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Apollo  作者: ゆいまる
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拒否する背中 4

紅が自分の異変に気がついたのは10月に入ってからだった。

数日後に学園祭を控え、合宿後に一度だけ送られてきた蒼汰のメールに返信しようかどうか、迷い携帯を閉じた瞬間のことだ。

胃の方からじわじわと不快感が込み上げて来て、一瞬目の前が真っ暗になったのだ。

もともと貧血気味で、気をつけて鉄剤や水分を取るようにはしているのだが…悪感もするし風邪かとも思った。

とりあえず、これまでも躊躇っていた返信は、文章もまとまっていないので後回しにし体温計に手を伸ばしてみた。

秋風が残暑の熱をさらっていく窓辺に、気を紛らわせるために身を預ける。

小さな電子音に目をやると、やはり微熱があった。

紅は溜息をつく。

明日から学園祭の前日まで神崎川がまた東京へ行くので、今夜は外食をしようと約束していたのに…。

最近、痛まなくなった腕をさすってみる。

あの通夜の日以来、神崎川は手を上げたことがなかった。

仕事で行き詰って愚痴ることはあっても、不思議と紅には当たらない。その分煙草の量は増えた気はするが、表情は穏やかになった。

結婚の話こそしないが、春からの生活についてもポツリポツリと話し始めている。

これでいいのだと、思った。

紅は携帯に目を落とした。

本当に、そう心に決めたのならば、彼に…蒼汰にそのまま伝えればいい。

今のような関係のままでうやむやにして、卒業と同時に彼と離れることも出来はするだろうが、それはあまりもいい加減だと思った。

かといって、彼に「神崎川と生きていくことを決めた」と明言できない何かがあって…それが単に学園祭に顔を出すという簡単な返信ですら、させないでいた。

紅は窓から見える川に反射する光の揺らめきに目を細めた。

遠くで鉄橋を通過する電車の騒がしい音が聞こえた。

もう少しで桜の木の葉も色付く。その頃に一度、あの鉄橋の下の公園に行ってみてもいいかもしれない。

紅はまだ、すっきりしない霧がかったような頭の不快感に小さく息をついた時だった。

「?!」

胃が逆流する。

慌てて口を押さえ洗面場に走った。

全身に鳥肌が立ち、胃の中のものが洗いざらい吐き出される。それはまるで体そのものが何かを拒否しているかのようだった。

ようやく落ち着いたころには、眩暈はさらに酷くなり、何とか口をすすいでから紅は床に力なく倒れるようにへたり込んだ。

嫌な予感が頭をよぎる。

急いで最後にあった自分の周期的にくる体のサインの日を思い出す。

先月の末だあったばかりだ…まさか…。

紅はその疑惑を拭うように深く息をつくと、そっと自分の下腹部を見つめた。

「違う…わよ」

断定しようにも、何の材料もそこにはなかった。

ただ言いようもない不安だけが広がり、次いで「もし…」の想像が駆け巡る。

「ただの、風邪よ」

でも…紅は震える手でそっと腹に手をあてた。

もう一度「もし…」と頭の中で呟く。

横になればきっと良くなるはず。季節の変わり目よくひく軽い風邪だ。

だから…

紅は先ほど体温計を出した引出しの薬箱を見ないようにした。

だから…

今は薬を飲むのはやめておこう。

紅はそうやって自分に自分で言い訳をした。


妊娠を言い渡されたのは、神崎川が東京から帰ってくる前日、産婦人科ではなく行きつけの内科でだった。

この4年間、貧血で世話になっている主治医は、貧血の進み具合と症状から妊娠検査を勧めたのだ。

結果は陽性。

確定診断をするために同じ院内にある産婦人科へ回され、紅はその待合で一人で座っていた。

俄かに自分がこんな場所にいることが信じられなかった。

陽性の結果を言い渡されても、まるでリアリティがない。

そのくせ、初めてくるこの場所の異質な雰囲気に居心地の悪さだけは感じていた。知り合いがこんな場所にいるはずないのに、それでも誰かに出くわしたらと緊張し、隠れるように一番隅のベンチに腰かける。

周りはお腹の大きな妊婦や、新生児を連れた母親、小さな子供の手を引いた女性までいた。

みんな一様に穏やかで、幸せそうに見える。

紅はそっと自分の下腹部に目をやった。

ここに、自分以外の命がもう一つ宿っている?

