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Apollo  作者: ゆいまる
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旅路 10

 耳に届いた調べがバイオリンのものだとわかるまでに、しばらくかかった。

 それは、東京に入るか入らないか…神奈川との県境辺りだったと思う。

 蒼汰は沖縄から船で戻ってから瀬戸内海を伝い、地元を通り抜け、愛知や静岡を通り、首都圏に入っていた。四国を回れなかったのは心残りだったが、さすがにガソリン代と高速代の兼ね合いでそこまでの余裕がなかった。代わりに自分のホームグラウンドである大阪や奈良は、わりと時間をかけてまわった。

 自分の原点は大切にしたかったのもあるし、知り合いが多い分、会いたい人物がたくさんいたというのもある。

 実際、大阪で泊めてもらった赤也には「お前らしい」笑い飛ばされたし、地元の連れ達には餞別代わりに飲み会を開いてもらえた。その時顔を見せた高校の時の恩師には多少の苦言を呈されたが、別れ際にはそれ以上の励ましの言葉をもらった。

 その仲間の中に茜の顔もあり、蒼汰は地元にはもう何の後悔もなくなったことに、ほっとした。

 実家には二日ほど泊まったが、母親は大学にも行かず放浪している息子を責めることはなく、拍子抜けするほどいつもと変わりなかった。

 ただ、実家を後にする時にバックパックに交通安全の真新しいお守りがくくりつけられているのを見た時に、蒼汰は改めて母親の深い思いやりと理解に感謝したのだった。

 そんな感じで、ずっと出発した土地を目指してきたわけだが、どうにもこうにも、船の上で感じた迷いはまだ断ち切れないでいた。

 人を好きになれば同時に苦しみと痛みが訪れる。

 それがわかっていて、なを求めてしまう気持ちは何なのか。そんな痛みを伴うものの先に幸せなんかあるのか。もしかしたら、傍にいられたところでそれは一生続いて、苦しいだけではないのか?

 この疑問が、ずっと最後のトゲのようにチクチクと引っかかってスッキリと心は晴れなかった。

 映画の構想も、ほぼ纏まりつつあるのに、この疑問のせいでラストだけが決まらない。

 蒼汰が考えていた物語は妹を女性として愛してしまった男の話だ。

 彼は妹が、本当の妹ではないと知った時から彼女を意識し始めてしまい葛藤する。妹は、病弱な自分に両親があてがった許嫁だったのだ。それを知らずに、自分を兄として、両親を親と信じて無邪気に明るく過ごす妹を守りたくて、家を出てしまう。そして、妹が家を出るための金を稼ぐために、自分や家から彼女を解放し彼女が自由な人生を選べるように、遠い街で働き始める。しかし、病魔が襲い、志半ばで命を落としてしまう事になる。そして、一通の手紙を妹の元へ送る。彼女を傷つけないように、彼女の幸せだけを願い。それを受け取った妹は、何の事実も知らないまま、失踪してしまった兄からの手紙を頼りに彼の足跡を追っていく。そして彼女は……。

 そこで詰まっていた。

 正直、主人公を兄に据えるのか、妹に据えるのかすらまとまっていなかった。

 一番の悩みは、妹が真実を知る必要があるのかどうか。そして兄が最後まで自分の気持ちを伝えずに逝くのかどうか。とういう点だった。

 愛を知れば苦しみがやってくる。果たしてそんな苦しみを、妹に遺していくだろうか?

 それとも…。

 そうやって公園のベンチでノートとにらめっこしている時だったのだ。その旋律が優しく耳をくすぐったのは。

 蒼汰は思わず目を閉じ、その晩秋の夕闇に時に悲しく、時に喜び、時に弾み、そしてすべてを柔らかく包む流れに聴き惚れた。

 そのメロディはまるで恋愛そのものだった。

 自分が今悩んでいるようなものとは少し違う。そのメロディが奏でる想いは、ただ誰かを好きで、そんな自分に少し戸惑っていて、でもやっぱり心は今まで知らなかったような甘い痛みでその気持ちを教える。まるで初恋のような想いだった。

