サヨナラの準備 5
夏休みに入って、撮影は本格的になってきていた。
「あーっ! カメラ3! なんで、そこでイマジナリーライン超すんや? そこはカメラ固定でパーンって言とったやん!」
真夏の昼下がり。蝉すらも鳴かない一日で一番暑い時間帯。影がアスファルトに焼けつくその上を、蒼汰の苛立つ声が飛ぶ。
怒鳴り声でこそないが、その日何度目にかなるその大声に、撮影に慣れていない一年のカメラは委縮して身を小さくした。
周囲のスタッフも汗にまみれた顔をあげ、「またか」と言わんばかりのうんざりとした表情で溜息をつき、気まずく肌に焦げ付くようなピリピリとした空気が流れ始める。
蒼汰は盛大な溜息をつくと、そのカメラの一年に何か言おうと立ち上がりかけた。
その時だった、すっと手が伸びそれを抑える。
「な、蒼汰。一年にそんな用語使っても、意味わかんないって」
青だった。文句を言いかける蒼汰の言葉を遮って、彼と全く対照的に涼しい顔をした青は皆に良く通るその声で休憩を告げた。
「30分間休憩に入ろう!」
どっと緊迫した空気が解放され、知らず知らずに強張っていた皆の顔が安堵に緩む。
みんな散り散りになり、口々にぼそぼそと何か不平らしきものを小波のように零しながら日陰を求め去っていった。
蒼汰はそんな様子に、顔をしかめると口の中で呟く。
「青、あんなぁ……こんな休憩ばっかとっとったら間に合わんくなるで?」
基本的に青の指示に蒼汰は反対はしない。現場の調整を彼に任せているからだ。けれども、今日は撮影を始めてもう3度目の休憩になっていた。
蒼汰は台本と今とったばかりの映像をモニターに呼び起こしながら、隣に立つ青にそう文句をつけた。
青は丸めた台本で自分の肩を叩きながら
「撮影自体は遅れてないじゃないか。どっちかって言うと、少し予定より早いくらいだ。焦る必要ないだろ? それに、後輩の教育だって徐々にやんないと……」
確かに、青の言う事は間違ってはいない。
スケジュール通り、日によっては少し先まで撮影できる日もある。反面、後輩たちの指導が後回しにもなっているのも事実だ。
だけど正直、そんな風にちまちまやってるのが、もどかしい。
蒼汰が憮然として口をつぐみ、愚痴る代わりに煙草に手を伸ばした時だった。
小さな足音が聞こえた。
「青くん。蒼汰くん。お茶持って来たよ〜」
のんびりしたその声は桃だ。蒼汰は彼女のテンポに毒気を抜かれ、苦笑した。
「おおきに」
「いいえ、いいえ」
最近、ますます可愛くなってきている桃は嬉しそうに、日陰に腰かけた青の隣に座った。青も彼女が隣にいることに最近は慣れてきたようで、二人の姿はすっかり様になっている。
蒼汰は、桃のプルトップを開けてやっている青を眺めながら「ええなぁ。仲良しさんで」と思わず呟いた。
「やだ〜」
その言葉に、桃はほっぺたを真っ赤にして、青は聞こえないふりでずれてもいない眼鏡をかけ直す。
それぞれの照れた様子に、蒼汰は肩の力を抜くと、鼻から息を抜き手足を投げ出した。
「焦る必要ない、か」
こんな時にも、神崎川を意識してしまう。彼が部長の時は、こんな空気にはならなかった。
どちらかと言えば皆のびのびやっていたように思う。かといって、だれる事もなく、むしろ彼の指示のもと、それぞれ実力以上の力を引き出されていたし、撮影だって遅れることはなかった。
つまり、神崎川はレベルを落とすことなく、この素人だらけの現場の全てを掌握していたという事だ。
何から何まで自分は彼に劣っているという事か。
「な、今年の合宿と夏祭り、重ならないだろ?」
ぽつりと独り言のような青の声がし、蒼汰は顔を上げた。
「ん?」
蒼汰はスケジュールを思い出しながら頷く。
「だったら、皆で行かないか?」
「へ?」
珍しいと思った。こういった祭りごとに青が積極的に参加する事はあまり、いや今まで一度もない。見ると、桃が「行こう行こう」と目を輝かせていた。
桃が発案者なのか? そう思った蒼汰は苦笑して答える。
「それやったら、二人で行ったらええやん。俺、その日は週末で……」
東京に行かないといけない。しかし、そう続けようとしたのを、青が不機嫌そうな声で遮った。
「駄目だ。一緒に来い」
強い口調。
「でも」
どうしたんだ? こんなに強引に誘うのも、いつもの青らしくない。蒼汰が首を捻ると、後ろから誰かがつついた。
