見上げた空に 5
嫉妬という感情を最後に抱いたのはいつだろう?
神崎川は自分の記憶を辿りながら、冬の冴え冴えとした夜空に真っ白な毒の塊を吐き出した。
小樽で自分が話した時から、紅はどうやら自分が梅田蒼汰に対して嫉妬を抱いていると思っているらしかった。
まぁ、確かにそう思うような発言をしたし、彼女に彼と自分のどちらかを選ぶように迫ったのだから、そのように考えるのがごく自然だ。
しかし、やはり神崎川には『嫉妬』という感情の実感はなかった。
ハッキリ言って、蒼汰が紅に付きまとっているのは別に苦でも気にもならなかった。むしろ、紅がいつ彼の元に走るか見ものだと、せせら笑いながら傍観していた節すらある。
紅だって一人の女だ。大切にされればいくら一途を装っていても、靡いて何ら不思議はない。どんなに口では綺麗事を言ったところで、人間は自分が一番大切で、自分が大切にされなければ対象を愛するなんて事はできない。
愛せるのは自分を愛するものだけだ。
「そういうもんだろ?」
呟き、目を細め月のない夜空を見上げた。
今夜は新月か。星がきれいだ。と手の中の毒を肺いっぱいに吸い込み、その夜空を汚すようにゆっくりと吐き出す。
もし、子どもなんかが出来ないで、あのまま穏やかな日々が続いていたのなら、梅田蒼汰の存在の意味も変わり、自分の中でもしかしたら『嫉妬』という感情も生まれたかもしれない。
でも、子どもなんて、こうやって人間の感情を引き出す道具以外の価値のない存在ができてしまった時、神崎川の中で紅はもはや落ち着ける場所ではなくなりつつあった。
だから、持っていかれても特に問題はなかったし、去られたところで痛みもない。
ただ、どうせ紅と子どもを捨てるのなら、もっとも醜い形で彼女から自分の元を去ってほしかった。聖人面した女の本性を見てやりたかったのだ。
だから、早く。
「裏切れよ」
神崎川は低く呟く。
自分の元にいる以上、自分の子どもなんて不気味なものを孕んだ彼女を、自分はそう促し続けるだろう。
どうせ、女は裏切るのだ。
子どものため、という自分勝手な言種で、裏切りという最低な行為を子どものせいにし正当化するんだ。紅もそんな女、自分の母親と同じに違いない。
「梅田君、まだ探せないみたいね」
紅の声に振り向いた。
彼が手伝った完成作品を見て、素直にそのクオリティいの高さに溜息をつき、半分へこみ半分奮起した蒼汰の顔を思い出し、神崎川は苦笑して煙草を灰皿に押し付け立ち上がった。
もし梅田蒼汰に嫉妬するのなら、紅の事よりその素直さだ。
窓を閉め、資料を借りたいと自分の資料部屋に言った蒼汰を心配する紅を見つめる。
「様子を見に行った方がいい」
神崎川はそんな紅の細い腕を掴むと、思いっきり引き寄せた。
簡単によろける華奢な体は、容易く腕の中に納まってしまう。
蒼汰がこの部屋に来てから、彼女の眼は生き生きとしていた。その中に生まれ始めている自分への背徳の感情を、神崎川が見逃すはずはない。素直になれば楽なのに。素直に自分を裏切れば、幸せになれるだろうに。馬鹿な女だ。
神崎川は鼻で笑った。
「翠?」
不思議がる紅の声。
この女はどうして自分の傍を離れないのだろう? 同情か? だとしたら情けななさすぎて本当に笑えてくる。
「紅、楽しいか?」
「え?」
俺にはお前が理解できないよ。
一段上から憐れんでいるつもりか?それとも、惚けたふりして両天秤に掛けて馬鹿にしているのか? 早く、早く本性を見せろよ。人間が一番大切なのは自分自身だって。所詮、自分以外の人間を愛する事なんてできないって証明して見せろよ。
神崎川は小さく笑うと、彼女の背中の向こうに蒼汰の影を見た。
ドアが開く、そのタイミングを見計らって、彼女に深い深いキスをする。
神崎川のいきなりのキスに、紅は動揺し身を固くした。
同じ空間に蒼汰がいるのに。そう思うと、耳の先まで熱くなり、気持ちが焦る。
何とか彼から逃れようと身を捩り、唇を離した。
「翠……何を」
「続けよう」
まだ体温が伝わるほどの距離で囁かれる声、自分の心を見透かそうとする深い闇が瞳を覗き込んでいた。
「梅田が見てる」
「え?!」
心臓が跳ね上がり、振り返ろうとするその頭を神崎川の大きな手が掴み再び強引に引き寄せた。
もう一方の手が腰にまわされ、逃げることを許さない。
蒼汰にこんな所を見られている? そう思うだけで、紅の心臓はキリキリと痛み逃げ出したくなった。
背後で気配を感じる気がする。本当に、そこにいる?
