見上げた空に 10
「ほんじゃ、青と桃ちゃんにヨロシク」
翌朝早く、始発に間に合うように蒼汰は藍を東京駅まで送った。
蒼汰は紅が落ち着くまで傍にいることにしたのだそうだ。
藍は始発にもかかわらずまばらに見える人影に、静寂の中彼と離れるのでなくて良かったと思った。そんなの、寂しすぎる。
「うん。良かったね。赤ちゃんも無事みたいで」
「あぁ。ほんまに色々おおきにな」
蒼汰はそいうと、改札で彼女と別れた。
昨夜の雨が名残を残す、真っ黒なアスファルトを踏んで歩きだす。
もう奴には負けられない。絶対に。
殺意すら下手したら覚えかねない想いを拳に、蒼汰は再び彼女の元へと戻った。
医師から、事故と処理するには不審すぎる点がいくつもある事を聞かされていた。
その年配の女医は、腕を組んでため息交じりに昨夜蒼汰に尋ねたのだ。
「旦那さんはどんな人なの?彼女、全身痣だらけなんですよ。腹部の怪我も、階段で打ち付けたものだって確定はできないし。第一、通報したのは男性の声だったらしいの。私は、旦那さんなんじゃないかって思うんですけど」
きっと、これまでにもいくつものこういったケースを見てきたのだろう。
次々に物証をあげて、蒼汰に答えを誘導させようとした。しかし、蒼汰は紅本人が口を割っていない以上…何にも言えなかった。ここで神崎川を警察に突き出しても何の解決にもならないし、紅本人も望まない。それに聞けば、状態も状態なので出産まではこの病院で入院になるという。彼女の身の安全は保障されるわけだ。今は事実確認より、彼女の身の安全の方が優先だと思った。
「先輩」
戻ると、昨日よりやや顔色を良くした彼女が座っていた。食事も出されている。
「おかえりなさい」
紅は蒼汰が帰ってきたことに複雑な心境で答えた。
傍にいてほしい。でも、藍の姿を見た時に、やっぱり自分が彼を縛ってはいけないんじゃないか。そんな思いも生まれたのだ。
そんな紅に蒼汰は雨雲の去った空のような笑顔で
「俺も売店で何か買ってきます。一緒に朝飯食いましょう」
そう言ったのだった。
その日一日は信じられないほど穏やかだった。
彼女が休む時は、その傍で蒼汰も船を漕ぎ、彼女と一緒に食事を取り、検査にも付き合った。彼女が見せてくれた子どものエコー写真は、もう立派な人の形で感動すらした。
「先輩。あの、触ってみていいですか?」
蒼汰は腹をけっているというのを聞いて、失礼を承知で訊いてみた。
紅は嬉しそうに目を細めると、黙って手を取り、自分の膨らみにそっとそれを置いてくれた。
正直、緊張した。どんな感覚か、想像もできなかった。じっと息を殺してその瞬間を待っていると……
「!!」
掌にポコっと何かが跳ね返る感触がした。蒼汰が目を見開き紅の顔を見ると、紅は優しい顔で頷いた。
「凄い! 凄いですね! ははっ。こりゃ、ほんまに……」
蒼汰は感動して、もう一度手をあててみた。
また蹴り返してくる命のサイン。涙がこみ上げるほど嬉しかった。一つの命がこの中にいる。この中で一生懸命生きている。
「お前。元気に生まれてこいや」
蒼汰は思わずそう呟くと、感じたことのない感情に深く息をつき、それを撫でるように優しくさすった。
蒼汰は病院のすぐ近くのビジネスホテルに部屋を取って、翌朝もすぐに彼女の元へと走った。
いつまで? できればずっと傍に居たかった。傍にいて、彼女の手を握り、背中を支え、言葉を交わしていたかった。しかし、現実は甘くは無い。
「よぉ。お疲れさん」
「……」
蒼汰は彼女の傍に立つ大きな背中に唇を噛みしめ見上げた。
何事もなかったかのようなその表情に怒りが込み上げてくる。
「お久しぶりです。えらい、早い到着ですね」
ぶつけた皮肉は彼の喜びしか誘わなかった。神崎川は紅の隣に腰を下ろすと、蒼汰から彼女を隠すように体を向けた。
「俺が忙しかった間に世話掛けたみたいだな。助かったよ」
何を白々しい。蒼汰は喉まで出かける罵声を飲み込むと睨みあげた。お腹の子供がいなければ、ここに紅がいなければ、絶対殴りかかっていた。
殴らないのは、怖いからでも彼のためでもない、ただ紅と赤ちゃんに迷惑をかけたくない。それだけだ。
「紅、お前からも礼を言えよ」
そう言うって彼女を蒼汰の前に突き出す腕に優しさは微塵もない。
紅は戸惑いにうつむき、一度だけ蒼汰を申し訳なさそうに見上げすぐに目をそらせた。紅の脳裏に藍の影がよぎる。迷いが言葉をこじらせた。そして……
「ありがとう。もう、大丈夫だから。私は、彼の作品を見届けないと」
隙間風のようなか細い声でそう言った。
この場は帰った方がいい、そして彼の才能からは離れることはできない。そういうメッセージだと思った。
そう、どんなに想っても、どんな事実があっても、自分がただの後輩で、神崎川が彼女の夫だって事は、どうしようもない現実だ。
つまり、自分が彼を超えない限り、ここからは連れだせないのだ。
「わかりました」
蒼汰は拳を握り締めると、神崎川を睨みあげた。
絶対に超えてやる。絶対に!
