旅路 11
女主人は他に客がいないからか、さっき北斗が座っていた場所に座り溜息をついた。
「あの子の父親はね、体の大きな外国人だったのよ。本当にいい人で、私達街の人間も彼が好きだった。でも家の中では酷い暴君だったらしくてね……彼の母親や子供たちにも暴力をふるっていたらしいの」
女主人はまるで自分の事のように辛そうに目を細める。
「それで、母親は他の男に溺れて、弟は引きこもり。北斗……あの子は一身に父親の暴力を受けるようになった。それでも彼は自分さえ耐えればいつか、皆でな幸せになれるって、家族を守ろうとしたの」
「そんな」
そんな風には見えなかった。少女のように華奢で繊細で、穏やかな微笑みがよく似合う。そんな少年なのに。
「親の離婚がようやく成立してね、母親は一度は実家に戻ろうとしたらしいのよ。でも、元々勘当状態だったみたい。結局また男の元に戻ってきてね。今じゃ、子どもの所に金だけ置いて、男の所に入り浸りよ」
女店主はその両親については呆れて何の弁護もできない、といった風だった。
「弟と彼はそりゃ、仲が良かったのよ。引きこもりになるまでは、弟の南君の方も、よく見かけたけど、活発で無邪気な子だったわ。それが、引きこもりになって……この春くらいからかしら。たまにあぁやって、北斗くんまで家から締め出すようになったの」
女店主は指を組んで、それに目を落とした。
「だから、さっきみたいに弟からの連絡が来るまで、北斗くんは外にいるの。うちにいてくれて構わないんだけどさ。あぁいう子でしょ? 遠慮しちゃって。夕飯は毎晩食べに来てくれるから、まだホッとしてるんだけどさ」
「じゃ、さっきのテイクアウトは」
「弟の分。健気だよね。それでも、誰も恨まないで、一生懸命に弟の世話をしながら、学校も通って、母親の帰りを待ってるなんて」
おしゃべりな女店主はそう言うと、ようやく席を立って、空いている皿を下げた。
蒼汰には信じられなかった。そんな環境でいて、不安定な恋をしていて、それでも、彼は『幸せ』と言うのか?
一人になった蒼汰は溜息を押し込む様に、すっかり冷えた定食を口の中にかきこんだ。
どれだけ考えても、北斗のいう『幸せ』の意味が理解できなかった。でも、もう一度彼の顔を思い出す。
はたと手を止め、スプーンを置いた。
穏やかな笑顔。すべてを受け入れ、すべてを許し、すべてを認め、なにかを覚悟している……そんな笑み。
「ええ顔やったな」
呟きは、自分が今、探している答えを彼が持っている事を教えていた。
次の日は蒼汰はその夕食をとった喫茶店でバイトをすることになった。
あの後、話し込んでいるうちに気があって、一日くらいなら、と雇ってもらえることになったのだ。
これで、帰りまでの費用は何とかなりそうだ。
女店主の高槻菖蒲は高校生の子どもがいるバツ一で、少し蒼汰の母親と似たような雰囲気の持ち主だった。
高校生の娘も気さくで、なんやかやと閉店までいた蒼汰に泊まっていけばいいのにとまで言ってくれた。菖蒲本人も快諾してくれたし、正直ありがたかったが、その夜は一人で考え事をしたかったので、蒼汰は丁寧に断り車に戻った。
とはいえ、日付が変わるまで北斗の言う『幸せ』を考えても、さっぱりわからなかったのだが。
「車なんかでちゃんと眠れるの?」
開店前の掃除を手伝う蒼汰に、声をかけた菖蒲は「気を使わないで家に泊まればよかったのに」と笑った。
そんな菖蒲に蒼汰はふと浮かんだ疑問を投げかけた。
「どうして高槻さんは、北斗の面倒を見てるんですか?」
「ん? そうねぇ」
菖蒲は椅子を下ろしながら
「彼、バイオリンしてるでしょ? あれ教えたの、私なの」
「へぇ」
ちょっと意外だった。彼女には失礼だが、逞しく笑う彼女のイメージではなかったのだ。菖蒲はそんな蒼汰の心中をすぐに察したのか、照れ笑いに顔を伏せながら
「まぁ、やらなくなってずいぶん経つけどね。私が教えたのはほんのさわりで、あとはあの子の独学なのよ」
「へぇ」
そうは思わなかった。技術的な事は全く分からないが、素人の耳には聞いたことのあるバイオリンの演奏と比べても、彼の演奏は遜色ない。
「バイオリンもね、娘のをあげたの。あの子は全然だったから」
苦笑すると、椅子をちょうど下ろし終え腰をうんと伸ばした。
「北斗くんは環境さえよければ、もっと伸びると思うんだけどね」
北斗は、両親に捨てられ、兄弟に疎外され、才能を持て余され……それでも幸せだというのだ。
彼に比べれば自分は、という比較をしてしまうのは傲慢な思考回路なのだろうか?
