静かの海 4
撮影最後のその日、藍は肌に感じるピリっとした静電気のような緊張感に、背筋を伸ばした。
大学でこのサークルに入るまで、演技なんて言うものを全くした事のなかった自分の、最後の舞台。初めは人前で演じることに戸惑いや恥ずかしさがあったが、今日それも終わってしまうのかと思うと、寂しさとこれまでの集大成だという気合いが一緒に押し寄せてきた。
「藍ちゃん。大丈夫?」
振り返る桃が心配げに自分を見上げているのに気が付き、微笑んで見せた。
青と付き合い始めてから、自分の中で彼女とはちょっと距離を作ってしまっているというのに、彼女の方は変わらずに接してくれている。本当に、自分も彼女のようにピュアでいられたら、どんなにいだろうと藍は苦笑いした。
「うん。ありがと。最後だもんね。気合い入っちゃう」
「青君もそうみたい」
彼女の口からこぼれるその名前は、今でもなるべく聞きたくはなかった。夏の合宿の最終日、青と二人で話した事を思い出す。
彼はきっとこれまでと変わらず友達として接してくれればいいと強調したかったのだろう。もしかしたら、倒れた時に彼が自分を抱きかかえたあの行為に対しての弁解だったのかもしれない。どちらにしろ……
「桃と青君は、本当に仲良しなんだね」
そう言いながら、藍は嫌な気持ちになっていた。
そう、どちらにしろあの時青と話した会話からくみ取れたのは、青と桃の強い絆で、蒼汰の紅に対する想いの強さに似ていた。それはかえって藍自身の身の置き所のなさを強調されたようなものだ。
そっと蒼汰の方を窺ってみる。クランクアップ目前の彼の顔はその緊張感と同じくらいに、この場を楽しんでいる様子だった。日焼けした横顔は悔しいくらいにカッコいい。
「藍ちゃん、告白しないの?」
「え?」
見ると、桃も蒼汰の方を見ていた。
「サークル終わっちゃうよ?そしたら……」
そうだ、彼と自分を繋ぎとめるものが薄れてしまう。こうやって毎日会う事もできなくなるのだ。
胸を締め付ける痛みに藍は眉を寄せた。
でも、でも、彼の心にはまだ……。
「引退までに考えるよ」
藍はその言葉を何とか絞り出すと、蒼汰の終幕の始まりを告げる声に顔を上げた。
『どうして、そんな哀しい顔をするの?』
柔らかい秋風に愛しい人の背中へ想いを乗せた声を送る。しかし彼は横顔を見せたまま、それ以上こちらを見ることはない。
『哀しい? 嬉しいんだよ。実花が自由になれて』
自由? 違う。と心の中は痛いくらいに否定する。なれるはずなんかない。自分の心は束縛されたままだ。ずっと前から、そうきっと、自分が気づくよりも前から貴方に……。
でも彼は、その想いを知っていながら否定するように小さく微笑んだ。
唇が震える。
『そんな……お兄ちゃんはずるいわ。いつだって一人で先に行って、私を置いて行ってしまう』
置いて行かないで
独りにしないで
貴方のいない世界に
置き去りになんかしないで
彼の姿を瞳に焼き付けようとするのに、堪え切れない涙がそれをゆがませる。
『私はずっと……』
そう、ずっと
『駄目だよ。それ以上口にしたら駄目だ』
諭すような静かで穏やかな声がこの想いを拒絶し、首を横に振った。
絶望にも似た虚しさの谷へ突き落されたような感覚に、呆然となる。
『お兄ちゃん』
嫌っ!