 音の流れはまろやかな感触で大気を覆い、夕焼け空に溶けていく。

 蒼汰は青の家で多少クラシックを耳にする程度でしか、この方面の音楽になじみはなかったが、それでも心をとらえるこの旋律の素晴らしさは感じ取ることができた。

 如実に心情をなぞるその音の流れは、素直でそれでいて透明だ。

 しかし、それが急に中断された。

「あれ?」

 蒼汰は不思議に思い目を開けた。

 今のメロディを奏でていた人物を探してみる。どうしても最後までその曲を聴きたかったからだ。

「えと……へ?」

 それらしき人物の影に蒼汰は目を丸めた。公園の端の方。そこにバイオリンを持って立っていた、あの素晴らしい演奏をしていたらしき人物は、まだ中学生くらいの幼い顔立ちの少年だった。

 その少年の風貌は少し変わっていた。すらりと伸びた手足はしなやかで、柔らかそうな明るい茶色の髪には人工的な不自然さはない。白い肌はまるで穢れを知らない新雪のようだった。

少年はその秀麗な造形の顔立ちで、しばらく歌わなくなったバイオリンを見つめていたが、彼を見る蒼汰の視線に気が付き顔を上げた。

「あの?」

「あ、あぁ……すまん」

 蒼汰は気まずさに苦笑いすると、警戒させないように距離を詰めるのは控えた。

「その、ええ曲やなぁって。なんて曲なん?」

 少年はシャイなのか、一瞬僅かに顔を強張らせたが、その演奏を褒める言葉に目を伏せて口元を緩めた。

「……僕が作りました。題名は、まだ」

「へぇ〜。すごいなぁ!」

 素直に驚いた。蒼汰は目を丸めると、困ったような少年の横顔を見つめた。

「で、よかったらさっきの続きを聞きたいねんけど」

 少年は目を合わせようとしない。代わりに申し訳なさそうに片手で持っていたバイオリンを両手に持ち直し、それを見つめた。

「すみません。まだ続きは、ないんです。どうしても、最後の部分が思いつかなくて」

「それなら俺と一緒やな」

「え?」

 思わず口をついて出た言葉に、少年は意外にも敏感に反応してきた。

 蒼汰は暗くなる空を気にして見上げる。この少年ともっと話をしたかったが、あまり少年が遅い時間まで外を出歩くのは物騒な気がしたからだ。

「家には帰らんでええんか? あんまり遅いと、知らん人にさらわれるで?」

 笑顔のない彼に、わざと小さな子供に言うように冗談めかして言ってみると、少年は初めて蒼汰の顔をまともに見て

「家にはまだ帰れないんです」

 と寂しそうに笑った。その笑顔は紅のそれを思い出させた。

 彼女は今、どうしているのだろうか?

 彼女に最後会ったのはいつだろう?

 会いたいなぁ。

「あの、お兄さんは何の楽器されているんですか?」

 少年の声に我に返り、蒼汰は苦笑した。さっきの言葉を少年は作曲と間違えたらしい。蒼汰は前髪をかき回してどう説明しようか悩みながら

「な、君の知ってるところでかまへんから、どっか飯食いにいかへんか?」

 ナンパか? 自分で突っ込みながら、なるべく不審がられないように誘ってみた。

 少年は警戒を完全には解きはしなかったが、本当に今は家に帰られないのだろう、いつも夕飯を食べにくるという喫茶店に蒼汰を案内した。


 口数が少なく、物静かだ。

 年は十四だと言っていたが、それより遥かに落ち着いており穏やかだった。

 まず美少年と言っても問題ない容姿なのに、それに裏付けされるような少年特有の不遜さも持ち合わせてはいなかった。

 この年頃は、なにも自慢するものがなくても傲慢で、また何も劣っていなくても卑屈になったりするものなのだが。

 蒼汰は自分が彼と同じくらいの年の頃は、空手と漫画と友達と遊ぶことに明け暮れていたことを思い出し、この少年とのあまりの違いに苦笑いした。

 喫茶店に顔を出すと、そこの女店主は少年をよく知るようで、親しげな笑顔で招き入れてくれた。

「いらっしゃい。今日は何にする?」

「日替わり定食お願いします。あ、お兄さんは……」

「一緒でええよ」

 蒼汰はそう答えると向かいに腰を下ろした。女店主は「いつも日替わりなんだよねぇ」とまるで少年が食事に頓着しないことを蒼汰に教えるかのように口にした。次いで、蒼汰をみて

