静かの海 1
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人間が初めて月に足を下ろしたのは1969年7月20日アポロ11号だった。
空も飛べない人間が、何千年もただ見上げていたその星に辿り着く。それははじめ人類の目標というより、夢物語に近かったはずだ。
それを実現させたのは、諦めない強い意志と挫けなく続けた努力だ。
蒼汰は合宿初日のその夜、そんな月を仰ぎながら胸を締め付ける焦燥感をため息に変え吐き出した。
合宿前に青達に連れて行かれた祭りはそこそこの思い出を作ってくれたが、そんな気晴らしは、部屋に戻り台本を広げるとすぐに吹っ飛んだ。
横になればすぐに眠気を誘うほどの疲労は感じているのに、どうしてものんきに眠る気になれず、部員たちの寝息を背にもう何千回と手にしてボロボロになってしまっている台本をめくる。自分を今、駆り立てているのは、今朝塚口先輩に投げかけられた言葉だ。
− 今年の後輩はずいぶん使えない奴ばかりなんだな
− あの人の背中を追うのはやめとけ
− 近づけば近づくほど、飲み込まれるぞ
− 似てるよ。神崎川先輩の色に
「くそっ」
見透かされたのだと思った。自分の限界を。
何とかしないと。そう気持ちが急くほどに、自分の指示についてこれない部員に苛立ち声や態度が荒くなってしまう。
衝突を少しでも避けるために、自分ができることをやると、今度は彼らを無下にしている形になってしまっていた。
そして、何をどうしても自分の作品を彼のと比べてしまう癖が出来上がってしまっていて、常に彼の才能の影に怯えながら撮影に取り組んでしまっているのもわかっている。
「くそっ」
蒼汰は舌打ちし、煙草をくわえる。今日、二箱目の煙草ももう残りが少ない。苦々しく思いながら空に浮かぶ月に、彼女の寂しげな笑顔と一生懸命に生きようとするあの小さな手を重ねた。
何とかしないと、絶対に、絶対に。どうすれば追いつける? どうすれば追い越せる? どうすれば……出口はどこだ? 探せばあるはずだ、何か方法が!
焦りは不安を打ち消す錯覚をさせ、あがきは前進の幻をみせた。その実はその場で堂々巡りするハムスターの回し車のようなもので、どこにも出口はないのに、今の蒼汰がそれに気が付く要素はどこにもなく、あるのは走らせる理由だけだった。
前髪を苛立ちにかき回し、台本に目を走らせる。静かな月が、まとわりつく夜の熱が、飛べない無力さが、責め立てる。
そして、それがついに言い訳を許さない真夏の太陽にさらされた時、まるでギリギリにバランス保っていた飽和状態の水がグラスから溢れ出るように、それまで誤魔化し誤魔化し抑え込まれていた憤懣がぶちまけられた。
物語の中でも絶対外せないシーンというのはいくつかある。そこは必ず押さえておかないと、全体が崩壊してしまう。そういうシーンだ。
その日の撮影はまさそれで、緊張感と臨場感を出すためにカット割りのない長回しを決行していた。役者にもスタッフにも負担だって事はわかっていた。しかも炎天下、これまでの疲労もストレスもわかっている。でもどうしても妥協できないシーンだったのだ。
「カット!」
何度目かになるその声に苛立ちを混じらせて蒼汰が叫ぶ。
ほんの少しのずれが、今や許せなくなってきていた。自分のイメージする世界と違う。そのもどかしさに前髪をかき回す。
周囲の空気が悪いのも感じてはいた。なにせNGらしいNGはテイク1でのスミレの台詞忘れくらいだ。きっと、なぜこんなに何回も撮り直しをしているのか、蒼汰意外にわかるものはここにはいないだろう。
太陽を睨むように目を細め、役者の立ち位置が戻るのを待っていた蒼汰にカメラを下ろした青が声をかけた。
「なぁ、一度休憩しよう」
皆にほっとした空気が流れかける。しかし、
「アカン。このシーンはこの時間やないと」
蒼汰は首を縦には振らなかった。
このシーンは炎天下でないと意味がない。合宿も4日目、明日この天候に恵まれる保証もない。今、撮らなければ。
「何が不満なんだよ」
青の皆の気持ちを代表したような言葉に、蒼汰は思わず口が滑った。
「何もかもや」
小さな呟き。
しかしその言葉は苛立ちを最高潮にしていた部員たちの神経を逆なで、何かの糸を切るに十分な威力を持っていた。。
青は顔色が変え、何かを口にしかけた時だった。
「あのさ」
「蒼汰くん」
彼の言葉を奪ったのは藍だった。
藍はもめそうになる二人に空気がさらにこの雰囲気を悪化させることを恐れて、間に入ったのだ。
藍は不機嫌そうな蒼汰を気遣うような目で
「一度休憩した方がいいよ。うまくいかない時はどれだけやっても……」
そう言葉をかけた。それは、彼女なりの蒼汰への優しさだったのだ。皆も、青も、その藍の優しさを察し緊張がわずかに解けかけた。が、
「何や主役のお前までヤル気ないんか?」
蒼汰の怒鳴り声は、その場を凍りつかせるに十分だった。
すっかり色をなくす藍に蒼汰は詰め寄る
「お前がそんなんやから、全体が締まらへんねん。だいたい、演技めちゃめちゃや! 主役ならも少しマシにできへんか」
うまくいかない事を何かの所為にせずにはいられなかった。
自分は精一杯やっている。出せる限りの知識と技術を動員し、感性を最大限まで研ぎ澄まして撮影に当たっている。素人同然のスタッフの機嫌とりだってして来た。なのに、どうしても神崎川を越える映像は画面に映らない。
何故だ?
