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Apollo  作者: ゆいまる
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見上げた空に 8

 青のサプライズバースデーパーティーを言い出したのは、蒼汰自身だった。

 幹部になってから、色々世話になっているし、自分自身にも梅雨空のせいかなんだか最近身が入らない。

 起爆剤のような、ぱぁっと派手な事をしたかった。

 結局、準備品の買い出しに三人で行っている時に、青とはち合わせしてしまい、サプライズにはならなかったが、それでも煮詰まりかけていた映画からちょっと離れて、理屈抜きに久々に騒げるのが楽しみだった。

「なぁ、お前も行くか?」

 蒼汰は最近、少し元気のない蒼次に向日葵の種を差し出しながら尋ねてみた。

 ハムスターの寿命は知らない。

 でも、彼は紅との大切な繋がりであり、もはや家族の一員でもあった。物言わぬ兄弟は、蒼汰をちょっと気だるげに見上げると、鼻をひくひくさせて、頼りない様子でなんとか種を口に詰め込む。

「お前も、紅先輩に会いたいんか?」

 最後に会ったのは卒業式だったから、もう顔も声もメールもなくなって3か月ほどになる。

 元気だろうか? 赤ちゃんは順調だろうか? そんな事ばかりが気になっていた。



 突然の訪問者に神崎川は大きな溜息をつき、事務所の入っているビルの一階の喫茶店でその男と向き合っていた。

「本当に映画会社に就職したんだな」

「用件は何だ?」

 何かを言いたげに皮肉っぽく微笑む表情は相変わらずだと、半ば呆れてその男、兄を見つめる。

 まるで自分の成功を見せつけるかのように全身をブランド品で固めた兄の姿に、神崎川は軽蔑の眼差しを投げていた。だいたい、こんな恰好をする人間は、自分の中身がないからそれを悟られるのが怖くて、こんな風に似合いもしない外国製品を身に纏うような滑稽な事をするのだ。恥ずかしくないのだろうか?

「随分だな。わざわざ出向いてやったのに」

 そんな風に見られているとも知らない兄は、足を組むと背もたれに寄りかかり不遜な態度で煙草に火をつけた。

「俺はお前と違って忙しいんだ。用件がないなら、もう行くぞ」

 神崎川は不快に顔を歪め腰を浮かそうとした。それを兄は口の端を吊り上げて

「俺だって暇なわけじゃない。今日は、東京に用事があってきたのさ。親父が、引退する事になってね。どうせなら、親父をこっちの病院に移そうかと思ってね」

「?」

 俄かに意味が分からなかった。神崎川は座り直すと、睨み据える。兄はまだ長い煙草を揉み消すと、そんな神崎川の表情を一瞬でも見逃すまいと身を乗り出し睨みかえした。

「親父。癌なんだ」

「え」

 声を凝らし、そのうかつさにすぐに神崎川は舌打ちした。

 兄はその声を聞いただけで満足だったようだ、低く喉を鳴らすように笑うと前髪をかき上げる。

「末期でね。どうせ最期を迎えるなら、最高の医療を施してやりたいと思ってね」

 嘘だ。神崎川は心の中で毒づいた。

 末期でどうしようもないのなら、むしろ彼が一歩も離れることはなかったあの町で最期を迎えさせてやるべきだ。それをしないのは、兄なりの復讐だ。さっさと病院を乗っ取りたいという魂胆もあるのだろう。引退とはいっても、発言できるうちは父親の方に力があるのは目に見えている。だから一刻も早く厄介ばらいをしたいのだ。

「で、病院の下見に来ていたわけ。なかなか親孝行だろう? お前と違って」

 よくもぬけぬけと言いやがる。神崎川は苛立ちをその大きな拳に握り締めると、微笑んで見せた。

「そうだな。頼むよ」

 今度、不快そうな顔をするのは兄の番だった。弟の笑顔はいつだって彼を不快にさせる。ムキになりかけるのを抑えるように、また落ち着かない手つきで煙草に火をつけると、煙を吐いた。