蒼汰は掃除を終えて、箒を菖蒲に返すと、ため息交じりに尋ねた。
「それでも、北斗は昨日、俺に自分は幸せだって言ったんです。何でですかね」
強がりには聞こえなかった。だって、彼はそんな中ようやく掴んだ、本当に幸せと言っていいかわからないくらいのものを、部屋という小さな世界に閉じこもっている弟に対して申し訳なく感じているようだったのだから。
「北斗君はね、あぁ見えて強い子なのよ」
菖蒲はカウンターに回ると手を洗いながら微笑んだ。
「梅田君。強いって言う意味、わかる?」
強い?
真っ先にイメージしたのは神崎川だった。いつも堂々としていて、絶対の自信を持ち、人が望んでも手に入れられないほどの才能とカリスマ性を振りかざし、紅を大きな腕で抱え込む、そんな姿だ。
次いで、テレビで見たヒーローやプロレスラー。色々思い浮かべたが、おおよそ北斗のような人物は思い浮かばなかった。
菖蒲は首をひねる蒼汰に苦笑しながら
「北斗くんは強いわ。だから優しいの。今日、彼に会ったら、もう一度彼の演奏を聴かせてもらってごらん。きっとわかるわよ」
「そう……ですか?」
蒼汰は昨日の演奏を懸命に思い出そうとした。けれども、それは北斗のあの笑顔にかき消され、うまく頭の中であの旋律を奏でることはまだ、蒼汰にはできなかった。
夕焼けがやけに真っ赤な空だった。
不気味なほど赤い。その色に蒼汰は魅入られたようにそれを見つめ、流れの速い雲をその眼で追っていた。
明日は雨かもしれないな。そんな事を思っていると、公園の入口の方に北斗の顔が見えた。
「おう!」
手を上げると、北斗はやや浮かない顔でやって来た。
「こんにちは」
「おう。こんにちは」
蒼汰は彼の演奏を早く聞きたい。そんな逸る気持ちを彼のプレッシャーにしないために極力抑えながら、彼の表情を窺った。
「あ、実は、まだ完成できてなくて」
「あぁ。そうなんや」
正直少々残念だったが、本当に申し訳なさそうにする顔にそれ以上そんな顔をさせたくなくて、蒼汰は微笑んで見せた。
「でも、本当に、最後の一小節で迷ってて。そこまでで良ければ聴いてもらえますか?」
「もちろんや」
蒼汰は快く頷くと、ベンチに座りなおした。
北斗ははにかみながらバイオリンをケースから取り出すと、二三度音を確かめてから改めて構えた。
空気が変わる。
北斗の表情もガラリと変わった。
そこには子どもとか、独学だとか、そう言った言い訳は一切なくて、一人の真剣勝負に挑む音楽家の顔があった。
旋律が、夕闇に広がり始める。
蒼汰は目を瞑った。瞼の裏に明るい真っ赤な夕陽に、やわらかな歌声のような戦慄が流れ出す。
戸惑い、くすぐったくなり、不安になり、好奇心をかきたてられ、嬉しくなり、切なくなり、喜びに満ち……やがてその鼓動を打ち出した気持ちは、体温を持ち始める。
風のようにつかめない想いが、確かなぬくもりに変わった時、その恋は……恋は……。
音が途切れた。
蒼汰が目を開けると、その見事な世界を作り出していた音楽家はすっかりナイーブな少年の顔に戻り、困ったように眉を寄せていた。
「すみません。この先がどうしても決められなくて」
北斗はそう言うとうなだれて蒼汰の隣に座った。
彼もまた、迷っているのだと思った。
蒼汰はまだ朝に高槻が言った彼の強さがわからなくて、しばらく耳に残る彼の旋律を辿っていたが、その沈黙に気まずそうにする彼に気がついて苦笑した。
「ごめん。めっちゃよかってんけど……なぁ、何を」