「こちらは?」

「あ、えと」

 尋ねられた少年は少し困ったような顔をする。正直に答えていいものか蒼汰も一瞬測りかねたが、きっと妙な憶測を彼は嫌うタイプだと根拠なく感じ

「さっき、彼が自分の財布を拾ってくれたんです。それで、お礼にってわけで」

 まひるとの事を思い出しながらそう口にした。女店主は納得したらしく、不思議と少々残念そうな顔をして

「そうかい。北斗くん、良い事したねぇ」

 と無難な返事をしてカウンターの向こうへと戻って行った。

 少年は蒼汰のとっさの嘘に戸惑っている様子で、バイオリンケースに置いた手を見つめた。こんな些細な嘘にも動揺するなんて、繊細なんだな。なんて感想を持ちながら蒼汰は水の入ったグラスを傾け唇を湿らせると、こちらから口を開くことにした。

「自己紹介がまだやったな。俺は梅田蒼汰。今、日本一周の旅の途中で、大学で映画を作ってるねん」

「映画」

 少年は大きな瞳を上げた。そこに僅かな好奇心の光が宿る。

「そ。さっきの最後の部分に悩んでるって言うのは、映画の事。ごめんな。俺、音楽はさっぱりやねん。でも、君。えと……」

 さっきの女店主は『北斗』と呼んでいたか。

「僕は天沢北斗と言います」

 蒼汰の言いよどんだ声に、少年は微笑みながら答えた。

 初めて見せた少年の笑顔。それはまさに天使の様だった。蒼汰は思わず溜息をつきかける。

しかし、北斗少年本人は自分のそんな容姿の美しさもさっきの演奏の素晴らしさにも気が付いていない様子だった。

 蒼汰は、青といい彼といい、結構、神様が与えた贈り物を粗末に扱う人間はたくさんいるんだなと半ば呆れた。

「んじゃ、北斗でええかな? 北斗の曲の凄さっちゅうか、そういうのは、わかったで。あれは、なんかのコンクールにでも出すんか?」

 そういう蒼汰の質問に、北斗は首を横に振った。そしてまた困ったような顔をして、俯く。

白い肌に赤みがさして、まだ男性に移行しきれていないその頬と長い睫毛に潤む瞳は、少女のようにも見えた。

 沈黙に、カウンターの向こうからの、フライパンが食材を美味しい料理に変身させていく音と、有線のクラシックが空耳のように流れた。

「その……ある子に、プレゼントというか、贈りたくて」

 ようやく耳に届いた北斗の声は少し震えていた。

「あぁ」

 北斗のその様子と、さっきの旋律。勘は蒼汰に囁く。初恋の子に向けた曲なのではないかという事を。

「そうか」

 あの曲を聞いた時の甘酸っぱさが蘇ってくる。きっと、このシャイで口下手な少年は、作品を作ることで自分の想いを伝えようとしているのだろう。

 そう思うと、途端に親しみが込み上げてきた。作品を作ることで、目標を超え好きな人に何かを伝えたい。そう思う自分と似ていると思ったからだ。

 蒼汰は少年からあえて視線をはずして外を見ると、頬杖をついてもうほとんどを夜に支配された赤黒い空に目を細めた。

「俺も一緒やで」

「え?」

「俺ももしかしたら、たった一人の人のためにこの映画を作りたい。そうなんかもしれへん」

 蒼汰は随分自分勝手な言い草だと思いながら、溜息を吐きだした。サークルは私物じゃない。部員皆のものだ。だけど……。

「あの、梅田さん」

「ん? 蒼汰でええで」

「じゃ、蒼汰さん」

 年上を名前で呼ぶのに気後れするらしい北斗は、その緑がかった瞳で蒼汰を見つめると、彼なりの精一杯の勇気なのだろう、顔をさっきよりさらに赤らめて

「良かったら、その作品の事を聞かせて貰えませんか?」

 真剣な目で言ったのだった。


 北斗は真剣な顔で蒼汰の話を聞きいった。