蒼汰はそう決意を固めると、彼に聞こえるようにはっきり紅をこう呼んだ。
「紅『さん』。俺、また見舞いに来ます。お大事に」
もうただの後輩でいるのは嫌だ。彼女にとっても、奴にとっても、自分は対等の立場で挑んでやる。そういう思いの表れに、神崎川は静かに目を細めたのだった
帰り道はやけに早く感じた。
蒼汰の胸の中に、整理しきれない幾つもの感情が矢継ぎ早に去来しては、息苦しいほど心をかき乱していっていた。そんな逃げ場のない苦しさを鎮めるために、頭で感情を整理しようとしても、その頭の中にはまだ理解しきれていない出来事が溢れかえっていて、到底掴みどころのない感情を整理することなんかできはしなかった。
考えているようで、なんの思考も動かない状態だ。
結局そんな調子で、気がつけば何一つまとめる事が出来ないまま、蒼汰は部屋についていた。
疲労を感じていたわけではないが、体の方が限界だったのだろう。全てを投げ出すように横になると、夢も見ないほどの深い眠りがすぐにやってきた。
部屋には時計の秒針音と、蒼次が回し車をまわす音だけが響いていた。
起きてすぐは、自分がどこにいるのかわからなかった。
何にもない天井を見上げ、世界の輪郭がハッキリしてくるにつれ、じわじわと込み上げてくる涙を感じ、蒼汰は腕でそれを覆った。
「ちっくしょう」
唇を噛んでも、生まれる痛みは胸のそれを誤魔化しはしない。薄暗い部屋にあるのは、どうしようもない現実だけだった。目を閉じた暗闇の向こうに見えるのは、紅を捉えて離さない大きな薄笑いの影。
紅の気持ちは正直、全く今の自分に見える気はしなかった。
どうして彼女はあぁなっても、彼の傍にいようとするのだ?
どうして彼女は彼の傍にいても、自分を拒まないのだ?
彼らの間に一体、どんな絆があるって言うんだろう?
別れ際の紅の言葉が頭をこだまする。
『彼の作品を見届けないと』
彼女を繋ぎとめているのはそれなんだと、蒼汰は思った。
彼の作品、神崎川の才能を誰より理解しているのは彼女だ。そう、きっと奴の才能が彼女を捉えているんだろう。
「くそっ」
蒼汰は拳で床を打ち付けた。才能なんか……そう声高に叫んでも、虚しくなるだけだ。涙を乾かした目で、じっと低い天井を睨む。
すぐに突き当りが見える自分の才能。
視線をずらし外を見る。
窓の向こうの夜空は暗く冷たく、そして果てがなかった。
「ちっくしょう」
もう一度零す。
才能。才能。才能。
どんなに望んでも、どんなに努力しても手に入れられないものはこの世にある。泣いても、喚いても、嘆いても、その現実は皮肉なほどに揺るぎはしない。
「……」
蒼汰は床から身を引き剥がすように起こすと、霞がかった重い頭をふった。
「アカン」
複雑に考えすぎている。こう言う時こそ、シンプルにならなければ、きっと自分は自分を見失って、とんでもない道を選んでしまうのだろう。
蒼汰は深い深い溜息をつくと、携帯に手を伸ばした。
そして彼にとって『SOS』を発信できるその番号をコールしたのだった。