藍は自分の事を想っていて、自分が紅を想っているのを知っている。 じゃ、しっくりこないのは彼女のせいなのか? 彼女がいらない私情を挟んだ演技をしているから、なんだが理由のつけられない気持ちの悪さが何度やっても画面に映りこむんじゃないのか?
そんな、激流のような感情が洪水のように溢れだし、ほとんど言いがかりのような理由が理性を失った蒼汰の頭の中で正当化されていた。
藍は蒼汰の怒りに呆然とし、何も言えずに立ちつくす。
自分なりに蒼汰を想って、一生懸命やってきたつもりだったから、まさかの言葉に涙が込み上げてきた。
その時だった
「もう付き合いきれねぇ」
誰かの声が焦げ付くような地面に跳ね返った。
「え」
蒼汰は眉を顰めて振り返る。
そこにはカメラを放り出す春日の姿があった。
「俺も」
「僕も」
それを合図の様に、後輩達が機材を手放し始める
「ちょっと、皆」
「待って!」
スミレと桃が慌てて皆の間に入るが、もはやしらけ始めた空気は留まることはない。
「何や! 何のつもりや」
蒼汰が顔を赤くしてこの連鎖の発火点となった春日に詰め寄る。
「蒼汰止め……」
二人の険悪な空気に青が割り込もうとしたが間に合わない。
蒼汰を長い前髪の奥から睨みあげた春日は、これまでの鬱積を吐き出すように怒鳴りつけた。
「もうアンタには付き合ってられないって言ってんだよ!」
その言い草に瞬時にして蒼汰にも火が付く。
「何やと! もういっぺん言ってみぃ!」
蒼汰が春日の胸倉を掴む、だが、汗まみれの春日もこの時ばかりは黙っていなかった。
「みんな、アンタにうんざりなんだよ。空気読めよ! これ、たかだか大学のサークル活動だろ? 何、必死になってんだよ!」
ひるまない瞳で言い放つ。
「なっ」
言葉を無くし手を離したのは蒼汰の方だった。
掴まれた襟元を直しながら、春日は冷たい目で蒼汰を一瞥する。
「別に、皆、映画関係に将来進みたいってわけでもないし、大学生活を楽しみたくてサークルに来てんのに、こんなんじゃ意味ねぇよ。やりたきゃ、アンタ一人で勝手にしてくれ」
冷めた言葉は、現実を正確に言い表していた。
その言葉に蒼汰はわずかに顔をしかめ、苦々しそうに視線を落とす。春日はそんな蒼汰に失望をあらわにすると背を向けた。それに呼応するように、他の連中も引き揚げ始める。
遠ざかる気配の塊に、蒼汰は、解散、その二文字しかここには残されていないと覚悟した。
「皆、ちょっと待て」
追いかけようとしする青の腕を掴む。
「ええやん。やる気のない奴がいくらおったって、足引っ張るだけや。ほっとけ」
低い声でそう言うと
「進行、練り直してくる」
青に告げる。こうなったんなら仕方ない。やる気がないモノを強制できる力はないし、そんな連中といくら撮ってもNGを重ねるだけで無意味だ。仲間が離れて行く苦しさに浸る余裕すら、今の自分にはない。切る棄てるなら、今残ったもので最善の策を練らねば。
頑なな心はそう、焼けた土を踏んで皆とは反対方向に歩きはじめた。