迷っているのか訊こうとして止めた。きっと、それがハッキリしているのなら、彼自身でとっくに解決しているだろう。
何が彼を迷わせているのか。何が曲の完成を阻んでいるのか。
「?」
蒼汰は咳払いすると、質問を変えることにした。
「何か、俺の作品が参考になった?」
「それは、はい。もちろんです」
北斗は目を細めると、珍しく興奮気味に頬を紅潮させてスコアを書き記すノートに視線を落とした。
「好きだ、大切にしたいっていう気持ちを伝えることができるんだって思いました。例え離れていても、言葉じゃなくても、会えなくても」
冷たい風が急に舞い上がった。それは北斗の夕陽に輝く髪を揺らし、木々のざわめきと共に天に昇っていく。蒼汰の胸に嫌な予感が、一瞬過った。
「死んだ後でも」
北斗のそう言った顔は、この世のものとは思えないほど綺麗で、蒼汰は自分の心を掠めた嫌な予感に首を傾げる。
今の、は?
だが、答えは今はここにはなく、すぐに北斗の穏やかな笑みにそんな予感があったのかさえもわからなくなり、蒼汰は考えるのを止めた。
北斗は言葉を続ける。
「だからやっぱり、自分の気持ちを彼女に伝えようって思いました」
そう静かに言った横顔は、初々しい。
蒼汰は指を組むと、やや前傾姿勢で影の塊になっていく木立を見つめた。
北斗も自分も、作品を通して自分の想いを伝えようとしているのは同じなのに、何かが決定的に違っている気がする。それは何なのだろう? それがわかれば彼のいう『幸せ』が理解できるのだろうか?高槻が言う北斗の『強さ』に気がつけるのだろうか?
蒼汰はその答えを探すために、口を開いた。
「なぁ北斗は昨日、自分は幸せやって言ったやんか。あれ、なんでや?」
「?」
北斗は質問の真意がいまいちわからないようで、蒼汰の顔を見つめる。
その視線に蒼汰は説明に困り苦笑し言葉を探した。
北斗はそれで、彼が自分の事情を知ってこの質問をしたのだと悟り、少し気まずそうに目を伏せて鼻の頭をかいた。
「聞いたんですね。うちの事」
「すまん」
「いえ、いいんですけど」
北斗はその秀麗な顔に苦笑いを滲ませると、バイオリンを抱えた。
「正直に訊くけど、辛いやろ? 女の子を好きになった、それくらいじゃどうしようもあらへんくらいに。その恋にしたってライバルは傍にいて、会う事もできへん。不安やないか? せやのに『幸せ』って」
蒼汰の言葉に、北斗はしばらくの間、何かを考えるように黙り込んだ。でも、その沈黙に迷いはなくただただ、言葉を選んでいる、それだけのようだった。
北斗は抱えていたバイオリンを膝の上に置くと、ゆっくりと顔を上げた。
そして蒼汰の目をまっすぐに見つめ、こう告げた。
「それでも、やっぱり僕は幸せなんですよ」
その声は、預言を伝える神の使いのそれのようだった。
「僕は、何も感じなくなることの方が怖かったんです」
そう北斗は言葉を綴り、照れくさいのか視線を長く伸びた自分の影に落とした。
「ご存知の通り、僕の家庭は色々あって……でももう、僕は辛いとか苦しいとかは正直なかったんです。殴られている時も、存在をうとまれるような溜息を浴びせられる時も、思いっきり拒まれる時も、怖いくらいになにも感じませんでした。だから僕は僕の心は死んでしまったのだと思っていました」
影に目を凝らすその仕草は、まるで自分の中の深い闇に目を向け逸らすまいとしているかのようだった。
そんな北斗の横顔を蒼汰はじっと見つめる。
