうとする。それを、紅の細い手が抑えた。
静かに立ち上がったその体は朝日に白く、今にもかき消えてしまいそうだ。紅は自分を掴む蒼汰の手に自分の冷たい指を重ねて、唇を静かに動かした。
「映画、素晴らしかったわ。感動した」
「俺」
紅は優しく哀しい瞳を細める。彼らを見守るように枝葉を広げた金木犀の香りが静寂を包み、紅の声はその金木犀の花を散らせる風の囁きのようだった。
「もう、貴方には私達はいらないって、わかった」
「え」
弾かれるように蒼汰は顔を上げる。自分に、彼らがいらない? 言葉の意味が理解できずに耳を疑った。紅はそんな彼の表情を、何かに耐えるような顔で見つめてから
「貴方は、十分大きくなった。映画も、人間も。もう、私達がいらないくらい」
俯き、蒼汰の手をそっと外した。嵐の名残の風が髪を乱して行く。紅は自身の体を抱きしめるように腕をまわした。身を引き千切りそうな痛みが彼女の顔を歪めるが、俯いたその横顔を誰も見ることはできない。
紅は自分に言い聞かせるように小さくも確かな響きを持って、別れを声にする。
「もう、私とは会わない方がいい。これ以上は、貴方の為にならない」
蒼汰は耳を塞ぎたくなるような言葉に、頭を激しく振った。
「なんでや!そんな事あらへん。俺はええねん! 紅さんが誰を好きでも、愛してても。紅さんを支えられるんやったら。その為に俺は……」
ここまで来たんだ。だから、こんな言葉、信じたくない。信じられない。理解できない。理解したくない。自分の為? どういう事なんだ? 混乱が混乱を呼び、蒼汰の声が虚しく辺りにこだまする。
しかし、紅は顔を上げずに言葉を続けた。
「私は貴方に十分助けられた。今まで、ありがとう。あの映画を見て、貴方はもう大丈夫だって、安心した」
蒼汰は再び理解に苦しむ彼女の言葉に眉を顰め、首を傾げる。
俺がもう大丈夫? どういう事だ? 自分は、彼女を、紅、貴女に神崎川以外の世界を見せるために、彼から解放するためにここまで来たんだ。それが? わからない。なんの事だ?
「紅さん!」
動揺の波がそのまま声となって飛び出した。その痛々しいまでの叫びは、閉じようとする彼女の心をこじ開けようともがく。
しかし、伏せられた瞳は、上げられることはなかった。
「さよなら」
そして、今、決定的な言葉が蒼汰の胸のど真ん中を貫いたのだった。
蒼汰はその衝撃に、言葉も、思考も、何もかもを奪われて、なす術もなく立ち尽くした。
紅はそんな彼の目の前で車に乗り込み、まるでそこにあるもの全てを拒絶するかのように勢いよく車のドアを閉じた。
蒼汰はその姿も信じられない思いで凝視する。
窓の向こうの彼女の眼にはもう、自分は映っていなくて。
涙が一筋、頬を伝った。
それを合図に、蒼汰の声が再び張り上げられる。
「嫌や! なんでや!」
何度も窓を叩く。
「なんでや! わからへん!」
ガラスが割れんばかりの力をこめて。
「紅さん!」
声の限りその名を叫んだ
しかし彼女はやや伏し目がちに前を向いたまま、彼を二度と見ることはなく、蒼汰のこれまでの想いを振り切るように車が出て行った。
追随を許さない無慈悲なほどの速さでその姿は遠く小さくなっていく。
そして、本当に本当に手の届かない所へと、彼女を連れ去っていってしまった。
「なんでや」
全身から力が抜けた。蒼汰は膝をつき、力なく地面に蹲る。
混乱と、脱力感と、虚しさを全て塗りつぶそうとする絶望が、濡れた冷たい地面から這い上がって来ていた。
憤りでも悔しさでもない何かを握りしめると、それを絶望に叩きつけるかのように硬い地面に思いっきり振り下ろした。
跳ね返ってくる痛みを身に刻み込む、その為に、何度も何度も振り下ろす。
「なんでや、なんで……」
呟きは涙に揺れて、涙は真っ黒な地面に吸い込まれていった。
全力で走り抜いた想いは、こんなにもあっけなく、こんなにも情けない形で崩れてしまった。
「紅さ……」
