旅路 8
人生の中で、寿命が縮まる瞬間と言うのは何度か訪れる。
五十年近く生きていて、そのベスト20の中に確実に今日の事は入るだろう。
三宮は動揺を煙に逃がしながら「これ以上年寄りをいじめてくれるなよ」と苦笑いした。
彼らの来訪、それ自体が寿命を縮めたわけではなかった。
教え子の結婚報告は、これまでにも何組か聞いた事はあるし、そのうちの数組は仲人までした。仲人をしたその本人が離婚したとあっては、今は少々申し訳なく感じるが。
それに、彼らの結婚を予想できなかったわけでもない。
だから、神崎川翠と中津紅がそろって研究室を訪れ、その報告をした時、三宮は二人の選んだ道に理解を示した。
梅田という男を気に入っていた手前、多少は残念な気もしたが、彼らが出した結論にケチをつけるほど野暮ではない。
ただ、いつもにまして顔色の悪い紅が気になったが、さすがにこの時期に『あれ』もないだろうと、初めは希望的観測で彼女を見ていた。
研究者としては、仮説を立てるのは悪くはないが、それをファクターとして観察するのは良くなかったかもしれない。
三宮はそんな事を反省しながら髭を撫でると、神崎川と約束した時間を気にして時計を見上げた。コーヒー一杯くらい飲む時間はあることを確認し、最近、大学の仕事に追われて運動不足な体を椅子から引きはがす。
寿命を縮められたのだから、バッティンティングセンターくらい神崎川につき合わせてやろうと思いつき、コーヒーを注ぎながら先ほどの事をもう一度思い出した。
彼らが訪れたのは遅い昼食を済ませて帰って来て間もない時だった。
ドアのすりガラスに映ったでかい影と寄り添う細い影で誰だかすぐにわかった。
「ご無沙汰してます」
部屋に入ってきた神崎川はそういって頭をさげ、立ったまま彼女の妊娠と結婚を報告したのだった。
久しぶりに話し込んだ彼らは、相変わらずだった。
常に神崎川が前に出ていて、紅はそれに従う。それは神崎川が紅を他人に取られまいと隠しているようにも見えるし、そんな彼を紅が支えているようにも見えた。
それを象徴する様に神崎川といると、紅は口を開くことはまずなかった。すべて神崎川が答えてしまうし、彼女への質問も彼が取り上げてしまい彼の出した答えに紅は添うように頷くだけだ。
きっと、この大学にいるフェミニストな教授たちが見れば眉をひそめてやまないだろうな、などと三宮は多少意地悪に思ってしまう。
「俺も忙しいし、彼女の体調もあるので式は挙げませんが、卒業と同時に籍を入れる予定です」
想像していたより、結婚にノリ気な神崎川に三宮はほっとしていた。どこか家庭向きな感じがしない男だったが、子どもができて変わったのだろう。そう踏んで、紅の方に『良かったな』と視線を送ってみた。
しかし、反応がいまいち薄い。不思議と彼の変化を手放しの喜んでいる様子ではなかった。
三宮は妙に引っ掛かり、しばらく考え片眉をあげると「まいったな。『あれ』は解決していないのか」と内心溜息をついた。
その時だった
「すみません」
来訪者がドアをノックした。その声に、三宮は慌てて腰を浮かす。皮肉なタイミングに舌打ちしかけた。
「御影ですけど、教授、いらっしゃいますか?」
君が誰だかわかったから困ってるんだよ。そう内心で呟く。
向かいの二人が出ないのかと不思議そうな顔をして三宮を見つめるものだから、三宮は苦笑いをおしとどめて「いるよ」と足早にドアに進んだ。
頭の中で手のかかる生徒たちの相関図が浮かぶ。
確か、梅田は園田と親友だ。その園田はこの御影が好きで、そして御影は……。
一度キョトンとする紅を振り返った。
この紅を想う梅田が好きなのだ。
塚口の見立てが半分だから、まず間違ってはいないだろう。いわば、藍にとっては恋敵に当たる彼女との遭遇ってことになる。あまり望ましい事態とは思えなかった。
「どうした?」
三宮は自分の小心さを自嘲しながら中の二人を隠すようにドアを開けた。
藍は思いつめた表情だ。
「あの、先生。蒼汰……梅田君から連絡ありませんか?」
「え?」
よりによって、その名前を今、ここで出すか?
