拒否する背中 3
教授に連れて行かれたのは止まっているユースホテルから徒歩10分程度の焼鳥屋だった。
地元の人間しか訪れないような小さな店内に、芳しい煙が漂っている。
数人の客しか見えなかったが、寂れた様子もなく、かえってこの空間に味を感じさせるような店だった。
カウンターに並んで座り、教授が適当に注文した。
蒼汰にも何か尋ねてくれたが、結構さっきのバーベキューで腹は満たされていたので「適当につまみます」と答え、ビールを頼んだ。
教授の冷酒とジョッキを合わせる。
耳に聞こえるのは有線の演歌だ。
小さい頃、何かのドラマか映画で、息子とその父親がこう言った店で飲み交わすシーンを見たことがある。父親のいない蒼汰には憧れても一生手に入らない光景だったが、今、この状況はそれに似ているな、と少しはにかんだ。
「梅田君は」
教授の声がして顔を向ける。
髭面で、口元と目元に深い皺が刻まれている。
それだけでは決して若いという印象はないはずなのだが、不思議とこの教授には年よりはるか下に見えた。
それでいて、妙な力みがないというか、不思議な顔だと思う。
「映画部は好きかい?」
「はい。まぁ」
漠然とした質問に困り、とりあえず頷いてから、その理由を蒼汰は自分なりに考えてみた。
「もともと、映画は好きで、高校の時から真似事みたいなのはしてたんです。この大学に入ったのもぶっちゃけ、ここに入部したかったからですし……」
「学園祭か何かで来たのか?」
蒼汰は素直に首を横に振った。
「いえ。ショートムービーのコンペで神崎川先輩の作品を見たんです」
教授はそれを聞いて「ほぅ」と小さくため息のような声を漏らすと、途端に興味がわいたのかその真意を探るような探究心に満ちた瞳で蒼汰を眺めた。
「彼が一年の時のかね」
「はい。初めはネット配信でですが」
蒼汰は初めてその五分に出会った時の事を思い出す。
汗のかいたジョッキに目を落とし、あの興奮を目を閉じて呼び起した。
「それでも、感動しました。これでも、ガキのころから映画なんて無数に見ていて、目が肥えてるつもりだったんです。でも、あの五分は下手に製作費をかけた派手なだけの映画なんかよりずっと凄かった」
たった五分。しかも撮影場所も二か所で出演者もたったの三人。モノクロームで進む地味な内容だ。それでも、心のど真ん中を打ち抜かれるものがあった。
「で、神崎川に惚れて入部したわけだ。実際、奴に会ってどうだった?」
その質問に蒼汰は戸惑いながら目を開け、しばし考えこんだ。
正直、この教授がどこまで何を知っているか分からなかったし、何を意図しているのか分からなかったからだ。
教授はそんな彼の様子を察したのか、唇をアルコールで湿らせると
「中津ちゃんの事は、知ってるよ。ここに来る前に彼女に会ってきた」
「え?」
思わず弾かれるように顔を上げる。
そこにはいつものフザケタ子供のような教授の影は微塵もなく、すべてを知った上で、見守る大人の顔があった。
「彼女から、君の事を聞いてね。どんな男なのか興味があったんだ」
ここに連れてきた言い訳をするように言葉をつづけ、三宮は指を組んでそこに顎を乗せた。
「君は、神崎川という男がどんな奴だと思う?」
蒼汰はその名前に痛みを覚え、それに耐えるように軽く唇を噛んだ。
どんな……色々ありすぎて言葉にはできない。
正直、一緒にいれば居るほど、彼の才能や成長スピードを目の当たりにすればするほど、壁は高く厚くなっていく。その向こうの紅に手を伸ばしたくても、今は影すら触れられない。
走っても走ってもゴールがさらに速いスピードで遠くの方へ逃げていく。そんな感じだ。
「凄い、と思います」
「そうだな」
三宮は否定しなかったし、蒼汰の稚拙で言葉足らずな答えを問い詰めることもしなかった。 代わりに冷酒を飲みほし、お代わりを注文してから
「でも、奴も人間だ」
と付け足すように言った。
蒼汰は顔をしかめジョッキに口付ける。
それは、わかっている。わかっているが。
「紅先輩は、元気でしたか?」
話題をそらすのは卑怯かもしれないが、これ以上彼の事を話したくなかった。
蒼汰がそう聞くと、三宮はお代りを受け取ってから口を軽く笑みの形にした。
「あぁ。元気だったよ。夏用の半袖のシャツがよく似合っていた」
「?!」
蒼汰は顔を上げ、三宮を凝視した。
紅がこれまで半そでを着ることは滅多になかったからだ。
それは傷を隠すためであり、つまり半そでを着ているという事は……。
「そうですか」
良かった。と思わず笑みを零す。
三宮はそんな真っ直ぐな彼の横顔に苦笑した。
「君は、どっちを望んでいるんだ? 彼女が神崎川とうまくいくことか? 俺は、てっきり君は」
蒼汰は二三度瞬きをしてから、今度は彼が苦笑して見せた。
「白状しますわ。お察しの通り、自分は紅先輩が好きです。神崎川先輩をいつか超える作品を作って、彼女を奪うつもりです」
もう、今までにも何度か口にしてきた宣言は今も変わらない。ただ、改めて今聞くとずいぶん身勝手で曖昧な宣言にも聞こえる。
三宮はおくびもせずに言ってのけたその潔さに、目を細めた。
羨ましい。正直そう思う。自分の気持ちを恥ずかしがりもせず、勝敗に恐れもせず、挑戦することのできる若い力強さが。それが自分にあったなら、などと考えるほどにはもう若くはないが、少なくともこの青年に好感は十分持てた。
「そりゃ、頼もしいな。でも、神崎川は手ごわいぞ。これまで敗れて行った奴を何人か見たが、赤子の手を捻るようなものだった」
「それなら。大丈夫です。かれこれ、先輩たちに宣言して一年になりますから」
そうだ、ちょうど一年前の合宿だ。あの夜の事は絶対忘れない。
「一年も」
三宮はそれ感心するように呟くと、顔中を皺くちゃにして笑った。
「そうか、お前、結構見込みある奴なんだなぁ」
「あれ? 気づきはりませんでした? この、滲み出るオーラ。ただ者やないでしょ?」
いつもの調子でおどける蒼汰を三宮は頭からぐりぐりとやや乱暴に撫でた。
嬉しかったのだ、紅をそして神崎川をこんなに明るく、強く照らそうとしてくれる人間がいるってことが。
「まぁ、遠慮なく飲め」
「はい! 遠慮なくいただきます!」
蒼汰はジョッキを飲み干すと、元気よくお代りを注文した。
二人が幸せを願うその女性本人すら、まだ気づいていない異変を知る由もないその夜、蒼汰は本気で自分がその目標を達成できると思っていた。
先の見えないゴール。
それでも諦めさえしなければ手が届くのだと、まだ無邪気に信じていたのだ。