拒否する背中 6
「あぁ、そうやな。じゃ、ここはあえてオフにして…」
真剣な顔で、まるで間違い直しを教諭にする勤勉な学生の如く質問して来る蒼汰の表情を窺った。
神崎川が欲しいのはいつだって『本物』だけだった。
人工の世界が現実の世界を超えるには、『本物』以上の『本物』が必要だ。
しかし、通常の生活の中ではそう言った表情に出会う事はまずなかった。
人は普段、理性という名の建前や虚栄心、世辞、付き合い…様々なものを顔の上に厚塗りして、なかなかその本当の顔を見せない。
でも、梅田という男はそれがないように思えた。少なくともほかの人間よりずっと薄化粧だ。
そんな人間が、自分たちの深い所に関わり、今までも様々な表情を見せてきた。だから自分はゾクゾクしたのだ。
今回…この男に紅の妊娠を知らせればどんな顔をするのだろう。
「俺はホラーは微妙な日常とのズレが必要だと思うんだ。わかるか?」
塚口の言葉を借りるのなら、師匠面しながら心の中で蒼汰に優しく問いかける。
『今、自分に期待しているのか?』
『今、本気で目標に辿り着けると信じているのか?』
『今、無駄な努力はないと本気で思っているのか?』
だったら、好都合だ。
人間の『本物』の顔を見る、一番手っ取り早い方法は、希望の絶頂から一気に地に叩き落とすことなのだから。
「みんな、学祭クイーンが着いたぞ」
誰かの声がした。宴会の席の温度がさらに上がっていくのを感じ、話を中断すると視線の集まる方へと顔を向けた。
そう言えば、今年からミスコンを開催していたんだっけ。と神崎川は無関心にその見知らぬ後輩の横顔に目をやった。
自分の背中で蒼汰がいつもの調子で場を盛り上げているのが聞こえた。
いい場面だ。神崎川はほくそ笑んだ。そして立ち上がる。一同の視線が自分に集まるのを感じた。
「あ、注目ついでに皆に報告があるんだ」
一番早くに異変に気がついた塚口も、愚直な蒼汰も、神崎川の意図が分からず不思議そうな顔をしている。
「一つは去年の俺達の作品がアマチュア映画コンクールの最終予選に残った事」
「凄い!」
まっ先に蒼汰の声が飛んだ。
神崎川は、一度だけこの心底嬉しそうな蒼汰の方を確認した。
さて、この顔がどう変わる?
久しぶりに感じる高揚に目を細め、神崎川はゆっくりと口を開いたのだった。
何が聞こえたのか理解するまでに時間が必要だった。
目の前の光景が、まるで映画のワンシーンのように酷く綺麗で非現実的に感じられた。
蒼汰はもう一度、さっきの言葉を再生してみる。
何をどう解釈しても、答えは同じで、きっと事実は揺るぎようがない。
「なんや……それ」
蒼汰は思わずその場から逃げるように部屋を後にした。
皆の祝福の声がぼんやりと聞こえる。
『あと、今日ここに来てない中津だが、卒業と同時に結婚する事になった。そして、夏辺りに俺、父親になる予定なんだ』
耳について離れないその言葉。目の前が真っ暗? そんなものじゃない、自分が一体、今どこにいて、どこに向かおうとしているのかすらよくわからなかった。
「嘘やろ?」
勝負? 同じステージ? これから?
単語が飛び交い、追いかけてくる絶望に喉が干上がった。
始まる前に終わってしまったのか。
足元を見る。
こんな時にでも間違わずに両足自分の靴をキチンと選んで履いて出ているのが、何だかおかしかった。次いで、ようやく自分が外にいることに気が付き顔を上げた。
何のために、自分はここにいる?
何のために、これまで走ってきた?
何のために、何処へ行こうとしていたのだろう?
蒼汰は無意識に月を見つめていた。
冴え冴えとした光を宿すその今にも消えそうな三日月は、彼女の細い肩を思わせ、途端に胸が苦しくなった。
月は太陽の光を浴びて、夜空に輝くのに、その裏の顔は見せてくれない。
空も飛べない人間は、それでも月に恋をした。そして、本気で辿り着けると夢見ていた。
そう。夢だったのかもしれない。
「蒼汰くん」
誰かの声がした。
その声に、自分が泣きかけていたのを気付かされ、蒼汰は慌ててそれをかき消すように拭うと振り返った。
「藍ちゃん」
息せきった藍は、まるで自分が失恋でもしたような顔をして街灯の光を挟んだ数歩先でこちらを見ていた。
蒼汰は両手をポケットに突っ込み、前髪をかき回す。正直、今、慰められても答えようがない。
八つ当たりすらしてしまいそうなほど、今は何が何だかわからない。
「すまんけど、ほっといてくれへんか?」
「でも」
藍は夜の影から、その街灯明かりの下に一歩進み出た。
その表情がはっきり見えた瞬間、蒼汰は舌打ちしたい気持ちになり、代わりに目を反らした。
藍の目が……彼女自身の気持ちを語っていたからだ。
「嘘、やろ?」
信じられない気持ち、いや信じたくない気持ちで口の中で呟く。
気が付いてしまったのだ。こんな時に。彼女の自分への想いを。
「あのね、蒼汰くん。私ね……」
聞きたくない。
現実を拒絶するように目を瞑る。
さっきの青の楽しそうな顔が浮かぶ。
神崎川の幸せそうな顔が浮かぶ。
そして、彼女の紅の顔を思い出そうとしてうまくいかなかった。
心の中でも、彼女は自分に背中を向けていたのだ。
藍がもう一歩距離を詰める。決意を秘めたその瞳が痛々しくて、蒼汰は顔をしかめた。
やめろ、それ以上……
「蒼汰くんの事、心配で」
続けないでくれ。じゃないと……
「だって、私ね」
「邪魔やいうてるねん!」
蒼汰は爆ぜたかのように怒鳴り付けた。
限界だった。
藍の想いにだけではない、この現実すべてへの衝撃に定まらない心が、飽和状態の苛立ちや戸惑いに耐えきれなくなったのだ。
蒼汰は拳を固く握ると、藍に背を向けた。
そして唇を強く噛みしめる。
そうしていないと、泣かないでいる自信がなかったからだ。
なんでや? なんでや?
繰り返しまるで、この状況を責めるように繰り返す。
目的はいとも簡単に奪われ、好きな人はまるで違う世界に行ってしまい、そして親友の恋の邪魔者は自分だった。そんな現実を、どう受け入ればいいというのだろう?
「ごめんなさい」
震える声がした。泣かせてしまったのがわかった。
ゆっくり気配が遠ざかっていく。
でも、呼び止めるどころか、振り返る気にすらなれなかった。
冷たい季節の訪れに秋風が暗い夜空へ吹き抜けて行った。
「なんでやねん」
力なく呟いた声の上に、やり場のない悔しさが雫となって零れ落ち、月影にそれは救いようもないほど無力に感じた。