サヨナラの準備 1
三宮が紅本人から連絡を受けたのは手術日の前日の事だった。
入院のことすら知らなかったので、はじめに話を聞いた時の驚きは、手にしていた煙草を思わずとり落とし、机を焦がしてしまったほどだ。
彼女には両親がおらず、育ての祖父母も高齢で北海道に住んでいると聞いていた。
そんな事情を知っていた三宮は、紅が不安を我慢して一人で手術に臨むのではなく、ちゃんと自分を頼って連絡をくれた事それ自体は嬉しい事だと思った。
しかし、どうして自分なんだ。と三宮は顔をしかめた。
病院の廊下を、自分の柄に似合わない花束を手に歩きながら溜息をつく。特有の匂いが纏わりついて重い気持ちをさらに重くさせた。もともと病院嫌いだから、きっと病院を訪れたのは娘の出産の時以来だ。
そう、頼ってくれるのは構わないが、自分が自分の子の出産に立ち会ったように、彼女にとって本来今、頼るべきは夫の神崎川であるべきなんじゃないだろうかと、三宮は思っていた。
電話では二人の事までは聞けなかったから、なぜ彼を頼らないのかわからない。
それに、梅田はどうなのだろう?
三宮は蒼汰が毎週末東京に行っている事を部員から聞かされていた。
てっきり未だに神崎川に師事を仰ぎに行っているのかと思っていが、もし彼が彼女の入院を知っていたとすれば、こちらに来ていた可能性の方が高い。
そうならば夫の次に頼るべきはそうやって通い詰めている梅田の方ではないのだろうか?
なのに、自分。
何か特別な事情があると勘ぐらざるをえなかった。しかも、あまりいい想像をさせない勘ぐりだ。
三宮は聞かされていた病室の前に立ち、ノックする。
個室なことに何故かやや安堵し「はい」という声に、三宮は自分のそんなお節介な想像を締め出し、扉を静か開けた。
病室内には朝の静かな陽射しが、白い空間に優しい温もりを降り注いでいた。
無機質な部屋に三宮の持ち込んだ花束は妙に鮮やかで、まるで真っ白なキャンバスにそこだけ色彩が落とされた静物画のようだった。
「先生」
「寝ていなさい」
深い優しく低い三宮の声に、紅は子どものような顔になって身を起こそうとしたのをやめる。
三宮が傍らの椅子を引きよせ座ると、紅は今まで泣いていたのか、涙に浮いた真っ赤な目でその顔を見上げた。
「すみません。お忙しいのに、私……」
「連絡ありがとう」
三宮は彼女の言葉を会えて遮ると、髭面に笑顔を浮かべた。
「顔が見れて嬉しいよ。体調はどうだ?」
「……わかりません」
紅は戸惑いがちに答えると視線を落とした。
「昨夜から赤ちゃんの心拍数に波があるって聞かされてます。本当は予定日までもってほしかったんですけど」
三宮はそういう彼女の腕にまだあの忌々しい傷が見えるのに顔をしかめ、不安に眉を寄せる紅の額を子どもをあやすように撫でた。
「君は、ここまでよく守ったよ」
赤ん坊の事も、神崎川の事も。
三宮は声には出さずそう言うと、紅は唇を軽く噛み首を横に振った。
「先生。私、どうしてこんなに弱いんでしょう。本当は、もっと強くならないとってわかってるんです。なのに、なのに……」
蒼汰に頼ってしまった事、子どもを予定よりも早く生まなければならなかったこと、そして今に至っても神崎川に命の喜びを伝えられなかったこと、すべてが至らない自分のせいだ。紅はそんな自責の念に目を閉じた。
強くなりたい。もっと。そんな想いと裏腹な行動しかとれない自分が情けない。
今日だって、結局、手術のリスクの高さから誰か付き添いを、と病院から乞われ、神崎川を選べずに、ましてや蒼汰にも頼れずこうやって恩師に迷惑をかけてしまっている。
紅は点滴につながれた細い手で顔を覆った。
「もう、充分だろう?」
そんな手を、温かい大きな手が包む。その温もりに導かれるようにそぅっと手を外すと、朝日に明るい茶色に透けた三宮の目が紅を優しく見つめていた。
「そんなに自分を責めるな。お前はよくやった。よくやったんだよ」
「先生」
三宮は紅の気持ちを汲み取るように大きく頷いて見せる。
病室をノックする音がした。