「蒼汰くんが来てくれないと、私、困るんだけどなぁ」
藍だ。藍は衣装のまま蒼汰の隣に座ると、青と桃に目配せする。そして、悪戯っぽく笑いながら
「ほら、蒼汰くんが一緒じゃないと、私あぶれちゃうでしょ?」
冗談半分、本気半分の口調だ。正直、祭りなんて気分じゃないのだが。
そんな蒼汰の焦る気持ちを知ってか知らずか、青は立ち上ると
「いいか。約束だからな」
と無理やり約束をとりつけ、さっき蒼汰に叱責された一年の所に行ったのだった。
蒼汰は断るタイミングを逃し、残った女子二人に苦笑いする。
夏祭りか。
桃から貰った冷たいお茶を流し込みながら、二年前の事を思い出す。そこにあるのは、やっぱり、あの花火の下並んだ彼らの姿だ。
何をしても自分を捉えて逃さない彼の大きな影に、蒼汰は重い痛みを感じ、それを誤魔化すようにモニターに目を移したのだった。
東京のど真ん中でも、夏になれば蝉の声の一つも聞こえるものなんだと三宮は妙な感心をしながら病院に向かっていた。
今日は学会があったために東京に出てきているが、忙しなく何かに追い立てられるような気分になるこの土地は、用事がなければあまり長いしたくない場所だ。
もともと、自分のペースで何事も進めるのが好きで企業にも研究職にも就職せずに大学に残った自分にとって、人の流れに強制的に付き合わされるのはできなくはないが、なるべくなら遠慮したかった。
だから多少陰鬱だろうと、世間の流れをパタリとシャットアウトしたような休日の静かな病院に辿り着いた時、まるで急流の川の流れから川縁に這い上がったような安堵した気分になった。
クーラーが熱を奪っていく心地良さに夏を感じるなんて、自分もずいぶん脆弱な現代人になったものだと苦笑しながらロビーに視線を巡らせる。
待ち合わせの人物以外の背中もあるのに気が付き、三宮はその背中にすぐにピンとくると髭面を呆れ顔に歪めた。
「よぉ」
並んだ二つの背中にかけた声。それに振り向いた紅と蒼汰は、三宮の顔を見ると顔を綻ばせた。
「先生。お久しぶりです」
そういって頭を下げる紅に
「先生。昨日ぶりです」
おどけて続ける蒼汰。
三宮は、まだ週末の見舞いを続けているこの男に片眉をあげて小さく苦笑ともため息ともつかないものを漏らすと
「お前、明日から合宿だろうが」
と、零した。蒼汰は紅の顔を一度見てから
「いや、せやからその前に、彩の顔を見とこうと思って。それに、合宿後はさすがに毎週ここに来れるかどうかわからへんし」
と言い訳めいた事を口にした。
彩の顔? 紅の間違いだろうが、と口にするほど若くない三宮は、黙って肩をすくめた。
「じゃ、一緒に病棟に」
「いや、俺はこれから帰ります。機材チェックとか、準備ありますから」
そして、妙に誇らしげに三宮に何かを取り出してみせる
「今、撮ってきたんです。いいでしょ?」
それはデジカメの画像だった。生まれた時より僅かに大きくなり、今や短時間なら保育器から出して抱くこともできるようになった彩とそれを抱く紅の笑顔が映し出されている。
「ほぉ」
三宮は感心するふりをしてその画像を無邪気に喜ぶ蒼汰を、複雑な気持ちで見ていた。
蒼汰はそのデジカメを仕舞いながら
「このお守りで、絶対、合宿はうまくいく気がするんです」
そう言って、紅を振り返った。紅は困ったような、それでも幸せそうにそんな彼に微笑みかえしている。
「じゃ、教授、また明日!」
「あぁ。気をつけて帰れよ」
「はい!」
まるで外の陽射しのような明るい声でそう言うと、蒼汰は三宮と紅に大きく手を振り出て行った。
それを見送りながら、三宮はどうしたものかと髭を撫でる。許されるなら煙草の一本でも吸いたいところだ。
「先生?」
「ん? あ、あぁ」
紅の声に我に返ると、三宮は困り果てて眉をよせ
「彩くんに会わせてくれるかな?」
とりあえずの第一目的を優先する事にした。
病室内には入らず、三宮はガラス越しにその小さな胸が上下するのを見つめた。あの頭の膨らみも、今は管を通す処置が施され通常の大きさまでになっている。しかし、手足の緊張は三宮の知っている赤ん坊のそれとは異なり、気管に開けた穴もそのままだ。初めの医師の説明通り、なんらかの障害を残しているのであろう事は素人目にも見てとれた。
「梅田君、来るたびに彩の写真を撮っていくんです。本当に、彩の成長を喜んでくれていて、さっき看護師さんに父親に間違われたくらい一生懸命で……」