信じ難かった。


一つの体に二つの命…

自分の中の別人…


そして


それは彼の命…

彼が生きている証


途端に不安を超えた言いようのない愛しさが込み上げてきた。

両手で抱えるように自分の身に腕をまわし、目を閉じる。

普段より早い鼓動が体内の血の巡りを思わせ、それは不思議と潮騒を思い出させた。

根源的な、生々しい本能から求めるものが、体内に宿るものを包もうとしているのを感じた。

それは、本当に不思議で奇妙な感覚だった。

刹那

何の前触れもなく、衝動が体中を駆け巡った。

何をおいても、これがどんな存在であろうと守りたい、大切にしたい…そういう衝動だ。

「あ…」

気が付くと泣いていた。

その手の甲に落ちた涙を紅は見つめる。

もしかしたら、神崎川はこの命を歓迎しないかもしれない。

でも…自分はこの命を守りたい。彼が生きている証拠を宿したその奇跡を手にしたのだ…絶対にふいにはしたくない。

無機質な機械音がして、外来診のモニターに自分の診察番号が表示された。

立ち上がる頃にはもう、紅の心は定まっていた。


この町への帰りをこんなに待ちわびたのは初めてだった。

神崎川は初めての彼女への土産を手に、自分の部屋には帰らず直接彼女の部屋へ向かっていた。

自分でも、こんな自分は滑稽でおかしかった。まるで梅田蒼汰のようだと苦笑する。

今回、東京で何人にもこんな自分の変化を指摘された。

それは仕事の事であったり、パーソナルな部分の事であったり様々だが、一様に皆が口にするのは「いい感じで力みが取れた」と言う事だ。

本当に、あの女からの呪縛から逃れられたのだと思った。

神崎川は駅から川沿いの彼女の部屋に向かいながら煙草をくわえた。

慣れた手つきで火を付ける。

駅前に張り出されていた学園祭のポスターのセンスの悪さを思い出して、再び苦笑した。

次いで「ほぅ」と夕暮れの空に白く濁った吐息を舞わせる。

通夜で見た女の負け犬のような惨めな姿を思い起こした。

自分の出生を思う時、言いようのない不快感に見舞われる。

自分にとって、妊娠や出産などというのは、人間の最も醜く生々しく厭らしい行為でしかなかった。

地球や歴史にとって癌細胞のような人間の増殖…それは欲に塗れた自己満足の集約にすぎない。

そんな存在の象徴であった女の死は、自分に大きな変化をもたらして何の不思議もなかった。

今は、紅と一緒にいるとただ安らぐ。

最近はあの『波』の訪れもなく、むしろ何かを生み出す瞬間は彼女を感じ深い悦びすらそこにはあった。

それが愛情なのだという人間もいるのかもしれないが、神崎川はそれには懐疑的だった。愛情などというものは元来人間にはないと思っているからだ。人々が愛情と呼ぶのは厳密にいえば自己愛他ならない。自己愛…すなわちエゴであり、欲に過ぎないのだ。

美しく装飾をどれだけ施したところで、血なまぐさい匂いは鼻についてくる。

だから…この彼女への気持ちに説明をつけるとすれば…。

神崎川は彼女の部屋の前まで来て、煙草を廊下に捨て靴の底で踏みつぶすように揉み消した。

「胎内回帰か?」

皮肉っぽく口にして苦々しい思いで唇を吊り上げた。

彼女を通して生まれ直す…それも面白いかもしれない。

そう思い、鍵をまわしたのだった。


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