見上げた空に 9
病室でベッドに縛り付けられている自分に気がついた時に、傍には誰もいなかった。
紅はぼんやりと霞む頭で何があったのか思い出そうと、目を閉じる。
確か産着を用意していて、それらを並べて眺めていた。少し小さめだがエコーで手足も確認できるようになって来た子どもの事を思い、近い将来この産着に袖を通す小さな小さな手を想像し、心からの愛おしさに目を細めていた。早く、その手を握りたい。早く、この腕に抱きたい。そんな事を想って、柔らかな産着に指を添えていたんだ。
そこに彼が来て……彼が……。
下腹部に鈍痛が走った。背筋か凍りつく。慌てて身を起こし、点滴だらけの腕で、そこに手を当てた。
「赤ちゃん。私の……」
ズキン ズキン ズキン
何かの楔が愛おしい我が子に打ち付けられるような痛み
「い、や……」
震える指先で服を握りしめる。あの時、何が起こった? この子を守らないといけない。そう思ったことしか思い出せない。
あの時、何が。
紅は嫌な音を震わせる鼓動を飲み込み、手を見つめる。
ドロリとした生暖かい感触が蘇る。
「嫌ーっ!」
思いっきり叫んでいた。
看護師達が駆け付けた時、もう終わったのだと思った。
「神崎川さん。落ち着いて! 誰か、先生にコールして!」
自分を抑え込む看護師の声がする。
何がどうなった?
私の赤ちゃん。
私の赤ちゃん。
私の……
「大丈夫! 赤ちゃんは無事ですから!!」
看護師のどなり声が鼓膜を打ち付けた。
途端に体の力が抜け、紅はそこで初めて自分が暴れていたことに気が付く。
「本当、に?」
「ええ。本当ですよ。だから、落ち着いてください」
看護師はしっかりと頷くと、紅の背中を優しくさすり、ゆっくりと横に寝かせた。
紅はまだ思考がまとまらず、下腹部に手を置いたまま蒼白した顔で看護師を見つめた。
「あの、本当に、赤ちゃんは……」
「心拍は確認されてます。でも、絶対安静にしなきゃ、神崎川さん。せっかく助かった命を守りましょう」
温かな声に、紅は涙が溢れた。
よかった。よかった。本当に……。
何度もうわごとのように繰り返す。看護師はそんな紅の手を優しく包み、そしてそっと尋ねた。
「あの、誰か、ご家族など、連絡できる方はいませんか?」
瞬間、あの時の彼のうす笑いを思い出す。
紅は身を固くした。駄目だ。今は、自分を見失っている彼を呼べない。せっかく助かった命を守らないと。
「誰か」
ぎゅっと目を瞑った。
もう、そこにはたった一人のその顔しか思い浮かべることはできなくて、紅は震える冷たい手で看護師の手を握り返すと、自分がSOSを告げる事のできる、この世でたった一つの番号を口にしたのだった。
その朝、耐えるように膨らんだ大きな雨雲はとうとう涙をこぼし始めた。まだ霧雨のような優しい雨なら怖くない。蒼汰はそう外の様子を眺めながら、赤い風船を膨らませて浮かべた。
「青くん、ビックリするかなぁ」
桃がにこにこしながら、ケーキに最後のデコレーションを施していた。
本当に、青はこの子に愛されてるんだなぁ、と複雑な気持ちになって蒼汰は頷く。
「特に、そのケーキの愛情にな」
半分本気だったんだが、桃は冗談だと思ったらしくて照れ笑いに頬を染めた。
「プレゼントはいつ渡そう? はいって来てすぐにクラッカー鳴らすでしょ? じゃ、その時かな?」
しっかり者の藍の段取り確認に
「ケーキのろうそく吹き消してからでええんちゃう?」
と答えて10個目の風船を浮かべた。
ぐるりと部屋を見回す。ちょっと幼稚くらいが盛り上がっていいだろう。実際、藍も桃も楽しそうにはしゃいでいる。
入ってっきたときの青の唖然とした顔を写真に撮っておくべきだろうかどうか、ほくそ笑みながら桃のケーキを覗きに行った時だった。
携帯が鳴る。
「?」
二人が振り返る。
「俺のや」
この着信は無登録番号のものだった。
滅多にならないメロディーに首を傾げると、東京の市外局番だった。
変な予感がした。
取りたくない。この電話はとっちゃいけない。勘が警告をする。でも、本能はそれとは裏腹に、まるで操られるようにボタンを押していた。
「もしもし」
「あ、梅田蒼汰さんの電話ですか? 私」
その女性の言っている事がわからなかった。
彼女が話しているのは立派な日本語で、それはそれは丁寧な説明で明朗な括舌だ。
蒼汰がわからなかったのは、その内容だ。
「え、あの。それは……彼女が、その」
「ええ。ですから、階段から落ちてこちらに入院になったんです。それで、どなたか連絡をという事で、こちらを」
彼女が、落ちた? 階段から? 何故?
頭が真っ白だ。
「それで、彼女は」
「無事ですよ。でも、赤ちゃんの方は予断を許さない状況……」
無事。その二文字に僅かに安どするも、すぐに不安が込み上げた。
彼女が自分を呼んでいるのだ。
彼女が助けを求めているのだ。
彼女は今、きっと一人で……。
「わかった、すぐに行きます」
蒼汰は電話を切ると、不思議そうな顔をしている二人に顔を上げた。
「紅先輩が、階段から落ちて、救急車で運ばれたって」
「え?」
二人の顔色が一斉に変わる。
蒼汰はまだ混乱する頭を整理しようと、忙しく頭の中をかき回しながら
「紅先輩が呼んでるねん。俺、行かな」
そう呟きながら、慌てて玄関に駆け込んだ。
彼女が呼んでいる。
彼女が一人で泣いている。
彼女が呼んでいる。
彼女が苦しんでいる。
彼女が、彼女が、彼女が……助けを求めている!
