旅路 9
中庭にはすっかり秋が溢れ、隣を歩く彼女の髪をなびかせる爽やかな風は豊かな季節の輝きが宿っていた。
その美しさに、藍は一瞬見とれてしまい、すぐに嫌悪感が込み上げた。
それはこの女性への嫉妬なのか、それとも嫉妬する自分へのモノなのかは判然としなかったが、とにかく、この穏やかな時間にはおおよそ似つかわしくない感情だ。
「ここに。かけましょう」
「いいわ」
その女性のどこに、もう一つの命が宿っているのだろう?
先日聞いた、彼女の妊娠は嘘なんじゃないかと疑いたくなるほどの細い体に、藍は同性の自分さえ気おくれしてしまいそうな脆さを感じ、彼女が自分のさしたベンチに座る、その仕草でも少々ヒヤヒヤした。
「大丈夫よ」
そんな自分の気持ちを察したのか、静かな声は逆に気遣いに彼女を見上げ微笑んだ。
その泣きぼくろの笑顔に、藍は目をそらす。
蒼汰が恋した笑顔。
蒼汰はこの笑顔のためにこれまで、どれだけ走ってきたのだろう。
あの携帯の着信音が鳴れば、どこでもいつでも雪の中だって飛んで行っていたその背中を思い出す。
胸が締め付けられ、藍は顔をしかめると半人分開けて腰を下ろした。
膝の上に置いた手が握りしめるのは、切なさと悔しさだ。
自分の言葉を黙って待つ紅の余裕にも腹が立った。
遠くを見る陽に透けた色素の薄い瞳には、何が映っているのだろう。
蒼汰の眼にはいつだって、彼女しか映っていなかった。
なのに……なのに……。
「蒼汰がいなくなったんです」
紅の目が伏せられた。長いまつ毛が影を作り、肩でその絹糸のような髪が揺れた。
「いつ」
「わかりません。でも、青くんの家の前にハムスターの籠が置かれていたのは十日ほど前の朝です」
紅の目が苦しげに細められた。藍はその顔に思わず罵声を浴びせたくなる。そう彼にさせたのは貴女だ、アナタのせいだ、と。
しかしそうはせず、藍はその衝動を握りつぶすと、代わりに溜息をついた。
「携帯は通じません。行き先もわかりません。ただ、車がなくなっているので、車で出て行ったんだと思います」
「そう」
吐息のような返事。それだけでは全く彼女の心中を察せない。藍はもどかしさに唇を噛む。
それだけ? それだけなの? あんなに、一生懸命自分を大切にし、見つめ、追いかけた彼を、こんな形で切り捨てておいて、たったそれだけ? そんなの、酷過ぎる。
藍はぎゅっと目を固く瞑った。
いつだって、見ていた。
どんな時も、彼女への想いを貫いてきた彼を。
何があっても、挫けないで目標に突き進む彼を。
辛さも、苦しみも微塵も見せずに、笑って見せていた、彼を。
だから、心が痛いのだ。蒼汰の事をずっと見てきて、彼の気持ちを知ってるから。
「先輩は、学園祭、来てくれませんでしたよね」
「ごめんなさい」
抑揚のない声にどんな気持ちが込められているというのか。蒼汰の気持ちの百分の一でも感じてくれてはいないのか。
「蒼汰くん、先輩に見てほしくて、すっごく頑張ってたんです。先輩、彼から何にも言われてませんでしたか?」
「メールが、あったわ。でも……」
でも、来なかったのか? 藍はカッとして、顔をあげるとその白い彫像のような横顔を睨みつけた。
「じゃ、どうして見てあげてくれなかったんですか? 先輩、知ってるんですよね? 蒼汰くんの気持ち。迷惑だったんですか?」
無意識に声を荒げていた。そんな藍を紅は僅かに驚いた様子で見つめる。しかし、もう、今更そんな顔を見せられたところで、藍の気持ちは収まりそうにもなかった。
「迷惑なんだったら、ハッキリ言ってくれればよかったじゃないですか! 神崎川先輩が彼氏なのは蒼汰くんも知ってました。それでも、諦められなくて。でも、紅先輩さえちゃんと、こうなる前に切ってくれてたら、蒼汰くんはこんなに傷つかなくて済んだんじゃないんですか?」
「御影さん」
紅が息を飲むのがわかった。
ずっと思ってきたことだ。言わなかったのは、そうする事であの真っ直ぐな笑顔が消えてしまうんじゃないかって怖かったからだ。
そう、この紅葉に美しく色づいた末に散ってしまう落ち葉のように、あの高い場所から彼の気持ちが振り落とされるのを見たくなかったのだ。
「そうね、貴女の言う通りだわ」
言葉少ない彼女の真意はどこにあるのだ? まるで霞と話している様だ。
藍は興奮に火照った頬を覚ますように、視線を彼女から外し、地面に落ちて踏み固められた惨めな葉を見つめた。
「彼が無事帰ってきたら……ちゃんと、先輩から彼を切ってあげてください」
自分が言う筋合いの事ではないのは重々承知だ。それでも、こんな彼女の態度が曖昧なままでは、きっと蒼汰は想いを断ち切れずまた傷つくだけだ。そんなのもう、見たくない。
藍は込み上げてくる涙を、この女の、彼の気持ちを離そうとしないこの女の前では絶対零すものかと唇を噛みしめて堪えた。
「御影さんは、梅田君が好きなのね」
穏やかな声は嫉妬に歪んだ心には憎々しく響く。
「先輩には答えたくありません」
拒絶する。紅はそんな藍の頑なさに、ため息のような苦笑を落とした。
「そうよね。ごめんなさい」
そして、何かを深く考えているような沈黙を置く。
落ち葉が風に揺さぶられ、こすれあう乾いた音がした。遠くで聞こえるブラバンの下手くそな不協和音が、そんな静寂を興醒めさせた。
紅は細く長い指を組むと、視線を再び上げた。藍はその指を見つめる。
「申し訳ないけど、私からそれを言う事は出来ないわ。そんな資格、私にはないから」
「?」
「でも」
口を開きかけた藍の言葉を、囁きのような声が奪う。そしてゆっくりと顔を上げ、藍の瞳をその透明な瞳で捕らえた。
「私から彼に連絡はしないし、私は必ず神崎川の子どもを産むわ。そして、神崎川が望む限り彼と結婚する」
「先輩」
「それだけは、貴女に約束するわ」
断言する声は、決して大きくないのに、藍をそのベンチに縛り付けるのに十分なほどの力を持っていた。
「行くわね。神崎川が待っているといけないから」
すっと立ち上がる。その佇まいは、やっぱり美しくて……。
「わかりました。お体に気をつけて」
「ありがとう」
木の葉を鳴らしながら細い背中が遠ざかる。
蒼汰は、あの背中を追いかけていたのだ。
藍はようやく、自分の頬に涙が伝うのを感じた。ここにはいない、彼を想う涙はどうしようもないくらいに胸を締め付ける。
涙に歪む彼女の後姿。
蒼汰はそれを抱きしめたいと思ったのかな。
あの綺麗な横顔に触れたいと思ったのかな。
儚げな瞳の色に胸を焦がしたのかな。
私は、そんな貴方の傍に居たかったよ。
藍は視界から追い払うように目を固く瞑ると、冷たい秋風が運ぶその後姿の気配が完全に消えてしまうまで、そこから動けなかった。