声にならない痛みは、むせかえるほどの金木犀の甘い香りに沁み渡る。どうしようもない現実に途方に暮れるしかなく、蒼汰はその身に刻み込まれた痛みが自分の中の何かのタガを外すまで、その場所から一歩も動くことはできなかった。
「本当にこれで良かったのか?」
彼女を振り向かせないためにアクセルを踏み込んでいる癖に、ハンドルを握る手が躊躇っている三宮の顔が苦渋が滲む。
紅はそんな彼の表情すらも見ることなく、自身の顔を顔を両手で覆ったまま、言葉にならない声をため息のような返事にして頷いた。
自分を呼ぶ彼の声が耳にしがみついて離れない。息をするのも苦しいくらいに締め付けられる胸の痛みは、ほんの一瞬の隙でも見せたら彼の元へと自分を走らせてしまうのだろう。それがわかっているから、紅は涙を握りしめるように掌を閉じ膝の上で固く結んでから
「これが正しいんです」
と不自然な言葉を口にした。
この不自然な決断を、誤魔化しと未練が用意された先へと導くものだとも知っている。それでも、自分が選べるのはこの道しかなかったのだと、紅は自分に言い聞かせた。
「ひとつ、訊いていいかね?」
深い声が沈んだ空気に揺らいだ。
「ええ」
「自分には、今年の作品は、良くできているように思えた。君にはどう見えたんだ? たぶん……」
そこで言葉を詰まらせるのは三宮の優しさだ。紅は涙が途切れかける顔を拭ってからあげ、その白髪交じりの広い背中を見つめた。父親がいれば、こんな感じなのだろうか? そんな事を思いながら
「ええ。梅田君が聞きたかったのは、翠を越えられたのかどうか。そういうことだったのでしょうね」
そう、三宮が言えなかった言葉を自分が敢えて続けて見せた。
窓の外の流れる景色に視線を巡らせる。朝日に雨露が輝く世界は眩しく、鮮やかな色彩を誇り、痛いほど美しかった。
あの優しく切なく透明な旋律が蘇る。形にできなかった想い、言葉にできなかった気持ち。それを抱えたまま生きていくことの難しさと美しさそして愚かさ。それは蒼汰、そのものであり、自分はそんな世界が……。
紅は自ら選んだ結末に目をそむけない様に、その世界を見つめ口を開いた。
「私も、素晴らしい作品だと思いました。少なくとも、翠がこの大学で作った最後の作品、それより、私は……」
言葉がこみ上げる想いに途切れる。紅は作品を見終わった時、蒼汰が自分の道を切り拓いたのだと確信した。もう彼は、自分や神崎川の様な道標を必要としないのだ。その時、自分は彼のゴールではなく、通過点にならなければならないのだと思った。
日向の匂いのする彼…
どんな時も優しい腕を広げていてくれた彼…
いつもいつも真っ直ぐに自分を見ていてくれた彼…
どんな彼もまだここにいる、ここにいるけど。
彼の背中の向こうに見えた二つの影を思い出す。彼を誰より理解し信頼する青、ずっとずっと彼を見つめてくれていた藍。紅は二人の顔を見た時に、彼にはもう自分は必要ないんだと実感し、安堵と寂しさを覚えた。蒼汰はすでに、神崎川に欠けたいくつもの大切なものを持っているのだ。
冷たくひび割れた孤独な後姿を想う時、自分の手が伸びるのは、そんな蒼汰の方ではない。
「どうした?」
口を噤んだ紅を心配する三宮の声に、紅は目を伏せた。
そして囁くように声を喉の奥から絞り出す。
サヨナラよりも確かな別れの形を。
「先生。私は、梅田君の作品の方が好きでした」
過去形にする想い。
紅はそれを声という明確な形で自分につきつけると、そっと心の一番奥の大切な部分にそれをしまいこんだ。
忘れることはしない、忘れることなんかできない。
火傷のあとの様な醜いもので構わない。これから不意に訪れるだろう痛みも、胸を締め付けるやるせなさも、皆、すべてがきっと、自分のこれからの支えになってくれる。
見上げた空に白い月が浮かんでいた。透き通る空の眩しさに手を翳して目を細めた。その白い月はまるで燃え尽きた想いの残骸のようで、自分に似ていると、紅は静かな哀しみに微笑んだ。