「怒りもない、哀しみもない。そうなると、不思議と笑うんです。僕はそうだった。心の死んだ人間は、何があっても笑ってられる。それでいいと思ってました。それで家族を繋ぎとめられるのなら、僕の心なんか全部差し出して構わなかった。でも……」
闇を見つめる瞳に影が宿る。
「そんなんじゃ、繋ぎとめられはしなかった。父は心を閉ざしたままいなくなり、母は家族に失望し、弟は現実に絶望した。もう無力な僕は、一生、このまま、心が死んだままなんだと思っていました。そんな時だったんです。彼女に会ったのは」
声が一気に明るくなった。瞳に少年らしさが戻り、宿りかけた影が消え去り代わりにほのかな光が灯りだす。
「自分でも驚きました。彼女と居ると、忘れていたはずの感情が戻ってきたんです」
「でも、それはええもんばかりやないやろ?」
北斗は頷く。
「はい。苦しみも痛みもあります。でも」
少年は空を見上げた。
空は何も縛らず、何の境界もなく、ただただそこに広がり二人を包んでいた。その果てしなさに北斗は目を細めると
「彼女の事を想って、涙が出た時、僕は生きているって……そう思いました」
「え?」
蒼汰はまるでそのまま天に吸い込まれていきそうな少年を見つめた。
風は彼の髪を巻き上げ、あたかも高い空の向こうへと彼を誘っているかのようだ。
「父も、母も、弟も心がある。だから辛いし苦しい。必死で何かを大切に想うから、好きだから痛みがある」
そう、そうなのだ。その先に、本当に幸せなんかあるのか?
そこが知りたい。
人を好きになると同時に生まれる痛み。そんなものがあるのに、幸せなんか掴めるのだろうか。
北斗はそんな疑問を口にすら出せない蒼汰の方を振り返った。
そしてその瞳で彼を捉える。深い深い緑色の瞳は、吸い込まれそうなほど優しく底がなかった。
「そんな痛みも、心の一部なんだってわかったんです。痛みも苦しみも感じない頃より、今の方がずっとずっと世界は綺麗だ」
北斗は独り言のように呟くと、バイオリンに視線を戻した。
痛みのある世界。でも、それを否定せずに肯定する彼には、この世界は美しく見えるという事か。
蒼汰は紅の事を思い浮かべた。想っても想っても、空回りする気持ち。悔しくて苦しくて切なくてやるせない気持ち。でも、その痛みこそが、心がここにあり生きている証明だとしたら、その痛みが強いほど、心が生きている証ってことになるんじゃないか。
「僕は痛みは恐れない。何も感じなくなる方がずっと怖いから。だから、痛みを感じる今は、幸せなんです」
そう言った北斗の横顔は、本当に綺麗だった。
その優しく美しい眼差しに、蒼汰はようやく高槻が言っていた彼の『強さ』がわかった気がした。
痛みを恐れない。むしろそれすらも愛していける、そんな強さだ。
答えが出たと思った。
痛みを、苦しみを恐れる必要なんかないのだ。生きている限り心臓が鼓動を打つのと同じ様に、心が生きていれば痛みも生じる。
それだけの事だったんだ。
だから、痛みや苦しみがあるから幸せになれないなんて考え事態が、おかしかったのだ。それは、全く逆で、痛みや苦しみがあるからこそ、幸せを感じることができるんだ。
「おおきに」
自然と、この少年に出会えてよかったと心から感謝していた。そして同時に、これが旅の最後なのだとわかった。
蒼汰に礼を言われた北斗は、照れくさそうに顔を伏せ耳まで赤くしていた。
「その、すみません。生意気な事、言って」
「いや。でも」
でも、ここまで達観していて、なぜこの少年は自分の想いを表現しきることにまだ迷っているのだろう?
