旅路 5
その町は、自分たちの大学がある街とどこか似ていた。
川が行き過ぎ、その近くに大学らしき建物が見える。
なんだか懐かしくなって、蒼汰は車を止めると、その川沿いを歩いてみた。
アスファルトで覆われた息苦しそうな河原とは違って、その河原では秋の草花が伸び伸びとそよぎ、秋風までもが楽しそうだ。たゆたう水面が夕陽を反射し煌めき、幻想的ですらあった。
一歩一歩踏みしめながら歩くと、足の裏に跳ね返ってくる土の感触が気持ちいい。
蒼汰はいつしか、歩くこと自体に夢中になっていた。
そんな彼にふと影が差す。見上げると、高架橋の下だった。
刹那。世界が形を変えた。
蒼汰は自分を取り囲む異質な世界に息を飲む。視覚が歪み、さっきまで確かに感じた地面の感触が急に頼りないものになった。自分はいったいどこにいる? ここはどこだ? 不安と衝撃に、思わず立ちすくみ目を凝らす。
その世界の正体。それは高架橋の下一面に描かれた壁画だった。
見たこともない、いや想像すらした事のない奇妙でどこか寂しく、優しい世界だ。
海は空で、空は海で、光は闇となり闇が光り輝いている。すべてがひっくり返り、そこには拒まれるべきものは何もない。荒唐無稽なのに圧倒的な存在感で見る者を強引に引き込む力に、蒼汰は圧倒された。
神崎川の作品を見た時以来の衝撃に、身じろぎひとつできなくなる。
どれくらいの間、その壁画と睨み合っていただろうか
「すごいだろ」
ふいに背中に声がぶつけられた。
蒼汰はその声に金縛りを解かれように我に返り、ゆっくりとを振り返った。そこには高校生くらいの少年が、自慢げにその絵を見上げている姿があった。
「あぁ、凄いな。これは……」
素直に相槌を打つ蒼汰に、少年は蒼汰と肩を並べると、その壁画を愛おしそうに見つめた。
「父さんが描いたんだ。正確に言うと、父さん二号が」
「へ? 二号?」
再婚でもしたのか? その言い方に蒼汰は首を傾げた。
そんな蒼汰に少年は顔をしかめる。
「ねぇ、アンタ、浮浪者? この芸術がわかってそうだから声掛けたけど、意外と汚いね」
随分ものをズケズケという少年だ。多少は傷ついたが、本当にここ数日は風呂に入れていなかったから、そう言われても仕方なかった。
「浮浪者やなくて、旅をしてんねん。車で、日本中な。あ、せや、良かったらこの壁画も写真撮ってもええやろか?」
別に、公共物に描かれたものだから、この少年に許可を得る必要は全くないのだが、蒼汰は勢いで少年にそう尋ねてみた。
少年はそんな蒼汰自身の方に興味を持ったらしく、答えないで逆に質問してきた。
「ねぇ、あんた、これ持ってどこ行って来たの?」
「ん? せやな、町を出てずっと北上して北海道まで行って、ここまで南下して来たから……日本の半分くらいは廻ってきた事になるな」
それを聞いたとたん、少年の目は輝いた。
「すごいや! ねぇ、その話し聞かせてよ! 今日、泊めてやるからさ」
何とも突拍子もない申し出だ。
「へ? でも…」
ありがたいことこの上ないが、こんな不審者、泊めるなんて家族に反対されないだろうか?
蒼汰がそう思って返答しかねていると、少年は背を向けて
「ほら! 来いよ。うちは俺しかいないから遠慮すんな」
「は?」
「親父たちはパリだし、おふくろはいないんだ」
キョトンとする蒼汰を置いて軽々とした足取りで土手を駆け上っていく。
「でも、名前も知らん同士やし……」
少年は土手の上で振り返ると、つまらなそうな顔をして蒼汰を見降ろした。
「アンタ、なんかの危険人物?」
「え、ちゃうけど」
どぎまぎする蒼汰に少年は呆れたような顔をして
「じゃ、いいじゃん。問題なんかある?」
「あれへん」
あるなら、停めっぱなしの車の事くらいだ。
「ほら、ついてこいよ。俺の気が変わる前にな」
随分勝手な少年だ。でも、不思議と嫌な感じはしなかった。
風呂にも入りたいし、久しぶりに布団で寝たいし。それに……。
蒼汰は壁画を振り返った。この世界を創り出した人間の事も知りたい。
「よっしゃ、お世話になるで〜!」
蒼汰は大きな声で少年の背中にそう言うと、少年は嬉しそうに振り返って手を上げた。
少年は家に向かいながら、色々よく話してくれた。歯に衣着せない口調ではあったが、その分ウソは付いていないようだ。
彼の名前は小川廻、季節がまた廻ってくるという意味で母親がつけたらしい。姓も母親のモノなのだそうだ。
蒼汰が車に荷物を取りに寄ると、背負ってきたバックパックの汚さに、廻はまた目を輝かせていた。
「すげ〜。親父の鞄みたいだ」
そういう彼は、年のそれより幼い顔に見えた。
聞けば、彼の家庭環境はかなり特殊であり、その上、彼の父親は蒼汰でも知っている有名な芸術家だった。
彼には父親が二人、母親が一人だった。それは、再婚という事情ではなく、本当にそういう家族構成であり、自分はどちらの子供か今もわからないそうだ。
しかも、その二人の父親は親子であり、母親が亡くなるまでは四人でパリで住んでいたと言う。
蒼汰は始め聞いた時、頭がこんがらがりそうだった。
つまり、父と息子で同じ女性を愛して、子どもができた。でもどちらの子供かはわからない。そして、彼らは共同生活を送っていたという事になる。
不思議な、家族の形だと正直、そう思った。