ほんの僅かに唇が離れる。そして、神崎川がその声を口移すかのように呟いた。
「梅田に何もしてやれないなら、期待させるな」
一層強い痛みが胸を貫き、紅は瞳を固く閉じた。
そうだ今夜、彼が訪れると聞いたその時から、神崎川がこうする事はわかっていたはずで、自分もそれを望んでいたんだった。
久しぶりに蒼汰の顔を見て、忘れていた。否、忘れようとしていたが、自分は彼に幻滅されなければならない。
自分は神崎川の女であり、こうやって彼に抱かれている。それが現実だし、これからもそうなのだ。そんな自分は彼に愛される資格なんかない。
「そうね」
紅はそう言うと、今度は自分から深く神崎川に唇を重ねた。自分の指を彼の髪に絡め、深く卑しく求めるように。
ドアの閉まる音がした。
それに紅の体は弾かれるように神崎川から離れ、振り返る。廊下を走り玄関のドアが閉まる音がした。
胸が潰れそうなほどの痛みに顔をしかめる。
これで……彼は、もう……。
「追いかけろよ」
「え?」
神崎川の言葉に紅は眉を寄せ、彼を見つめた。彼は口元に微笑をたたえ、煙草を取り出すと
「ちゃんと、とどめ刺してこい」
無慈悲に投げつけられた言葉は、どんな細い逃げ道も奪おうとするかのようだった。でも、それが正しいのかもしれない。
いつまでも、彼の優しさに甘えるのは、彼を利用するだけして何にも返さないのと同様の事なのだから。
「わかったわ」
紅は頷くと、コートを羽織り、出て行った蒼汰を追いかけた。さよなら、それを告げるために。
蒼汰の背中を見つけたのは、マンションから出てしばらく進んだ先の歩道橋の上だった。
「梅田君!」
紅はその影をできる限りの声で呼び止め、階段を駆け上がる。
「先輩?!」
その様子に振りかえった蒼汰は慌てて駆け寄ってきた。
「走らんといてください! そこで待ってて! 今、行きますから!」
紅の体を気遣ったのだろう、駆け降りてくると少し怒ったような顔で紅を見つめる。
「危ないやないですか」
「ごめんなさい」
紅がそう俯くと、蒼汰は弱ったように前髪をかき回した。
「とりあえず、下りましょ」
そしてゆっくりと足もとに気をつけながら階段の下まで降りる。
深夜の歩道橋には誰も通る気配はなく、蒼汰と紅はしばらく気まずい沈黙に、白い吐息を揺らしていた。
「黙って出てきてすみません」
先に口を開いたのは蒼汰だった。
紅は羞恥心と戸惑いに唇を軽く噛む。
蒼汰は両手をポケットに突っ込むと静かに告げる。
「俺……もう、先輩の部屋には行きません」
その言葉に思っていたより重い衝撃を受け、紅はぎゅっと目を瞑った。仕方ない、そう仕向けたのは自分だ。これでいいんだ。これで……。
「そ、う」
頬を凍らせる冷たい空気。紅は痛みに耐えるように手を握りしめた。
「俺、怒ってるんですよ」
蒼汰の静かな声がした。その声は痛みに耐える紅の胸をさらに深くえぐった。蒼汰が怒っている。当然だと紅は思った。彼がいるのを知っていて、彼の気持ちを知っていて、あんな姿を自分は見せつけたのだから。彼が怒って幻滅して、そして自分を嫌いになって仕方ないのだ。
紅はそう自分に言い聞かせると恐る恐る顔を上げた。
そして小さく息を飲む。
そこにあったのは、怒りに青ざめる顔でもなく、幻滅に脱力する顔でもなく、こんな時にも優しく微笑みかけるそんな顔だったからだ。
「俺、言いましたよね?体も、心も大切にしてくださいって」
「梅田君?」
蒼汰はポケットから出した手で頬をかくと
「俺があの部屋に行く事で、あんな事先輩がしないといけないんやったら、俺、もう行きません。……わざとなんですよね? その、あれ」