「で、結婚したのか?」

「あぁ」

 籍は入れた。一緒にも住んでいる。

 これで、あの腹の中の不気味な生物さえ処分できれば完璧だ。

 神崎川は頷くと、外を見た。初夏の淀んだ都会の空気に、行き交う顔はどれも醜く歪んで見えた。

「親父も、不幸だよな。結局、守りたかったものは何にも守れなかったんだ」

 兄の言葉がそんな世界にねちっこく纏わりつく。

「町も、病院も、自分が渇望した血筋さえもな。親父が生まれてきた価値はなかったわけだ」

 言うだけ言ってせせら笑う。

 小気味いいか? そうだろうな。神崎川は、そのごくごく小さな勝利の幻に酔う哀れな兄を振り返った。それで、お前はこの先どうするのだ? と心の中で問いかける。

 親父に復讐することだけを生き甲斐にしていたあんたは、きっと親父が死んでも奴の亡霊に無意味に復讐し続けるしかないんだろう?

 神崎川は口の端を吊り上げると、そんな兄をじっと見据えた。

 その昏い瞳に囚われた兄は、その闇の深さに気が付くと笑みを吸い取られ、恐怖すら窺わせる青い顔で神崎川を見つめた。

 神崎川は一度目を閉じてから、ゆっくりと兄の瞳を覗き込む。

 そして低く静かに言い放った。

「そういうアンタこそ、生まれてきた価値はあるのか?」

 と…。



 心が酷く擦り切れていた。『波』はいつもよりの激しくうねり、その狂暴さに神崎川自身もふとした瞬間に、その身を切り裂かれそうだった。

 顔色を変え何かをヒステリックに叫んだ兄を残し、職場には急用ができたと告げ、神崎川はそのまま家に向かった。『波』を止められるのは彼女しかいない。結局、モノにあたろうが、浴びるほど酒を飲もうが、他の女をどれほど激しく抱こうが『波』が向かう先はいつだって彼女でしかなかった。

 それでも、あの不気味なものを守ろうと蹲る彼女の姿に興醒めし、最近は完全に『波』を鎮めることはできなくて、ストレスがたまっていたのだが、それはもう、今、あの胸糞の悪い連中の話を聞いたことで限界のようだった。

 部屋の前につくと、鍵を開けるのもどかしく、乱暴にドアを開けた。

「翠?」

 驚きに目を丸める紅がいた。

 そして、その前には。

 神崎川は愕然として、ソファに腰掛けていた彼女の前に並べられているテーブルの上のものを忌々しく凝視した。

「あ、その。そろそろ揃えないとって」

 紅が慌てた様子で、それ、赤ん坊の肌着を仕舞い始める。

 瞬時に、それらを眺め幸せそうに目を細める彼女の顔が想像できた。そして同時に言いようもない荒波が、首をもたげ……。

 気がつけば、彼女の腹を思いっきり蹴りあげていた。

 妊娠を聞いて以来、無意識に避けていたその行動に、自分の心が晴れて行くのを生々しく感じる。

 神崎川の口元に笑みが零れた。

 そうだ、初めからこうすれば良かったんだ。本能に従わないから、こんなに苦しかったんだ。痛みに声も出なく、蹲る彼女に再び足を振りあげる。呻き声に紅の顔が歪んだ。

「す……い。お願い。やめ……」

 よろめきながら、立ち上がろうとする。それでも、腹を守ろうとするその両腕が苛立ちに油を注いだ。


生マレテクル価値ナンカアッタノカ?


 誰かの嘲る声が波間から聞こえた。

 紅が逃げようとする。獲物を追いかける高揚感と、狂気じみた苛立ちが、それを追いかける。廊下を駆け抜ける彼女の足は、いらないものを抱え過ぎて、鈍くて愚かだ。

 神崎川の大きな手が階段の上でその細い腕を掴んだ。紅が恐怖にひきつった顔で振り返る。何かを涙で薄汚くなった顔で、髪を振り乱しながら叫んでいた。

 嬉しくなった。神崎川は微笑む。それでこそ、人間の本質だと…。


そして


ゆっくりと


その手を


離した


彼女の体が宙に舞う


破滅の音を打ち鳴らす


くだらないモノを抱え過ぎた


愚かな女は


奈落に落ちて動かなくなった


真っ赤な池が温かく彼女を包んでいくのを


神崎川は美しいと思った


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