ドアを思いっきりあける。
「!」
目の前に現れた影にぶつかりそうになり、思わず身を引いた。
「あ、青」
そこには、何にもまだ知らない青がキョトンとした顔で立っていた。
そうだ、今日は彼の誕生日で祝う約束で、でも、紅が、彼女が……。
蒼汰はその親友にうわごとのように
「すまん。俺、行かな」
とだけ呟くと、何かに追い立てられるように走り出した。
嫌な予感が足を引っ張ろうとする。
嫌な想像が視界を狭める。
彼女を失う? 彼女の大切なものが奪われる?
どうしよう、どうしよう。
彼女の傍に、とりあえず、彼女の傍に行って、彼女の無事をこの手で確認しないと!!
自転車に跨りかけた時だった。
「蒼汰くん! 私も行くわ!」
何故か藍が追いかけてきていた。もう、細かい事を考えるのは面倒だった。
「わかった! 後ろに!」
そう言うと、蒼汰は自分の車を取りに藍を後ろに乗せて思いっきりペダルを踏んだのだった。
雨がその時降っていたかどうかを知ったのは、病院に着いて、ぐしょぬれの二人に看護師がタオルを差し出した時だった。
どこをどう走ったのかわからない。
ただ、藍の冷静なナビケーションに従いハンドルを切り、アクセルとブレーキを交互に踏むだけだ。
頭はやっぱり真っ白で、ただただ紅の事だけで頭がパンクしそうだった。
その見知らぬ病院に着いたのはすっかり日の落ちた時間だった。病棟に駆け込み、煌々と明るいナースステーションに飛び込む。
「すみません! 中津紅はどこですか?」
「?」
駈け込んで来た二人組に看護師が首を傾げる。
「なか、つ?」
「あ、神崎川です!」
藍が慌てて言い直した。その名前に、蒼汰は言いようもない感情が込み上げて唇を噛みしめた。そうだ、彼女はもう……。
「あ、お知り合いの方ですね。こちらです」
看護師はすぐに立ち上がると、ナースステーション脇の部屋に二人を案内した。
心臓が嫌な音を立てている。
ドアを開ける手が震えた。
実際はどうだったのだろう?
蒼汰にはそのドアを開けて彼女の顔を見るまで、とてつもなく長い時間に感じた。
藍が傍で何か言った。
でも、それは聞こえなくて。
「先輩?」
薄暗さを感じさせる室内に横たわる彼女の白い顔。蒼汰は引き寄せられるようにベッドサイドに歩み寄る。
目を閉じているその頬は、自分が最後に彼女を見た時のそれより色を無くしている。
「先輩」
恐る恐るその手に触れてみた。
冷たくて、細くて、壊れてしまいそうな手だ。
「梅田、くん?」
その手が握り返した。蒼汰は慌てて握りしめると、顔を見る。色のない青い陶器のようなその顔が、僅かに微笑んだ。
「来てくれたのね」
その瞳がみるみる涙で溢れる。
「先輩」
蒼汰はその体をぎゅっと抱きしめた。
彼女はここにいる。まだここにいる。
「よかった」
心の底から声を吐き出した。
「俺、俺……」
それ以上の言葉にならなかった。
そしてそれは、紅もまた同じだった。
「梅田くん」
か細い腕で大きな背にしがみつく。
紅は蒼汰の暖かさに包まれた瞬間、すべての緊張が優しく解かれていくのを感じていた。凍りついていた感情が溢れだす。
恐怖、不安、後悔、虚無、絶望。みんなみんな、止めどなく湧きあがってき……。
紅は声をあげて泣いていた。
ずっと、ずっと、胸の奥に押し込めていたもの全てが嗚咽になり流れ出て行く。
蒼汰はそれをすべて受け止めるように、紅が泣きやむまでじっとただ抱きしめていた。
どれくらいの間そうしていたのかはわからない。
蒼汰が外の雨が止んでいるのに気がついた時だった、紅がゆっくりと顔を上げた。
「梅田君」
蒼汰はその瞳を覗き込むと、もう一度引き寄せた。
これ以上の言葉はいらない気がした。
雨雲の切れ間から除いた月光が、青白く部屋を照らしだしていた。
蒼汰は涙を拭うように彼女の冷たく濡れた頬を拭うと、言葉の代わりにその想いを、優しく重ねる唇にのせた。
藍は蒼汰が病室に入るその瞬間、完全に自分は彼の世界から消されたのだと悟り、部屋には入らなかった。
胃の底が熱くなり、こみ上げそうになる涙と痛みをこらえ看護師に入院の手続きについての話をした。
何かしていないときっとその場から逃げてしまう。そんな確信に近い思いがあったからだ。
手続きをすませ、入院に必要そうなものを売店で買いそろえ戻ると、蒼汰がナースステーションで医師の説明を受けている所だった。
その横顔は、もう動揺に取り乱す彼ではなく、一人の女性を守ろうとする男の顔だった。それは、嫌になるくらいに胸を焦がすほど格好良くて、藍は苦笑いに顔を歪めた。
彼の心の中に自分が入り込む余地が微塵もない事を思い知り、ここに来て良かったのだと思いながら、残してきた親友と今一番傍にいてほしい彼の事を思い出していた。