蒼汰は不思議に思って北斗の表情を見逃さないように顔を覗き込んだ。
「何を迷ってるんや? ここまでわかってるんやったら、全部を作品にぶちまけたらええやん」
「はい。でも」
北斗は軽く唇を噛む。そして
「弟は、まだ心を殺したままだから。だから、僕一人が幸せになるのを、弟は許してくれてないんです。きっと僕が彼女を好きになった事を、弟に隠してた事が、弟にはショックだったんだと思います。僕は弟の目の代わりだったから」
そう、まるで懺悔するかのように抑揚の失った声で言った。
目の代わり。引きこもりの弟の代わりに外の世界に出て、その様子を話していたという事だろうか? つまり、世界に直接触れて痛みを感じたくない弟は、彼というフィルターを通して世界を経験した気になっていた。だから、兄の心が変化し、全てを話さなくなったのは彼の心が自分から離れて行っているからだと思いこんだ。それで、その事に戸惑い、怒っている。そして、北斗の方は痛みに怯える弟を、そのまま痛みのない世界で守ろうとしている。
……そんなところか?
でも、それは違うと蒼汰は思った。
弟の心を生かしたいのなら、北斗は弟の痛みも肯定すべきなんじゃないだろうか?
「なぁ。北斗は、その弟にどないなってほしいんや?」
「え?」
顔を上げた北斗の不安げな顔を蒼汰は安心させたくて微笑んだ。
「心を殺したままでおらしたいんか?」
「それは」
北斗は首を横に振る。蒼汰は頷き、その頭に手を置いた。
「せやったら。北斗から離れる痛みがあってもしゃあないんちゃうか?」
「蒼汰さん」
「弟君はこれまでの酷い苦しみのせいで、心を殺して痛みを感じなくしてるんかもしれへんけど、そのままやったらアカンかったのは北斗が一番ようわかってるんやろ? 幸い、痛みを分かち合えるお前が傍におるんやん。お前がそのせいで気持ちを抑えるなんて、本末転倒やで」
痛みを無くすのではない。受け入れ、それを乗り越えていく事が大切なのだ。
それは一人でじゃなくていい。
蒼汰は青の事を思い出していた。
そう、傍にいてくれる人間がいるのなら、彼らと一緒に立ち向かえばいいのだ。
時には休んでもいい。この旅のように逃げ道が案外先へ続いている場合だってある。
一番やっちゃいけないのは、気持ちがそこにあるのに否定し背を向ける事だったんだ。
「そう、ですよね」
北斗はうわごとのようにそう呟くと、自分の掌を見つめた。
それは、蒼汰には何かに決別し何かを覚悟しようとしているように見えた。
太陽の最後の光が落ちた。世界は夜が支配する色に変わり、何もかもをうす暗い闇が優しく包み込む。
北斗はバイオリンを手にすると、おもむろに立ち上がった。
そして無言で構えると、すっと瞼を落とした。
生まれたての夜に、艶やかな音色が響きだす。
蒼汰もまた、目を閉じて耳を澄ませた。
その旋律は、やはり様々な感情を内包していた。思わず身を委ねたくなるほどの心地良さに、力が抜け心の鎧が剥がされていく。
がさっき、途切れた部分まで来た時だった。
急にその音が高鳴った。音の綾なる旋律は、何もかもを大きく包み受け入れ、圧倒的な力でそれらを天高くまで一気に昇華させる。そして全てを引き連れ駆け上がると、まるでそうなることが定められているかのように最期の時を緩やかな調べに乗せ、静かに虚空に溶けて消えた。
心が震えていた。その強さと儚さに、蒼汰はこれまでにない感動を覚えていた。
自然と目頭が熱くなり、胸がいっぱいになる。気がついたら立ち上がって拍手を贈っていた。
言葉なんかもう、必要なかった。
−心のあるがままを受け入れる
そのなんと難しく、容易いことか…。
蒼汰と北斗は固く手を握り合った。
そして、この旅で出会った皆の顔を思い出させるような、北斗の強く優しく穏やかな笑みに、蒼汰は旅の幕をゆっくりと下ろしたのだった。