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Apollo  作者: ゆいまる
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見上げた空に 4

 その年末年始、紅は神崎川と小樽に戻った。

 挨拶がまだだったのと、神崎川の時間が珍しく一か月ほど空いたからだった。

 小樽と言っても中心地からは少し離れた場所で、窓からの景色も寂しい。

 雪が積もれば人通りも車の通りもぐっと減り、たまに聞こえるのは屋根から雪が落ちる音くらいだ。

 祖父母は初めて会う神崎川を気に入り、神崎川もそつなく接していた。

 紅はその点には不安は感じていなかった。

 神崎川は誰にでもすぐに打ち解けられる。それのスキルは、大学から縁遠く社会にその身のほとんどを置くようになってから、さらに磨きがかかっていた。

 紅は雪が深い外の景色を見つめながら、ドア枠に身を預ける。

 二重になった窓から入ってくるはずのない隙間風を感じて、自分の身を抱きしめるように腕をまわした。

 社会に出れば、才能だけではやってはいけない。

 むしろ飛び抜けた才能は、攻撃の対象にだってなりやすい。

 それをわきまえないほど神崎川も馬鹿ではない。初めから作りたい作品を作れるわけでも、やりたい仕事に携われるわけでもない。

 数ある仕事の中から、次へ繋がるものを選び、コネクションを築き、スキルアップを図らないといけない。それは想像以上にストレスのたまる作業であり、そんな彼を……。

 紅はそっと自分の腹をさすった。この命の存在がさらに苦しめている。

 神崎川の暴力は止まない。でも、自分がこの命を守るように蹲ることを覚えてからは、その暴力さえも不完全燃焼なようで、物や酒に当たることが増えていた。

 辛い? そう、辛いと思えばそうなのだろう。

 そっと携帯に目をやる。時折かかって来る、映画の進行を告げるあの声を待ち遠しく思う自分がいた。

 紅は思い出しかけるそのぬくもりを振り払うように、冷たい景色に目を移す。

 辛くても、哀しくても、まだ正気でいられるのは、あの温もりが包んでくれた言葉があるからだ。

 長い旅路の果てに帰ってきてくれた彼の言葉が、自分をこの世界に縛り付けている。

 そして、それは狂気に蝕まれそうになる瞬間、自分を引き戻し、この命を守らなければいけない彼を、神崎川を守らなければいけない。そんな自分の使命を思い出させてくれるのだ。

 それなのに自分と言ったら、彼にしてやれることなど何にもなくて……。

「紅」

「あ、お疲れ様」

 雪下ろしを手伝い、風呂に入っていた神崎川が、すっかりリラックスした格好で部屋に入って来た。

「そんな所に立っていると、体に障るぞ」

 彼の気遣う言葉は珍しく、紅は僅かに胸に灯った喜びを口元に浮かべて頷き彼の元に歩み寄った。

 胡坐をかいて濡れた髪をタオルでかき回しながら、片手で携帯のメールをチェックする神崎川の顔がほころぶ。

「へぇ、もうプロットがあがったのか」

「え?」

 顔を上げる紅に神崎川は意味深に微笑むと

「梅田だよ。頑張ってるよな。本当に、むきになって、面白いやつだ」

 そういって携帯を紅の目の前で閉じる。

「紅」

 傍に来るように手招きし、紅はそれに従い隣に座るとその方に身を委ねた。

 大きなその胸に、そっと手をあててみる。

 そう、もし心が蒼汰に逃げようとしても、ココから逃れる術を自分は知らない。

 自分の肩を包む大きな腕がさらに引きよせ、自分の額に優しいキスが舞い降りた。

 その心地良さに目を軽くとじる。彼の鼓動、彼の温もり。ひと時の幸せに紅は身をゆだねようとした。その時だった

「楽しいか?」

 耳に冷たい声が届いたのは。

 外の雪は風に吹き荒び、紅の心を凍らせるその声の響きに似た音を灰色の空に撒き散らしていた。

「え?」

 紅は神崎川の変化に、すぐ顔を上げ顔色を窺おうとしたが、肩を強く掴まれそれを許されなかった。

 体が震えた。もう肌に馴染んだ恐怖が指先を細やかに震わせる。

「楽しいよな? 男の気持ちを弄ぶのは」

 神崎川は肩を掴んでいた手を離すと、恐ろしいほど優しく優しく髪を撫でる。

「梅田をどこまで引っ張るんだ? それとも、この俺を苦しめたいのか?」

「そんな」

 紅は固唾を飲みこみ、首を横に振る。ピタリと、髪を撫でていた手が、首筋のところで止まった。彼のその大きな手は、紅の細い首を半分以上も覆う。

「ガキで俺を縛るくせに、他の男にも気を許してさ。いい身分だよな。え? 違うか?」

「翠。違うわ、私は……」

 胸の前で恐怖を抑え込むように両手を重ね握りしめる。

「私が好きなのは貴方よ。貴方を愛してるから、貴方の子どもを……」

「嫉妬させたいならさ、もっとうまくやれよ」

 ぐいっと首に指が食い込んだ。その痛みに紅は顔をしかめ、あげそうになった声飲みこむ。気管を締めあげられているわけではないが、動悸がし呼吸が苦しいのは込み上げてくる恐怖のせいだ。

「違う、わ。本当に、私……」

 気がついて。私は逃げない。ここにいる。私がいるのは、いつだって貴方の傍なのよ。紅はそう心の中で叫びながら、神崎川の瞳を見上げた。

 深く哀しいひび割れた心は、闇そのものとなってその瞳に宿り、涙のない慟哭をあげている。

「お前は、梅田に何をしてやれるんだ?」

「え?」

 不意に首を握りしめていた力が解けた。

 神崎川は目をそらすと両手を後ろ手について天井を仰ぐ。

「俺を試したり、あいつを選びたいのなら、すぐにガキをおろせ。本当に俺とやっていくつもりなら、梅田に期待を持たせるなよ。今、あいつを苦しませてるのは俺じゃなくて、お前なんじゃないのか?」

「翠」

 紅は彼を振り返ると、自分の腹に目を落とした。

 そうかもしれない。 こんなに支えてもらっても、自分は彼に何にも返せない。そう、なんにもだ。

「今度帰ったら、梅田にこの間手伝ってもらった仕事の完成品を見せる約束なんだ」

 神崎川はそう言うともう一度紅を引き寄せた。 そして、まるで悪魔のような魅力的で優しい笑みで囁く

「お前も一緒にその場にいろよ。いいな。必ずだ」

「……」

 紅は瞳を伏せた。

 神崎川の意図がわかっているからだ。

 でもずるくて汚いのは、自分の心の方で、紅はそんな自分がその意図に添うのを拒む権利はこの世のどこにもない事を知っていた。

 もしかしたら、それが自分が蒼汰にしてやれるたった一つの事なのかもしれない。

 軽蔑してくれればいい。幻滅してくれればいい。そうすれば、彼はここから解放される。

 紅は外の真っ白な世界に目をやった。

 そう、彼はこんな冷たい世界に閉ざされた場所にいてはいけないのだ。

 そして、神崎川もまた、こんな不安や苛立ちから解放してやらねば。

「わかったわ」

 紅は小さく答えた。

 神崎川はそんな紅の返事に目を細めると、その唇を食むように重ねた。

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