片想い 3
昼下がりの各駅停車は、他のどの時間帯よりも緩やかに感じる。
冷房の利いた車内には、蒼汰と茜以外には女性とその腕に抱かれて眠る赤ん坊くらいしかいなかった。
「久し振りだね」
茜はそうはにかむと、隣に座った。
夏を思わせるキャミソールから伸びた腕は、日焼けなど微塵もしていないほど白く、細い。
何から話せばよいかわからず、蒼汰は「あぁ」と呆けたように頷くと、手元の台本を丸めた。
茜は戸惑いがちな視線を荷物の方に向け
「もしかして戻って来た所?」
「ん……まぁ。そうやな」
自分の歯切れの悪さに内心呆れる。
彼女に振られたのはもう二年ほども前の事になる。中学から一緒だったのもあり、共通の友人も多いから、いい加減なれないと行けないとは思いつつ、初めての相手だという事のせいか、どこか弱みを握られているようでいつもの調子が出ない。
「そっか。大学は夏休みやもんね」
どこか寂しげな口調に、その横顔を伺う。
次いで少し離れた席の親子に目をやり、蒼汰は首を傾げた。
彼女にふられたのは、志望校でもめたからだった。それまでの二年間は特に大きな喧嘩もなかったが、地元で就職する予定だった彼女とどうしてもあの大学に入りたかった自分との間に埋められない溝ができてしまい、自分か大学、つまり映画かと訊かれ、蒼汰はその時後者を選んだ。
その後、彼女の方は蒼汰に見せつけるように大学生と付き合いだし、卒業目前で妊娠が発覚、退学になった。
彼がまだ学生のため、彼の卒業を待って籍を入れるんだと、友人を通じて聞いていたが……。
そっと隣の彼女の腹を見てみる。
退学後に一度だけその彼氏と歩いている彼女とバッタリ出会った事があった。その時大きかった腹はもう依然と同じようにへこんでいる。
「あ、子ども?」
蒼汰の視線に気が付き、茜は苦笑した。
蒼汰には母親というと、女で一つで自分を育てた看護師の母親しかイメージにないので、言い方を選ばなければ、こんなギャル風の彼女の風貌はまるでそのイメージとはかけ離れていた。
「あたしね……男に逃げられてん」
「え?」
内容の割にあけすけない物言いに、蒼汰は思わず聞き間違えたのかと顔を上げた。
茜はまるでサイズ違いの服を買って失敗したという話をするようにその、幼い顔に無理やりに載せた口紅が浮いて見える唇を吊り上げ
「で、働いてるわけ。子ども、実家に預けて。今から出勤なんよ」
「へぇ」
どんな職業か訊くのは止めた。
この風貌にこの時間からの出勤。生活が大変なのだろうが、彼女が選んだのはまだ未成年であるはずの彼女が働くべき場所ではないのだろうと、簡単に推測できた。
それを軽蔑するつもりもなければ、咎める気もない。
働いて子どもを養っていこうとするその姿勢は素直に尊敬できるし、第一、元カレってだけで自分にはその筋合いはない。
「いつまでおるん?」
「まぁ……盆過ぎくらいやな」
嘘をつく理由も隠す理由もないので正直に答える。
「その間は?」
「免許欲しいから、教習所行ったり、バイトしたりになるんとちゃうかな」
こっちは思いつきだったが、口にしてからそれも悪くないと本気で思った。
「忙しいんや……」
茜は少し目を伏せて、しばらく口を噤んでしまった。
蒼汰のほうも困って、前髪をかきまわすともって行き場のない視線を外に向ける。
そして、その風景に僅かに胸をなでおろした。次が降りる駅だ。
慌てて台本を鞄に押し込み、肩にかける。
「あ、そっか」
その様子に顔を上げた茜も、次が彼の家の最寄りの駅だと察して呟いた。
彼女は思い切った様子でむやみにラメの入った鞄を開けると、携帯を取り出した。
「ね、携帯番号変わってる?メルアドは?」
そのせっぱつまった様子に、気圧され思わず「変えてへん」と答えてしまう。
その言葉に茜は破顔した。
「良かったぁ。せやったら、また連絡するわね」
茜自身、自分がどれだけ今、小ズルイことをしているのか自覚はあった。
自分から振った相手。二年付き合った人。そんな彼が自分を邪険にしないのはわかっていた。バツイチでこそないが子持ちでもあり、夜の仕事もしている自分と、大学生活を始めた彼との世界に開きがあるのもわかっている。
でも、この短い時間に救われたのだ。日々、出口のない鬱積した生活の中で、夏空の下自由にはしゃぐかつての仲間達と、相容れなくなってしまったこの現実に絶望しかけていた。そこにあの、仲間たちと何にも変わらず一緒に笑えていた時の自分を想っていてくれていた蒼汰が現れた。
ぎこちなくても、隣に座るそれだけであの時の自分に戻れたような気がした。
だから、彼に会ったこの偶然を単なる偶然にしたくなかったのだ。
電車が揺れて、武骨な音と共に止まる。
蒼汰は自分の携帯からとっくの昔に彼女の情報を消去している事を言えず、結局
「わかった。仕事頑張れな」
と月並みなセリフだけを口にして、この真夏の炎天下の中、不自然に居心地の良かった車内から、肌を焦がすようなホームへと出て行った。
まだ何か言いたげな茜を無視して、扉が溜息のような音を立ててしまる。
車内を見ると、彼の方を見て手を振る茜が見えた。
まるですがるようなその表情に、複雑な心境になる。
電車が熱気を巻き込み去った後のホームで、蒼汰はその遠ざかる姿を見ながら、どうか彼女からの連絡がこないように、と密かに願った。