「神崎川さん、そろそろ行きましょうか」
看護師の声に不安げな紅を、三宮教授は一度だけ握った手に力をこめて紅に
「大丈夫。ちゃんと待ってるから」
とウィンクして見せ、紅はそんな明るい声に笑顔になり頷いたのだった。
手術の内容は帝王切開と言う事で、その処置事態にはさした時間は要さないと紅を病室から連れ出す看護師に聞いた。ただ、手術中に何が起こるかはわからないので、すぐに連絡がつくように病院内にいるように言われ、三宮は仕方なく一階のロビーに腰を据えることにした。
一日一箱ペースで消費する煙草もさすがにここでは吸えない。仕方なく缶コーヒーに新聞なんて言う冴えない格好でソファに腰掛けていると、見覚えのある後姿が視界の隅に掠めた。
慌てて身を起こし周囲を見回す。
外来診の始まった病院内にはざわついた空気と、どこか陰鬱な空気が混在しており、雑音や活気はあるのにどこか覇気がなかった。まぁ、病院という場所柄、元気がないのは仕方のないことなのだが。
三宮はうんざりとその空間に視線を走らせながら、自分の気のせいかと再び腰を下ろしかけた時にその背中をエレベーターの前で見つけた。
他よりも一回り大きく見えるその背中に、三宮は苦い顔で髭を撫でてから新聞をぞんざいに畳みながら、逃がさないように足早に近づいたのだった。
「久しぶりだな」
「三宮教授」
振り返った神崎川の顔をみて、三宮はどこかホッとしていた。
未だに二人の仲がどうなっているのかわからなかったが、彼がここにいるという事は、少なくとも出産を知らされなほど最悪な状況でも、それを彼が無視するような最悪な関係でもないという事だ。
「出産の立会いか?」
三宮の言葉に神崎川は黙って頷き肯定して見せると
「紅から連絡受けたんですか?」
と質問で返してきた。三宮が先ほどのソファに彼を誘うように歩き出すと、神崎川は素直にそれに従ってついてきた。
「あぁ。昨日な」
まだ、状況がつかめないから、三宮は訊かれたことだけに答えた。
神崎川は申し訳なさそうに眉をよせ歩みを止めてから、その大きな背を丸めて頭を下げた。
「すみません。アイツ……こんなご迷惑をおかけして」
「いや」
もういいだろう? と心の中で苦笑する。君の外面の完璧さはよく知っている。でも、ここまで深く関わっているんだ。今、自分たちの間には……
「そんな挨拶はいらないよ。いい機会だ。少し話さないか?」
三宮の言葉に神崎川の表情がわずかに撓む。そして瞳の色が好戦的な物に変わった。三宮は心の中で半ば感心の溜息を洩らした。こんな顔を普段は完璧に隠し通しているのかと。
「そうですね」
神崎川は頷くと、誘われたソファには座らずに教授の先を歩きだした。
自分の指定する場所で話をする。話し合いでアドバンテージを取る初歩の方法だ。それを心得てやろうとしているのか、それとも本能なのか、とにかく自分と対等どころか優位に話を進めようとする元生徒の姿勢に、三宮は苦笑しながらついて行った。
神崎川が連れてきたのは病院のカフェで、先ほどの外来近くの休憩所よりいくらか静かだった。
お互いコーヒーを注文して向き合う。
三宮はいつもの癖で煙草に手を伸ばしかけ、灰皿がないのに舌打ちした。そんな様子を神崎川は笑って
「相変わらずのヘビースモーカーですね。一度検診受けた方がいいですよ?」
と冗談とも本気ともつかないことを口にした。三宮は頬をかきながら
「病院は苦手なんだ。幸い、今は独り身だ。身軽なもんさ。健康に気を使って味気ない人生を選ばなくていいい身分でね」
とこっちは冗談で返した。
しかし、神崎川は目の前に置かれたコーヒーの湯気を顎に当てながら
「羨ましいですよ」
と呟く。そして、三宮を探るように言葉を続けた。
「梅田には?」
三宮は首を横に振る。連絡があったのなら、きっと今頃ここにいる。神崎川は残念そうな顔をして指を組むと視線を窓の外にはずした。
「君は、嬉しくなさそうだね。到底、子どもの出産を待つ父親の顔には見えないが?」
直球すぎるくらいがこの仮面を剥ぐにはいいのだろう。三宮がそう言うと、神崎川は鼻で笑って意外にも素直に肯定した。