後ろにこの名前が聞こえていないか気になりながら、「いや」と首を横に振った。
藍はその返答に、心底残念そうな、今にも泣き出しかねない顔をする。
「連絡が取れないんです。お家にもいなくて。青く……園田君の家にハムスターを預けたきり。園田君は大丈夫って言ってますが、私、心配で……。だって、梅田君、打ち上げで先輩の……」
まずい。これを二人に聞かれてはいけない。特に、今、大きな決断をした紅には…。
三宮は慌てて、不安が堰を切った様に言葉をあふれさせる藍に片目を瞑ってみせると、自分の口に指を立てた。
藍が不思議そうに眼を丸め三宮を見つめた瞬間だった。
「え、梅田君、どうしたの?」
この部屋に入って初めてまともに紅の声がした。
三宮は頭を抱えたくなった。どうして、こうもタイミングが悪いのだ。知らなくていい事を知る必要は、これから幸せになるべき者にはないのに。
紅の声に、藍の表情がさっと変わるのがわかった。
「あ、あのな。御影、今、接客中で……」
「御影さん。梅田君がどうかしたの?」
紅はらしくないほどに動揺し、どんな時も離れることのない神崎川の傍から席を立った。藍は半ば睨みつけるような顔をする。
「ちょうど良かったです。私、先輩に訊きたいことがあるんです。こちらの用事が終わってからで構いません。お時間いただけませんか?」
まるで挑戦状をたたきつけるかのような物言いだ。
三宮は何故だかハラハラしながら二人の女性が対峙するのを見守った。助けを求めるように神崎川に視線を泳がすが、当の本人は楽しそうだ。悪い癖はまだ治らんか。三宮は溜息をつくと、紅がその隙を突くかのように口を開いた。
「今からでいいわ。ね、翠、いいでしょ?」
「かまわんよ」
三宮は、こんなにはっきり自分の意思を神崎川に言う紅を初めて見て驚いた。
「じゃ、すみません。失礼します」
そう、紅を見据えたままの藍に紅は目を逸らさなかった。
「私も、失礼します」
いつの間に、こんなに強くなったのだ。三宮は意外な紅の顔に情けなくなるくらい狼狽し
「あ、あぁ。またな」
と間の抜けた返事をして二人を見送ったのだった。
「先生」
二人の背中が廊下の向こうで消えた時、神崎川が呼ぶ声がした。振り向くと、彼は心底楽しそうに目を細め
「人間って面白いですよね」
そう零した。
三宮はその言葉の意味に眉を寄せ、口元だけは笑みを浮かべて見せる。
「まったくだ」
わかったのだ。神崎川が結婚にノリ気の理由が。
奴は愛情を信じ始めたわけでもない。家族を持つことに夢を見ているわけでもない。ただ『観察』したいだけなのだ。
この結婚と出産でもたらされるであろう、人々の葛藤と苦悩を。
「神崎川、今夜飲みに行こうか」
「ええ。いいですよ」
神崎川は相も変わらないその瞳で頷いたのだった。
三宮は空になったコーヒーカップを置くと、時計を見上げる。
そろそろ、彼との約束の時間だ。年をとったところで、自分ができることの少なさを思い知るだけだな。三宮は髭を撫でると煙草に手を伸ばして、今日の分はもう一本も残されていないのに気が付いた。
そして苦笑いで、その空箱は自分のようだと握り潰したのだった。