結ばれなくてもいい
誰に赦されなくてもいい
私はただ、ただ、貴方の傍にいたかったの。
想いを抱えきれず突き動かされる体は、彼に引き寄せられる。重ならないはずの影が重なった。
『いや。一人にしないで! 嫌だよ! 私、お兄ちゃんと一緒に……』
見ると、すぐ傍に手を伸ばしたくても伸ばせなかった。愛しくても愛せなかった。その瞳が自分だけを映している。
彼はそっと手を回し、言葉にできなかった想いで包みこむように抱きしめた。
その確かなぬくもりに、声をあげて泣きそうになる。
離れたくない、ここにいて。ずっと、傍に。
心は叫ぶのに一つも言葉にならない。
『どうか……幸せに』
耳元に届いた声は哀しいほど優しい。
『お兄ちゃん』
顔を上げると、そこには訣別の時を受け入れた、穏やかな笑顔があった。
そして、秋風が確かな響きを持って囁いた。
『さよなら』
一度感じた温もりが消えていく
行き場のなかった想いを道連れに
その時、彼の唇が動いた。音のない声。それが形作った言葉は……。
−ずっと、好きだったよ−
「え」
台本にない言葉に『藍』の目が見開く。
『青』はそれを見てから瞳を伏せ、そっと『藍』に背を向けた。『藍』は自分の胸に埋めようのない穴が開くのを、痛みを持って知った。
撮影と同じくらいに重要なのが編集作業だ。
料理に喩えると、撮影は素材で編集は調理。つまり、調理が、素材を生かすも殺すも、素材の本来持っているもの以上を引き出すも左右するって言う事だ。
BGMを載せたり、シーンを繋げたり、エフェクトを加えたり、細かく根気のいる作業でありここが腕の見せどころでもあった。
何日もパソコンや機材とにらめっこの毎日。
春日がそういった編集能力には長けていたが、皆が皆そう言うわけではない。気がつけば、学園祭前日の編集作業まで残っていたのは自分を除けば青と春日だけになっていた。
そんな彼らも、ついに学園祭当日の朝を迎えた今、力尽きて死んだように横で眠っている。
蒼汰はほんの数分前まで画面と格闘していた、戦い抜いた兵士のような二人の寝顔に小さな笑みを零すと、台風が過ぎ去り白みかけた空を眩しそうに目を細めて見上げた。
メインテーマの曲は旅でであった少年、北斗の曲と決めていた。
曲を使わせてもらう許可は本人と別れる時にとっていた。本当はバイオリンの音のまま使いたかったのだが、デジカメのボイスレコード機能では音が悪すぎて結局それは使い物にならなかった。そこで曲を藍にピアノにおこしてもらい、それを使う事になっていた。
その曲が今、静かに画面に流れている。
完成した作品が穏やかで、物悲しく、切ない旋律に導かれ幕を開けた。
蒼汰は火の点いていない煙草を口にくわえながら、ゆっくりとその画面を瞳に映した。細部まで妥協の文字の入る隙間のない、自分が思い描き、皆と作り上げた世界だ。
どのシーンも、どのシーンもすべてに想いがこもり、いい加減な個所は微塵もない。
エンドロールが流れた時、自分の全てを出し切ったのだと思った。
深い深い溜息をついて、そっとデジカメの画面を起こす。そこには、もうしばらく会っていない彩と紅の顔が映っていた。
かけがえのないモノが一つ増える度に
自分は強くなれ
かけがえのないモノが一つ増える度に
失う怖さに弱くなった
それでも、ここまでこれたのはここに眠っている、青のおかげだ。神崎川を越えられたのかどうか、自分にはわからない。それでも、自分の全てを出し切ったこの作品に誇りを持てたし、自信もあった。
これに自分の想いはすべて詰まっている。形はいらない。ただ、ほんの少しの居場所と彼女達を支える許しさえあれば。
蒼汰はぎゅっと掌の中の二人の映像を抱きしめる代わりに握り締めると、一度瞳を閉じて深呼吸した。
静寂が身を包む。自分の鼓動だけが耳に届いた。
とうとうここまで来た。あとは……。
もう一度空を見上げる。嵐の去った青い空には、白い月が静かに浮かんでいた。