そう口にする紅の声に複雑な心境が滲んでいる。三宮は渋い顔をしてそんな紅の横顔を見つめた。
看護師にそう言われて、舞い上がる蒼汰の姿は容易に想像できた。そして、そんな間違いが起こるほど、本当の父親はここには来ていないのだろういうことも。
「梅田は頑張っているよ。そりゃ……」
怖いくらいに神崎川に似てきている彼を思い出し、三宮は続きかけた言葉を飲み込んだ。正直、蒼汰の映画への情熱は大学のサークルレベルを超えていた。それをさせているのはきっと、神崎川の影であり、彼女とここにいる小さな命なのだ。
「そう、でしょうね。無理させているのは……わかっています」
紅は視線を落とすと、夏を感じさせない白い手でまるで我が子を撫でるかのようにガラスに手を添えた。
三宮はその様子に、彼女もまた今の状況が決して良いものではないのがわかっているのを察した。
そう、最終的に蒼汰を選べないのであれば、彼をいつまでも『ここ』に引きとめてはいけない。けれど、紅から切りださねば、彼はずっと通い続けるのだろう。たとえ、自分の想いが報われなくても、紅が神崎川と別れなくても、紅が拒まない限り彼女のために走り続けるはずだ。
三宮は腕を組み「うん」と唸ると、あご先に伸びた無精髭を撫でた。
「でも、今はアイツにとっても君たちが必要なんだ」
今、すぐに切るのもまずい気はする。蒼汰は彼女に神崎川を越える良い作品を見せたい、その一心で全力疾走している。その先どうするつもりなのかは、きっと本人も考えていないのだろう。それくらい、このゴールしか目に見えていない人間からいきなりゴールを奪うような事は出来ない。
三宮は苦々しい顔になると、独り言のように呟く。
「なぁ、こんな事、教師が言うべきじゃないんだろうが……梅田じゃ、ダメなのか?」
紅が眉を顰めて俯いた。
「神崎川も悪い人間じゃないのはわかる。でも、もう少し狡く生きたっていいじゃないか。罰はあたりはしない。君や彩の幸せを考えるなら、むしろ……」
「それ以上は言わないでください」
三宮の言葉を遮った声は戸惑いに震えていた。握りしめた手を、紅は痛みを隠すように胸にあてる。
「それは、考えちゃいけないことなんです」
そして、ゆっくりと振り返ると悲しい笑みを美しい瞳に宿した。その瞳が物語るのは、今までの苦悩と迷いだ。きっと彼女は、三宮が口にした事しようとした事を、何度も考えては必死に打ち消してきたのだろう。
「私は、神崎川の妻です。確かに私は、梅田君の優しさに甘えてここまで来てしまいました。けど、いつかはケジメをつけないといけないのはわかっています」
「中津」
まるで自分に言い聞かせるように言葉を紡ぐ紅に三宮が思わず零した名前を、紅は苦笑し
「私は、神崎川、ですよ」
と優しく、しかし覚悟をとっくの昔に決めたと言わんばかりの凛とした声で正した。そして、もう一度自分の子どもを振り返り、愛おしそうにその姿に目を細めた。
「学園祭で最後にしようと思っています」
静かに放たれる声。そこに秘められた強さに、三宮は彼女がもう蒼汰との別れを決めたのだと感じた。そして、その別れは、蒼汰の事を大切に思うからこそのものなんだという事も。
「それで、いいのか? 君は」
同じ質問を、数年前にした。
神崎川の暴力を知った、あの時と同じ質問だ。
紅はその問いを覚えていたのか、口元に僅かに笑みを浮かべ振り返る。
そしてあの時と変わらない答えを胸に、涙を零さぬよう困ったような泣き笑いの顔で頷いた。
廊下には何の音もない。世界の輪郭さえもあやふやにする静寂が、紅の結論の輪郭だけを浮かび上がらせた。
「翠がアメリカに行くんです」
「え」
「私は、それについて行くつもりです」
三宮は彼女の決断を迫ったのが何かを知り、それ以上口を挟むのを止めることにした。
強制的な距離の離別を、彼女は蒼汰との、つまり彼への甘えとの決別の機会としたのだろう。全ては添い遂げると誓った神崎川と、このままではかけがえのない存在になってしまいそうな蒼汰のために。
「そうか」
これが苦悩の末、彼女が決めた道というのなら、もう自分にそれを否定する権利はない。三宮はそんな彼女を支える様に肩に手を置くと
「必ず幸せになりなさい。この決断と梅田の気持ちを無意味にしないために」
そう、 言葉を贈ったのだった。