 料理が来ても、手をほとんどつけることなく、まるで蒼汰の話の中から何かを探し当てようかとしているようだった。

 話しながら、蒼汰のほうも細切れに少年の話を聞いた。

 彼の恋の相手は一つ下の女の子で、今年の春に母親の故郷に訪れた時に出会ったんだそうだ。

「一緒にいられた時は、ただ、それが嬉しくて……ここに戻らなきゃいけなくなることはわかってたんだけど、考えたくなかった。それに、友達もできたんです」

 北斗はそう言うと、すっかり星影が鎮座する夜空に目をやった。

「彼も、彼女の事が好きだって。でも、それをお互い打ち明けたのは、もう僕が帰らないといけない日で。だから、彼は一年待つって言ってくれました。出し抜くような卑怯な真似は絶対しないから、必ずまた戻って来いって」

 嬉しそうに目を細め、北斗は蒼汰の顔を見た。

「僕は曲を贈るって言う彼女との約束も、また戻るっていう彼との約束も果たしたいんです。でも……」

 北斗の瞳に影が差す。

「それでいいのかなって、迷ってます」

「なんで?」

 そんな約束を交わせるなんて、凄く良いと思う。

 告白の行方がどうなるのかわからないが、少なくとも、自分たち三人の関係よりずっと、シンプルで、その分純粋だ。

 北斗はバイオリンケースに重ねたノートにそっと手を置くと

「僕には病気の弟がいるんです。彼はその、説明は難しいんですけど……僕ばかりこんな幸せでいいのかなって」

「幸せ?」

 実るかどうかもわからない恋をして、しかも自分は会えないのに相手の傍にはライバルもいて、それでも幸せ?

 蒼汰はこの少年の言っていることがわからなかった。

 初恋はそうなのか? ただ、楽しい。それだけなのか? いや、先ほどからの旋律では、そうは感じなかった。初恋の中にもやはり、切なさも苦しみも不安もあって……なのに幸せ?

 北斗は凝視する蒼汰の視線に照れるように目を伏せると、小さく頷いた。

「人を好きになれた。だから、僕は幸せだと思います」

 頼りない小さな声だ。でも、その言葉には確かな強さがあった。

 ふいに電子音が鳴る。北斗が弾かれるように顔を上げた。みると、彼の後ろの女店主は複雑そうな顔をしている。

「あ、すみません。僕、帰らないと」

「そうか。送ろうか?」

 腰を浮かしかけた蒼汰を、北斗は止めた。

「大丈夫です。一人で帰らないといけないから」

「?」

「ごちそうさま。高槻さん、すみませんが」

 北斗は立ち上がり荷物を手にすると、振り返った。

 女店主はいつもの事なのだろうか、注文していないテイクアウトの箱を差し出した。

「気をつけて帰りなよ」

「はい。いつもありがとうございます」

 北斗はそう言うと頭を下げ、蒼汰を見た。

「梅田さんはいつまでこちらに?」

「ん? 決めてへんけど」

 それを聞いた北斗は微笑んだ。

「じゃ、また会えますか? 梅田さんのおかげで、続きができそうな気がするんです」

「わかった。じゃ、明日、同じ時間に同じ公園でどうや?」

 蒼汰も実のところ彼にはもう一度会いたい気がしていたから快く頷いて答えた。

「はい。じゃ、失礼します」

「ほな、また明日」

 まだ華奢で作られていない背中が出て行く。

 ドアベルの余韻が消える頃、女店主が独り言のように話はじめた。

「久しぶりですよ。あの子が、あんなに生き生きした顔で人と話しているのを見たのは」

「え?」

 ここに来て、首をひねることばかりだ。蒼汰は北斗を母親のような眼差しで見つめていた女主人に、説明を求めるように見つめた。

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