苦笑のような泣き顔のような、複雑な表情でそう言う。
紅はもう一度唇を軽く噛んでから、震える声で大気を震わせた。
「何が、言いたいの?」
― 自分は彼を突き放さないといけない
「私は彼と結婚するの」
― 自分は彼に何にも返してやれない
「だから、あんな事普通でしょ?」
― 自分は彼を解放しないといけない
「しないといけない? したくてしたのよ」
― 自分は彼の傍にはいちゃいけない
「私は、そういう女なの」
― 自分は彼が……だから……
紅は一気にまくし立てると、蒼汰に背を向けた。これでいいんだ。自分と彼が会っていれば、神崎川はこれからも彼を傷つける。神崎川だって傷つく。自分にとって彼の存在がどんなに大きくなろうと、彼にとっての自分はマイナスにしかならない。なら…離れることくらいしか、自分にできることはない。
紅は心を落ち着かせるように深く息をつくと、ゆっくり振りかえった。そして、蒼汰を見上げる。優しくて温かいその瞳に、こみ上げる涙を飲みこんだ。
「だか、ら」
さよなら。そのたった四文字の言葉を絞りだそうと唇を動かせる。
が、どうしても切なさが喉を締め付け声にならなかった。
そんな紅を、蒼汰は困った顔で微笑むと、
「先輩」
ぎゅっと包み込むように抱きしめた。
「無理なんてやめてください。これでも、ずっと先輩を見てきたんです。真意なんか演技なんか……それくらいわかりますよ」
「梅田君」
「前にも言いましたよね? 俺」
震える肩を凍える寒さから守るように抱きすくめる、その腕は本当に強くて温かい。
「傷つきませんから。先輩が誰と結婚しようが誰の子ども産もうが、構いません。先輩が幸せでいてくれたら。俺は平気です。俺が一番怖いのは……」
わずかに言い淀み、蒼汰の声色が沈んだ
「俺の気持ちがこんな風に先輩の負担になる事です。好きで居続けるのも、勝負を挑むのも、俺の我儘やってわかってます。せやから」
体が離れ、濡れた紅の瞳を優しい瞳が見つめ返す。
「もう、あの部屋には行きません。俺から先輩たちに連絡するのもやめます」
そして大きな、夏の大地にしっかりと根を張り大空と太陽を仰ぐ向日葵を思い出させるような、そんな笑顔で紅の涙を拭った。
「でも、これだけは覚えていてください。会わなくても、声もメールも繋がってなくても、俺の気持ちはいつだって先輩の傍です。先輩のためにいい映画を絶対に作ります。せやから……」
ふと視線を落とした。
慈愛に満ちた眼差しが見つめるのは、紅の中のもう一つの命だ。
「この子の事も、先輩の体も」
顔をあげ、もう一度紅を見つめる。
「そして心も大切にしてください」
「梅田君」
強く大きな優しさに、言葉を探せなかった。
紅は両手で顔を覆い俯く。はらりと落ちる髪が冷たく、凍えた夜空に上る吐息さえもなんだか悲しく切なかった。
「でも、何かあったら、絶対に呼んでくださいね」
「え?」
にかっと少年のように蒼汰は笑顔を作ってみせると、携帯を取り出して
「最近の正義の味方は、これが鳴れば駆けつけるシステムになってるんです。せやから、SOSはここにお願いします。わかりましたか?」
とおどけて言って見せた。
自分の体を心配しているのだとわかった。その口調に紅は思わず笑みが零れ手を下ろすと
「わかったわ」
素直に頷いた。結局、自分はこんな彼の強さに甘えてしまうのだ。でも、それはもう……。
紅は月のない星が瞬く空を見上げた。暗闇にちりばめられた光は、遠くからいつだって地上を見守っている。その星に紅はこの正義の味方を重ね微笑んだ。
そして、彼をまっすぐ見つめると用意していた『さよなら』の代わりに、こう言ったのだった。
「ありがとう」