「ええ。俺は今でもこの出産に反対です」
迷いのない言葉に説得の余地は微塵もない。
三宮は先ほどの痛々しいまでの紅の姿を思い出しながら、
「君は、彼女の事を……もう?」
言葉を濁して尋ねた。しかし、三宮の予想に神崎川はまた反し、今度は否定する。そしてゆっくりと、目を合わせた。
「彼女の事は愛してますよ。今でも」
三宮はそういう神崎川のゾクリとするほどの冷たい眼に言葉を失う。
言葉とはまったく裏腹なその瞳の理由がわからず、三宮はこみ上げそうになる不快感を飲み下すようにコーヒーに口をつけた。
神崎川はそんな様子に口の端を曲げると
「先生には正直に話しますが、俺には子どもはいりません。それは彼女にも言ってあるし、それを承知で彼女は産むんです」
そう告げた。三宮はコーヒーの苦みより苦々しい顔で神崎川に溜息をつくと腕を組んで背を後ろに預けた。
「お前なぁ。まぁ、離婚して子どもを元嫁さんに任せてる俺が言うのもなんだが、そう言った気持ちじゃ、子どもは育てられんぞ?」
「だから、育てるつもりはありません」
一音一音に強い意志を込めた言葉は、絶望的なまでに他の価値観を排除する。神崎川はまるで微細な事を簡単に片付けるかのような物言いで言葉を続ける。
「養いはします。彼女と別れるつもりはありませんから。俺には彼女が必要なんです」
「じゃ、子どもは」
「そこがわからないんです」
神崎川は困ったような、しかし全く深刻味の欠落した表情で腕を組むと首を傾げた。
「彼女が何を考えているのか。俺は前から、動物を飼うのは嫌いだって言ってるはずなのに。こんな事をしなくても、自分は彼女を捨てることはありませんしね。何の意味があってこんなこと……」
馬鹿か! と怒鳴りつけたい気持ちを三宮はかろうじてこらえた。
動物? 自分の子供だろう?
いくら望まないといっても、自分の子どもを、自分が愛する女性が命をかけてこれからこの世に生み出そうとしているんだ。それを……。
「もし、俺がお前の親父だったら、今殴っていたよ」
低く押し殺した声でそう言うと、神崎川は嬉しそうに目を細めた。
不気味なその笑顔に三宮は、誰と話しているのかわからなくなる。目の前にいる男は、才能と運そしてたゆまぬ努力に裏付けられた自信を胸に、皆に信頼され慕われる自分の知っている神崎川翠ではない。
ここにいるのは、命を命とも思えない哀しく憐れな人間だ。
三宮は深い溜息をついて、紅の涙を想った。子どもを、彼を守ろうと精一杯、傷ついた体で耐える細い彼女の腕。何故、彼女が彼の子を産もうとしているのか、あの細い腕にその答えは刻まれている。
「俺にはわかるよ。何故、彼女が君の子を産もうとしているのか」
「本当ですか?」
鼻につくほど喜ぶ声に三宮は苦笑いに目を細め
「早くそれに気が付きなさい」
と、立ち上がり彼の肩に手を置く
「取り返しがつかなくなってからでは遅いんだよ。神崎川」
「教授?」
見上げる神崎川に三宮は頷いて見せた。ここで答えを伝えることは簡単だ。だが、彼女がどうして彼の子を産もうとしたのかは、彼自身で気がつかなければ意味がない。そう、彼女は彼を深く深く愛している。そして彼は命に、きっと自身の命にでさえも意味を見いだせないでいる。
だから、彼女は彼との子どもを産もうとしているのだ。
産んで、彼に彼自身が生まれてきたことに尊い意味があるのだと、そう伝えたいのだろう。
「行こう。手術が順調に済んでいれば、そろそろ終わる時間だ」
「いえ。俺はここで」
「?」
拒否するその背中に、三宮は眉間に皺を寄せる。
「自分がこんな場所に似合わないってよくわかりました。代わりに梅田に連絡してやってください。奴の方が、俺よりよっぽどここにいるのにふさわしい。教授がしないなら、俺がしてもいいですが?」
神崎川は肩の手を振り払うように立ち上がると、そんな皮肉めいた言葉を口にして微笑みに顔を歪め、三宮はそんな表情に今すぐには埋められない溝が彼の世界とここにはあるのだと痛感したのだった。